クミちゃんと映画を観た帰りに、評判のランチバイキング。
正午をはずれていたのでゆっくり座れた。
値段は 定価 1700円
70歳以上 1500円
80歳以上 850円
クミちゃんはまだ70代。わたし80歳。
写真のある証明をということでカードを提示。いやあ、齢をとるって得なことでした。
クミちゃんと映画を観た帰りに、評判のランチバイキング。
正午をはずれていたのでゆっくり座れた。
値段は 定価 1700円
70歳以上 1500円
80歳以上 850円
クミちゃんはまだ70代。わたし80歳。
写真のある証明をということでカードを提示。いやあ、齢をとるって得なことでした。
塩と砂糖の容器を並べてある。卵焼きを作って食べたら、ひどくしょっぱい。
あら、またやっちゃった、である。
砂糖と塩を間違えた。とてもじゃないけど食べられない。
先日も同じしくじりをしている。またやりそうなので
それぞれの容器に「塩」「砂糖」とマジックで大きく書いた。
しかし、これってそろそろ危ないんじゃないかしら。
小学四年生だった。
これだけは鮮明に覚えている。夜になっても寝つけなかった。
これがわたしの不眠を意識したはじまりである。
襖越しの隣の部屋では両親と叔父の三人がまだ起きて話声がしている。
寝つけないわたしは、人間はなぜ死ぬのだろう、とこのときはじめて思った。
死んだら生きて戻ってこれないのだろうと思うとこわくてやるせなくて、涙が出てきた。
隣の部屋に親がいても、これだけは助けてくれないと分かっていたようだ。
ひとりで布団のなかで泣いていた。
気づいた親は、どうしたのか、とびっくりして、こっちへお出でと布団から誘いだしてくれた。
大人だけでこっそり食べていたするめを細く裂いて、食べるようにすすめてくれた。
するめは好物だったし、大人だけの時間に誘われたのだが、こんなものでは騙されないぞ、
とわたしは思っていつまでも泣いた。
変な子だね、と大人たちは笑ってするめを食べていた。
あれがわたしの不眠の第一夜、死を恐れたはじまり。
孤独を知った最初である。
一昨年からにわかに目覚めたソフトバンフォークスのファンである。
なにごとにも熱くなるのはノンばあの悪い癖である。
一日のスケジュールは試合開始時間を見て決める。
6時試合開始であれば、夕飯の支度をすませて、
さあ、どうだとばかりにテレビの前にすわる。
ノンさんはソフトバンク戦を観るときは正座して観る……と人から笑われる。
何かをしながら観るなどということができない。
注視する、応援する、真剣に観る、昨夜は6時に始まった試合が
10時半ころまで続いた。その間、テレビの前にすわりっぱなし。
夜ごと夜ごと、数時間をソフトバンクにささげています。
さて、今日はデイゲーム。今日こそ勝って、お願い、と朝からそわそわしている。
父の姉である伯母と、弟である叔父がいる。
戦後復員してきた叔父はしばらく我が家の居候になっていた。
その居候先の我が家へ伯母が訪ねて来た。
深刻な食糧難時代である、お茶一杯、芋一本が貴重品で、
いつも誰もがお腹をすかせていた時代である。
外地から引きあげてきた弟を案じた伯母が、
どこで手にいれたものか、貴重なチーズ持参で会いにきた。
母にこれを手渡すとき、「シュクに食べさせてちょうだい」と言ったので、
母がカチンと来た。
たださえやりくりが大変で、我が子にさえひもじい思いをさせながらの叔父の居候である。
あなたも大変ね、少しだけど、みんなで分けて食べて頂戴……とでもいうのが、
母の期待した挨拶であったろう。
シュクに食べさせてと言われたのがよほど腹がたったらしい。
ずっと、根に持って、後々私たちが成人したあともなにかのときにはこれを聞かされた。
衣食足りて礼節を知るというが、いまどきの飽食の時代なら、
なあんだ、チーズかあ、叔父さんチーズ好きなの、で済んだ話であろう。
父方の叔父は、戦前は台湾で商売をしていてその後上海にわたり、
そのまま終戦を上海で迎えたらしい。
上海では現地の女性との間に子まで生し、日本には戻りたくなくて
現地の人の歩き方を真似て居残ろうとしたと聞く。
しかし、おそらくばれて強制的に帰国させられたのだろう、着のみ、着のままで帰ってきた。
わたしたちがここの長屋に移っていることなど知る由もなく、父の職場である議事堂を訪ね、
わたしたちの住む現住所を教えてもらい、ようやくたどりついたのである。
食糧難の二間きりの家に転がり込まれて、母は大変だったと思う。
いつもの美容院へ行った。
まだ学校を出たばかりのオニイチャンが、洗髪をしてくれた。
席に移る前に、お手洗いは大丈夫ですか、と訊かれた。
「ええ、大丈夫」
カットとパーマはベテラン美容師が担当してくれたあと
さっきのオニイチャンが洗髪をしてくれた。そしてまた
「お手洗い大丈夫ですか」と訊かれた。
「せっかくだから、行っておこうかしら」
トイレを借りた。
それからカラ―のあと、再度シャンプーである。
そして、またまた、お手洗いは大丈夫ですか、ときた。
ははん、きっと彼には私くらいの齢の祖母がいるのだ、と察して、
「おばあちゃんはおいくつ?」と訊いてみた。
「63歳です」という。
「えっ、そうなんだ」
ちょっとショックである。ことわっておくが、ノンバアチャンは80歳である。
「じゃあ、ヒイおばあちゃんは?」
彼はちょっと思案したあと、たしか、80何歳かでしたという。
そうかあ、わたしはヒイおばあちゃんなんだ、とあらためて納得した。
年寄りだ、年寄りだと口で言うわりには実際の自覚が足りなかった。
なるほど、ヒイばあちゃんなら、トイレの心配はしてくれて当たり前なのだ。
ありがとう。
昨秋、買ったミニシクラメンである。
秋から冬、春まで、見事に咲き続けて楽しませてくれた。
夏になってしばらく花は咲かなくなった、しぜんに葉が枯れるかと見ていたら、あにはからんや、
この酷暑にめげず、莟がつき、花が開いた。お見事、ど根性シクラメン!
父の弟のシュク叔父さんが復員してきた。
正確な年度は覚えていないが、わたしたちが小松川にいたのは、
終戦から昭和23年までだから、その3年のうちのいずれかの日のことである。
長屋には路地に向かって手すりのついた窓があった。
なんでわたしが手すりのところにいたのかは記憶にないが、
とにかくぼんやり外を見ていた。
向こうから父とそっくりのオジサンが歩いて来るのが見えた。
誰か来た! とわたしは、家の中にいる母にむかって叫んだ。
初対面でも、それが他人でないと咄嗟に了解出来た。
着ているものも、歩く姿も父でないのに父にそっくりな「誰か」が来た。
そうして誰かは、やっぱり我が家の玄関の前で足を止めた。
それからしばらく叔父さんは我が家の居候になった。
今朝はまた驚き! なんと一本の株に白とピンクが二つ咲いてました。
買った時のタグには「青色」とあり、写真もブルーでした。
一昨日の初花が、白。昨日がピンク。今朝は白とピンクが仲良く咲いてました。
ついでに、毎朝豪華に咲いて楽しませてくれるこちらも。