風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

ラッキー

2018-09-30 22:24:17 | 旅行

 さっきソウルから帰国した。

滞在中の3日間は快晴であった。

日本には台風が接近しているというのに海一つ隔てたソウルにその気配はなかった。

しかし帰りの飛行機が飛ぶかどうか心配したが、予定時刻になにごともなく帰国便に乗れた。

飛行中の揺れもさほどのこともなかった。

 空港から自宅までのタクシーの運転手さんによると、

こちらはけっこう荒れましたよとのこと。

 弟の乗ったソウルー羽田間の飛行も定刻通りに到着したと報告があった。

博多駅で別れて新幹線で帰った妹から電話があり、無事に帰宅したけど、

広島―博多間だけが動いていて、在来線は全部運休だったそうである。

わたしたち、それぞれ台風の間隙をぬうように帰宅できて、ラッキーだったのよとのことである。

 観光地へはどこへも行かず、よく食べてよく喋っただけの兄妹再会の旅だったが

全員無事に帰宅できてなによりだった。

 


ソウルは近しされど外国

2018-09-26 17:41:52 | 旅行

 ソウルは東京へ行くより近い。飛行機で一時間二十分ほどである。

なに、ほんのすぐそこである。

誘われて、行く行く、と言った。

 しかし、間近に迫ってみると、どうやら朝晩は冷えるらしい。

カーデガンを鞄に入れた。カーデガンだけでは心配で夏物のスラックスを厚手にかえた。

念のためにホカロンも持った。

携帯用の電池の類は手荷物にしたほうがいいというので、充電用の器具も何個か手荷物にいれた。

老人の常で薬も必需品である。

喘息発作時の吸入薬はひょっとしたら麻薬扱いになりはしないかとこれも手もとのバッグの中である。

さて、これでよし、とこの日のために買ったお洒落な水色のバッグを持ち上げたら、ずしりと重くて腰にひびく。

こりゃあ、だめだ、むか~しオジイサンが旅行に行くとき背負っていたリュックサックにかえた。

 ソウルは近し、されど外国、おまけに台風も接近している。

 老人は老人らしく近場の温泉にしておけばよかった。

 


近視悲喜劇

2018-09-21 21:31:48 | 昭和つれづれ

 昨日の近視の話のついでに、わたしが会社勤めをするようになったころの話にちょっと飛ぶ。

 恋人というほどではないが、ようやくつきあいのはじまったばかりのボーイフレンドとドライブに行った。

広い高原のようなところで、ちょっと彼とはぐれた。

あれ、どこへ行ったかと見渡したら、木陰で向こうをむいて立っている。

ああ、いたいた、とそこまでわたしは全速力で駆けだした。

直近まで近づくと、なんと彼は立ちションをしているところだった。

近視のわたしはそこまで行ってはじめて気づき、きゃっと言った。

彼も途中でとめるわけにもいかず、ばつが悪そうにしていた。

それでというわけでもなかろうが、彼とは長くつきあうことにはならなかった。


近視あれこれ

2018-09-20 22:59:42 | 昭和つれづれ

 近視で眼鏡を買ってもらえなかったわたしは、

近所のおばさんたちから挨拶もしない子だといわれないために、

家の近くまで来ると、顔が分からなくても、誰彼かまわずコンニチハと挨拶をした。

その日も、向こうから誰かが来たので、コンニチハとお辞儀をして通り過ぎようとした。

「あらまあ、お帰りなさいませ」と気取った声で返ってきた挨拶は母の声だった。

むろん、母はわたしが見えていないことを承知で冗談で対応していたのだ。

顔は見えなくても、親の声はさすがに聴き分けられる、

それで アハハハと親子で笑いあったのだからのんきなものだった。

 


