風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

鉛筆削り器

2018-04-18 14:49:24 | 思い出

 今年、50歳になる息子が小学校入学ときに

私の母が、入学祝いに贈ってくれた電動鉛筆削り器である。

その後、息子より、私の方がはるかにこれの世話になった。

シャープペン全盛のご時世だが、わたしはいまでも鉛筆派である。

ガガーガガー、と40数年、よく働いてくれたが、

さすがにガタツキはじめたので買い直した。

 金一封もありがたいが、形に残る思い出の品をくれた亡き母に感謝。

ナショナルさんは、さすがだったなあ。

 


衣替え

2012-09-22 11:58:16 | 思い出

                     朝晩めっきり涼しくなった。

                風子は寒がりだから、涼しいのを通り越して、

                           もう寒い!

 

                押し入れからあわてて長袖を引っ張り出す。

 

                 夏物と冬ものを入れかえるこの時季は慌ただしい。

 

                            昔の人は大変だった。

 

                            布団の打ち直し、縫い直し、

                      着物だってほどいて洗い張りしてまた縫いあげる。

 

                       シーツもシャツもタライと洗濯板で、ごしごし洗う。

                        お釜で炊くご飯がふきこぼれないように、

                  はじめチョロチョロナカパッパなんて、見張らないといけない。

 

                              昔の女は偉かった!

 

                        押し入れから自分の衣類を出すくらい、大変なんては言えないなあ。


ありふれた話

2012-02-24 10:05:20 | 思い出
            妹のリョウちゃんが、
        大阪の茨木市に住んでいたころのことである。

       東京の両親が、新婚まもないリョウちゃん宅を訪ねた。

     リョウちゃんは妊娠中だったが、せっかく来てくれたのだからと、
          両親を京都へと案内した。

       お腹の大きなリョウちゃんは、清水寺の下で待つことにして、
         父と母は二人で清水の舞台へと上がった。

       しばし見物のあと、下りてきたら、リョウちゃんの姿が見えない。
      むろん、あたりを探したり、戻ってみたり、と右往左往したのだろうが、
           結局、人ごみの中で、はぐれた。

  しばらく探したが、気分でも悪くなって帰ったのかもしれないということになって、
          両親は、茨木まで戻ってみると、
     アパートのドアはカギが閉まっていて、帰宅した様子はない。

       さては、まだどこかで待っているのだろうかと、
    父だけもう一度京都まで行って戻って、結局どこで再会出来たのかは、
     もう忘れたが、リョウちゃんは清水寺で4時間も待ったそうである。

            待つ方も大変だったろうが、
       京都と茨木を行ったり来たりの一日だった父は、
    リョウコが灯篭の影になんか座っていたから悪いと文句を言ったらしい。

     これもケイタイなんかなかった時代には、わりにありふれた話である。

父からの便り

2012-02-23 11:10:32 | 思い出
       風子は長女だったせいか、母とはとくに仲が良かった。
       実家へ泊まりに行くと、日付の変わるまで喋っていた。
  
         一度寝た父が、トイレに起きてきて、
     何だ、お前たちは、まだ喋ってたのかとあきれたりした。

     そんなわけで、母の思い出は多いが、父の思い出は少ない。

         ところが、古い手紙を読み直していたら、
      意外なことに、父もけっこうマメに便りをくれていた。
  朝顔が咲きました、とか、いま役所から帰ったところです……などと書いてある。

        一番下の妹はとくに父親に可愛がられていた。
     彼女が、九州の風子のところへ遊びに来ると東京を出て、
    広島へ寄り道をしたときなど、何通ものハガキが風子のところに届いて、
          父を心配させている。

