風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

近視悲喜劇

2018-09-21 21:31:48 | 昭和つれづれ

 昨日の近視の話のついでに、わたしが会社勤めをするようになったころの話にちょっと飛ぶ。

 恋人というほどではないが、ようやくつきあいのはじまったばかりのボーイフレンドとドライブに行った。

広い高原のようなところで、ちょっと彼とはぐれた。

あれ、どこへ行ったかと見渡したら、木陰で向こうをむいて立っている。

ああ、いたいた、とそこまでわたしは全速力で駆けだした。

直近まで近づくと、なんと彼は立ちションをしているところだった。

近視のわたしはそこまで行ってはじめて気づき、きゃっと言った。

彼も途中でとめるわけにもいかず、ばつが悪そうにしていた。

それでというわけでもなかろうが、彼とは長くつきあうことにはならなかった。


近視あれこれ

2018-09-20 22:59:42 | 昭和つれづれ

 近視で眼鏡を買ってもらえなかったわたしは、

近所のおばさんたちから挨拶もしない子だといわれないために、

家の近くまで来ると、顔が分からなくても、誰彼かまわずコンニチハと挨拶をした。

その日も、向こうから誰かが来たので、コンニチハとお辞儀をして通り過ぎようとした。

「あらまあ、お帰りなさいませ」と気取った声で返ってきた挨拶は母の声だった。

むろん、母はわたしが見えていないことを承知で冗談で対応していたのだ。

顔は見えなくても、親の声はさすがに聴き分けられる、

それで アハハハと親子で笑いあったのだからのんきなものだった。

 


メガネ

2018-09-19 22:58:18 | 昭和つれづれ

 中学生になったときにはすでに黒板の字が見えないくらい近視がすすんでいた。

眼鏡を買ってほしいと親にいうと、

女の眼鏡は器量が三分さがるといわれ、

おまえの器量で三分下がったら取るとこなくなると父親が言い、

眼鏡は買ってくれなかった。

今なら言葉による虐待と言われても仕方ない話かもしれない。

ははん、わたしは不器量なのだと悟ったが、それで父を恨むこともなかった。

国語や社会科なら黒板が見えないでも教科書を見ていればよかったが、

数学なんか、先生が黒板をつかって数式を解くのが見えないのだから

理解できるわけがなかった。

数学ぎらいは

あのとき父が眼鏡を買ってくれなかったからかもしれないと思うが、

だからといって親に反抗した覚えもない。

あんなことを言ってたけど、

ほんとうは五人の子を食べさせるので手いっぱいで、

眼鏡を買ってやる余裕がなかったのかもしれない。


芸事

2018-09-16 12:37:16 | 昭和つれづれ

 昭和20年代の中学時代、同じクラスの男子生徒でヴァイオリンを習っている子がいた。

学芸会で披露したが、キイコキイコと習い始めたばかりの音を聴かされ、

そのせいかどうか、ごく最近までわたしはヴァイオリンの音色を苦手とした。

しかし、考えてみればあの時代にヴァイオリンを習わせる親がいたというのは特筆すべきことかもしれない。

今も親しくしているセッチャンは橘秋子のバレー教室でバレエを習っていた。

日本舞踊を習っている子もいて、着物姿で学芸会で踊った。この子は芸者置き屋の養女でのちに芸者さんになった。

 わたしが六年生まで通った小学校には

ピアノもなくて、ただひたすら声を張り上げて歌うのが音楽の時間だったのに

 麹町中学になって回りのみんなが音符が読めるのにびっくりした。

音符で歌うテストもあった。

 貧乏公務員だった我が家庭では習い事など望めず、

昔幼稚園の先生をしたことがあるという叔母に来てもらい、五線譜の読み方を特訓してもらった。

ミーレドミレドードーシラ~~はるかなるふるさとーーその頃覚えた歌は不思議なことに

70年経ったいまも忘れないものである。

 