メガネ

2018-09-19 22:58:18 | 昭和つれづれ

 中学生になったときにはすでに黒板の字が見えないくらい近視がすすんでいた。

眼鏡を買ってほしいと親にいうと、

女の眼鏡は器量が三分さがるといわれ、

おまえの器量で三分下がったら取るとこなくなると父親が言い、

眼鏡は買ってくれなかった。

今なら言葉による虐待と言われても仕方ない話かもしれない。

ははん、わたしは不器量なのだと悟ったが、それで父を恨むこともなかった。

国語や社会科なら黒板が見えないでも教科書を見ていればよかったが、

数学なんか、先生が黒板をつかって数式を解くのが見えないのだから

理解できるわけがなかった。

数学ぎらいは

あのとき父が眼鏡を買ってくれなかったからかもしれないと思うが、

だからといって親に反抗した覚えもない。

あんなことを言ってたけど、

ほんとうは五人の子を食べさせるので手いっぱいで、

眼鏡を買ってやる余裕がなかったのかもしれない。


旅行前と病気

2018-09-18 23:04:03 | 旅行

 月末に韓国へ妹と旅行する。

だけど、わたしはこのところしつこい蕁麻疹に罹っている。

ドクターストップがかけられたけど、ねばったら、まあ、ゆったりと無理しないという条件で

薬を出しましょうと言ってくれた。

その旨、妹に報告したら、電話の向こうで妹がせせら笑った。

お姉ちゃんはいつか中国に一緒に行ったときも、その朝にヘルペスを発症したじゃない、

海外旅行の前は必ずどこか悪くなるんだから。

そうだった、そうだった。

スペインのときは硝子体剥離で眼帯をして行った。

ドイツへ行く前はひどい咳で、肺癌かもしれない、最後の旅行だと覚悟したら、

友だちがそんな気分で旅行してもつまらんから、白黒はっきりさせろと

強引に車に乗せて呼吸器科へ連れていかれた。

結果、気管支炎であった。

お腹をこわしてほとんど食べられない状態のときもあった。

ヘルペスのときは、上等の老酒を土産に

家に帰るよりさきに空港からまっすぐ医者のところへタクシーを走らせた。

ヘルペスは顔面だったから、痛いし、お岩さんみたいに腫れて、あれでよくも行ったものだ。

海外旅行は楽しみと心配が背中合わせでストレスとなって身体が反応するのだろう。

つまりいかに小心で臆病者かという表れであり、妹がせせら笑う所以である。

 何があるか分からないので、保険だけはしっかりかけた。

 さあ、どんとこい、である……と言ってまた妹に、

韓国は東京より近いのよ、いまどき韓国行きくらいでとまた嗤われた。

 


観覧車の見える風景

2018-09-17 16:46:58 | 日記

   昨日図書館の帰り、間違えて終点まで止まらない特急バスに乗ってしまった。

おかげで久しぶりにバスの中からこの景色を眺めた。

 

 観覧車のゴンドラには一組しか乗っていないように見えた。

          

     

 


芸事

2018-09-16 12:37:16 | 昭和つれづれ

 昭和20年代の中学時代、同じクラスの男子生徒でヴァイオリンを習っている子がいた。

学芸会で披露したが、キイコキイコと習い始めたばかりの音を聴かされ、

そのせいかどうか、ごく最近までわたしはヴァイオリンの音色を苦手とした。

しかし、考えてみればあの時代にヴァイオリンを習わせる親がいたというのは特筆すべきことかもしれない。

今も親しくしているセッチャンは橘秋子のバレー教室でバレエを習っていた。

日本舞踊を習っている子もいて、着物姿で学芸会で踊った。この子は芸者置き屋の養女でのちに芸者さんになった。

 わたしが六年生まで通った小学校には

ピアノもなくて、ただひたすら声を張り上げて歌うのが音楽の時間だったのに

 麹町中学になって回りのみんなが音符が読めるのにびっくりした。

音符で歌うテストもあった。

 貧乏公務員だった我が家庭では習い事など望めず、

昔幼稚園の先生をしたことがあるという叔母に来てもらい、五線譜の読み方を特訓してもらった。

ミーレドミレドードーシラ~~はるかなるふるさとーーその頃覚えた歌は不思議なことに

70年経ったいまも忘れないものである。

 


番町、麹町、日比谷

2018-09-15 22:31:12 | 昭和つれづれ

 番町小学校、麹町中学、日比谷高校、東大というのが、昭和の戦後しばらくのエリートコースであった。

全部公立だが、当時は公立のほうが幅をきかせていた。

公立だから、本来その地区に居住していないと通えない。

それでもこの地区で通学させたい親は、寄留といって、知り合いとか親戚の家に住民票を移して越境入学をさせた。

もう70年近く昔の話で、時効だから書くが、

よその地区の実家から電車で通う生徒や

他県に住んでいながら子どものために東京に別邸を構える親もいた。

昭和20年代当時から教育パパママはいたのである。

さすがに女子で越境通学者はいなくて、生徒数は女子より男子のほうが多かったはずである。

そういう子どもの親の仕事は、医師、弁護士、外交官、自営業などが多かった。

特別な地域だったな、と思うのは後年になってからで、

その渦中にいればそれが当たり前のようで、子ども同士がそれでどうということはなかった。

わたしの父は貧乏公務員で校区内の官舎に住んでいた。

今と違って公務員は貧乏の代名詞みたいな言われ方をした時代である。


二七の縁日

2018-09-11 22:37:32 | 昭和つれづれ

 二七の縁日のことはたしか吉行淳之介が何かに書いたのを読んだ記憶があるが、

読み返してみたいと思うがいまそれがどこに書いてあったか思い出せない。

東郷公園の前の九段と番町を東西に走る通りが二七通りで、

二七不動尊があることから二と七のつく日、つまり月に六日も縁日が出た。

むろん金魚すくいも綿あめもあるが、もっと日常的な雑貨金物もあったような気がする。

植木、瀬戸物、衣類など、こんど二七の日に買おう、と大人もこの日を心待ちにしたのではなかったか。

コンビニもスーパーもホームセンターもなかった時代である。

わたしの記憶はもう七〇年も昔のことだから、今も縁日があるかどうかは分からない。

 母に連れられ、きょうだいでぞろぞろ歩くと、近所の顔見知りの子供たちと一緒になったりして

心楽しい時間であった。

 うちの父はあまりついてくるような人ではなかったが、いつもは厳しそうな近所のおじさんが

妻子を引き連れて歩くようすなども子ども心に微笑ましく、羨ましくも思ったことである。