     途中下車で広島の知人を訪ねることは出発前に言ってあったのだろうが、
        5日も滞在するとは言ってなかったのだろう。

      このハガキが着いて、まだリョウコがそちらへ行かないときは、
       自分が広島まで行ってみようかと思う、とまで書いてある。


すでに社会人だった妹を、新幹線で広島まで所在を尋ねて行こうと考えるような人だったのかしら、と今ごろになって思いがけない父の一面を見ている。

      今の若い人には通じないだろう、携帯電話などなかった時代の話である。

訪問

2012-02-22 11:43:47 | 思い出
        古い母の手紙に、
    今日は急に用が出来て、銀座まで行ってきました、とある。
 
       夕方、帰宅したら、留守中に、ビンちゃんが来たそうで、
        会えずに残念なことをしました、と書いてある。

         そのころ、妹のビンちゃんは、
     実家の母のところまで新宿から私鉄に乗り換えて一時間もかかる所に住んでいた。
         まだ生まれたばかりの男の子をおんぶして、
          母に会いたくてきたのだろう。
 
        あのころは、携帯電話などもなかったから、
    ちょっと行ってみようか、というときにこのように会いそこなうことは珍しくなかった。

        だから、母も、外出の予定ができると、嫁いだ娘たちに、
         ×日×曜日、歯科行き、〇日 展覧会、とか
           前もってハガキなどで知らせてくれた。
 
      今日は多分いるだろう、天気がいいから、ちょっと実家へ行ってみようか。
         見当で行くのだから、急用で居ないこともある。

         鍵は犬小屋の後ろあたりに隠してあるので、
          上がって、一休みしながら待つ。
             ダメなら諦めて、
   「来ました、ビン、また来ます」などと、そのへんの紙に書いて帰るのである。

      せっかく来てくれたのに残念でした……などと慌ててハガキを書いても、
   それが届くのはまた数日後で、まあ、ほんとに今の人には考えられない長閑なことだった。
 
        今から40年ばかり前のことである。

        若い人にとって40年は、生まれる前の大昔だろうが、 
      ばあさん達には、たった40年、ついこの間のことなのである。

       ああ、懐かしいなあ。 届きそうでもう届かない日々である。

お手紙ありがとう

2012-02-19 11:36:38 | 思い出
     
        折々に処分してきたつもりだが、
         古い手紙の束がまだ大量にあった。
      捨てる前にと読みはじめたら、三日かかっても終わらない。

      昔の人間はよくも手紙を書いたものだと感心する。

      風子が世帯を持ったころは、まだ我が家に電話はなかった。
       むろん、携帯もパソコンもファクスもないから、
     郵便は大事な伝達手段であった。たいがいのことは郵便ですませた。

      結婚してまもなく、東京から九州に移った風子は、
       両親が恋しくてせっせと手紙を書いた。

      両親も忙しいのに、よく返事をくれた。 
      
     「お手紙ありがとう」で始まる手紙が多いから、
      こちらも大量に出していたとわかる。

      ×月×日、博多駅に何時到着、迎えに出てください、
       などという父のハガキもある。

      今なら、メールでたちまち、ピッといくところだが、
       郵便だと数日かかった。

      まだハガキ、届きませんという手紙もある。

       ハガキと手紙、二通一緒に届きました、
    このつぎから、投函日を記入してくださいなどと書いたのも出てきた。

        どちらも三日にあげず手紙を書いていたのだ。
     気が遠くなるような一昔が、目の前に束になってここにある。

新婚旅行

2011-12-24 15:02:18 | 思い出
     昨日の、昭和の新婚旅行についての続きである。

     新婚旅行には、なぜか、新婦がみな、帽子をかぶった。

     べつに、そのころ帽子が流行っていたわけではない。
    いわば新婚旅行の制服みたいなものだった。

     今の皇族方が被るような帽子を被るのが定番だった。

     行く先は熱海か、別府あたりで、
    駅のホームには同僚や友人が見送りに集まった。

     披露宴からそのまま旅行というケースが多く、
    友人たちはたいがい少しお酒が入っていた。

     ホームでは、バンザイ、バンザイが叫ばれる中、
    新婚さんは列車に乗り込む。
    これ、ごく普通の眺めであった。

     今のひとたちなら恥ずかしくて出来ないだろう。

     そのかわり、離婚をすれば「出戻り」と言われ、
    結婚前に妊娠でもしたら、お腹の目立たぬうちにと、
    取り急ぎ式が行われた。
     そういうことは恥と言われた。