番町、麹町、日比谷

2018-09-15 22:31:12 | 昭和つれづれ

 番町小学校、麹町中学、日比谷高校、東大というのが、昭和の戦後しばらくのエリートコースであった。

全部公立だが、当時は公立のほうが幅をきかせていた。

公立だから、本来その地区に居住していないと通えない。

それでもこの地区で通学させたい親は、寄留といって、知り合いとか親戚の家に住民票を移して越境入学をさせた。

もう70年近く昔の話で、時効だから書くが、

よその地区の実家から電車で通う生徒や

他県に住んでいながら子どものために東京に別邸を構える親もいた。

昭和20年代当時から教育パパママはいたのである。

さすがに女子で越境通学者はいなくて、生徒数は女子より男子のほうが多かったはずである。

そういう子どもの親の仕事は、医師、弁護士、外交官、自営業などが多かった。

特別な地域だったな、と思うのは後年になってからで、

その渦中にいればそれが当たり前のようで、子ども同士がそれでどうということはなかった。

わたしの父は貧乏公務員で校区内の官舎に住んでいた。

今と違って公務員は貧乏の代名詞みたいな言われ方をした時代である。


二七の縁日

2018-09-11 22:37:32 | 昭和つれづれ

 二七の縁日のことはたしか吉行淳之介が何かに書いたのを読んだ記憶があるが、

読み返してみたいと思うがいまそれがどこに書いてあったか思い出せない。

東郷公園の前の九段と番町を東西に走る通りが二七通りで、

二七不動尊があることから二と七のつく日、つまり月に六日も縁日が出た。

むろん金魚すくいも綿あめもあるが、もっと日常的な雑貨金物もあったような気がする。

植木、瀬戸物、衣類など、こんど二七の日に買おう、と大人もこの日を心待ちにしたのではなかったか。

コンビニもスーパーもホームセンターもなかった時代である。

わたしの記憶はもう七〇年も昔のことだから、今も縁日があるかどうかは分からない。

 母に連れられ、きょうだいでぞろぞろ歩くと、近所の顔見知りの子供たちと一緒になったりして

心楽しい時間であった。

 うちの父はあまりついてくるような人ではなかったが、いつもは厳しそうな近所のおじさんが

妻子を引き連れて歩くようすなども子ども心に微笑ましく、羨ましくも思ったことである。

 


四番町界隈

2018-09-09 12:46:14 | 昭和つれづれ

 官舎の回りは、通りひとつ隔てて千代田女学園があり、

官舎隣には大手建設会社の社長宅、そのすぐ向こうの東郷坂は三番町と四番町を隔てる坂で、九段小学校は三番町。

わたしの弟妹4人はみな九段小学校卒業である。平凡社、化粧品のキスミーも近かった。

東郷公園は妹弟たちの遊び場で、よくライオンの像によじ登って遊んでいた。

たしか今は鎖が張られ立ち入り禁止。ライオンには触れられないようになっている。

鼻のあたりが欠けているけど、弟達はあれはもしかしたら僕たちがよじ登ったときに壊したのかもしれないと言っている。

能見防災は官舎を出たすぐ目の前の会社だった。

当時はどちらかといえば小さな町工場のような存在だったが、今や一部上場の一流企業である。

夏になれば窓を開け放して制服姿の作業している社員をよく見かけた。

エアコンなどどこにもなかった。角にサツマイモの壺焼き屋があり、そこから向こうが二七通りであった。


四番町の官舎

2018-09-06 18:06:22 | 昭和つれづれ

 わたしと次妹と長弟の三人は目黒区で生まれた。

母と四人で疎開したが、終戦の年の八月にさっそく帰京したのは江戸川区であり、

そこに3年半ほどいる間に次弟が生まれた。

その後港区に移って末っ子の妹が生まれ、これで5人きょうだいがそろった。

港区高輪には1年半ほどしかおらず、今度は千代田区4番町2へ移った。

この所番地だけははっきり覚えているのは、我が家がここで過ごしたのが一番長かったからである。

きょうだい5人、およそここで成人を迎えた。

 


軍票

2018-09-03 21:50:09 | 昭和つれづれ

 軍票とは軍用手票の略。軍用手形,軍用切手とも。

戦地もしくは占領地で軍費支弁のため軍隊または政府が発行する特別の紙幣。

日本では、日露戦争、日中戦争、第一次、二次大戦、その都度、大量に発行されたらしいが、

これは、おそらく第二次大戦時のものであろう。

 政府が発行しても、戦争が終われば紙切れとなる。

      


高松中学入学

2018-08-31 11:03:56 | 昭和つれづれ

高輪台小学校を一年ちょっと通ったあと、昭和24年新設の高松中学へ入学した。

高松という校名は、畏れ多くも高松宮邸敷地の一部にあるので、この校名がついた。

校旗も高松宮親王がデザインされたものと聞く。

宮邸敷地内であるから、緑の多い恵まれた環境である。

しかし、戦後間もないことで学校にプールなどはなく、

盛夏のある日、わたしたちは宮家のプールを使用させてもらったことがある。

今なら考えられないことで、噓! と言われるが、ほんとの話である。

宮様のプールに入ったことがある者などそうはおるまいから自慢していいことかもしれない。