      どっちが恥なのか……。今考えるとおかしい。

      できちゃった婚という言葉も、
     バツイチという言葉もなかった時代のことである。

      あれもこれも、時と共にうつろう。

デンセン

2011-12-22 22:17:59 | 思い出
     必要があって、「昭和の値段史」という本を見ていた。

     なんと、昭和30年、初任給が6000円前後の頃、
    ナイロンストッキングは、一足400円もしていた。

     今日、サークルでその話をしたら、
 「そうそう、今のようにデンセンしたらポイと捨てるなどというわけにいかなかったよねえ」
 「デンセン一本30円だか、50円だかで、修理をしてくれる商売があったわねえ」
     と大いに盛り上がった。

     それから、なぜか話は新婚旅行に発展した。

     東京の人間の行く先は、伊豆か熱海と相場が決まっていた、    
    ちょっとお金持ちになると九州は宮崎辺りまで足を延ばしたのよと
    風子が言った。

    すると、誰かが、  
   「九州では、フツーが別府か雲仙あたりで、
    お金持ちが熱海へ行ったんですよ」と言った。

      ナルホド。

    その少しあとになると、紀州は白浜温泉あたりが人気だったねえ。

    そうそう。

    今のようにハワイでもイタリアでもなかったけど、
   それで充分幸せだったねえ。

     デンセンしたストッキングに共感した世代は、
    つつましく頷きあって、一年を締めくくったのである。
 
   

英語教育

2011-05-27 11:06:46 | 思い出
    
   60年前の中学校、英語授業のことである。

   新一年生の教室では、線のある帳面で、
  大文字、小文字、筆記体のアルファベットの練習をしていた。

    今の中学生なら、
 「なんだよう、今ごろ、ABCなんて、冗談じゃねえや」
  というところだろう。

   なにしろ終戦直後のことである。
  英語教師本人が、外国なんか一度も行ったことがないのが当たり前。
  今なら子供でも、もう少しましな発音の イット イズ ペン がやっとのレベルである。

   中に、トッポイ生徒が一人いて、手を上げた。

  「先生、キッス オブ ファイヤーってどんな意味ですか」

   先生は顔を真っ赤にして、家に帰ってご両親にお聞きなさい、と言った。

   ふうん、と思って帰宅した風子は、
  母ではわからないだろうからと、父の帰宅を待って、
  「ねえ、キッス オブ ファイヤーってなんて意味?」
   と真顔で聞いた。

  父は真っ赤になって、そんなことは学校で聞け! と怒鳴った。

   若い人には、作り話のように聞こえるだろうが、
  キッスって何をするのか? 知らないのがふつうの子供たちだった。
  昭和20年代の実話である。

  嘘と思うなら、ジイサン、バアサンに聞いてみなさい。
  ジイサン、バアサンは、今でもきっと顔を赤くするよ。

石坂洋次郎 くちづけ

2011-05-26 09:52:13 | 思い出

 「青い山脈」「若い人」は、昭和の人気作家石坂洋次郎の代表作である。
   映画化もされた。
 
しかし、そのころ、風子ばあさんは、太宰治にかぶれていた。
   
    ♪ 若く明るい歌声にぃ ♪ 
 
  には、そっぽを向き、にきび面で暗~い顔をして人間失格に没頭していた。

   つまり、せっかく「高校生の石坂洋次郎宅訪問」に指名されても、
  石坂洋次郎の小説はまったく読んでいなかったのである。

   そういう生徒のところに話をもってきた教師も教師だが、
  はいはいと承知した生徒も生徒である。

  もう暗くなりかけた夕方、心きいた母親が言った。
 「いくらなんでも、何か一冊くらい読んでから行ったほうがよくない?」
 
  それから、近くの小さな書店に走った。
 石坂洋次郎の本は「くちづけ」というのが一冊だけしかおいてなかった。

   その夜、あわてて読んで、翌日、母のすすめにしたがいそれを持参して、サインしてもらった。
  ちょっと恥ずかしかった。
 
  大作家と何を話したのか、とんと覚えはないが、
 その様子は記事になり、旺文社の高校時代という雑誌に写真いりで掲載された。
  サインいりの「くちづけ」とともに 今も本棚のどこかにしまってあるはずである。