風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

引き際

2012-02-26 12:47:49 | ギター、映画など他
        昨日はギターの集まりで、舞台から転げ落ちたが、
         打ち上げの居酒屋も、そのあとの珈琲もつきあった。
           気のいい若い仲間といるのは楽しい。

         ぶざまなカッコウを見せてしまった風子を、
         ビールを飲みながらみんなで励ましてくれる。

    「いやあ、あれで怪我しなかったのは、転び方が上手なんですよ」
 「すごかったなあ、ギターを高々と掲げて、死んでもギターは放しませんってカッコでしたよ」
         などなど、笑い話ですんでほんとによかった。

          でも、これが老化というものだろう。
       そろそろ引き際かもしれないと、考えざるをえない。

          カナちゃんと三人で弾くのだけは続けようよと
            クミちゃんが慰めてくれる。

    やめようなんて考えないでも、いつかやめざるを得ないときが来るんですよと、
       意味ある言葉で人生を説いてくれる仲間もいる。

   打身丸が効いたのかどうか、昨夜は若干の痛みがあったが今朝は、それも消えている。
 
           みなさん、ご心配をかけました。

ああ恥ずかしい

2012-02-25 23:51:03 | ギター、映画など他
       今日は、若い仲間と一緒のギターの集まりがあった。

       舞台……と言っても20センチばかりの高さだが、
       そこに15ほどの椅子が並び、その一番 はしっこに、
        風子ばあさんはギターを持ってすわろうとしていた。

      司会者が、演奏する仲間の紹介をしようとしたまさにその時、
       風子ばあさんは、なんのはずみか、ギターを持ったまま、
         椅子ごとこの舞台から転げ落ちた。
 
        椅子のパイプに挟まれた両足は天井を向き、
        頭はスピーカーの箱に挟まれて斜めに傾ぎ、
      手にしたギターを突き上げたまま身動きがとれない。

        幸いにしてというべきか、憐れな事にというべきか、
    衆人環視の席である。すぐに人が駆け寄り、助け起こしてくれた。

      大丈夫ですか、大丈夫ですか……の声を何人からもかけてもらいながら、
            再び舞台にあがった。

         こんなときは、痛いことより、恥ずかしい方が優先する。
              何食わぬ顔をする。

         頭にタンコブ出来たかもしれないなあ、などと思いながら、
             「夜霧のしのびあい」を弾いた。

           帰宅してから、風子ばあさん、
       いよいよヤキがまわったな、とひそかに落ち込んでいる。

ありふれた話

2012-02-24 10:05:20 | 思い出
            妹のリョウちゃんが、
        大阪の茨木市に住んでいたころのことである。

       東京の両親が、新婚まもないリョウちゃん宅を訪ねた。

     リョウちゃんは妊娠中だったが、せっかく来てくれたのだからと、
          両親を京都へと案内した。

       お腹の大きなリョウちゃんは、清水寺の下で待つことにして、
         父と母は二人で清水の舞台へと上がった。

       しばし見物のあと、下りてきたら、リョウちゃんの姿が見えない。
      むろん、あたりを探したり、戻ってみたり、と右往左往したのだろうが、
           結局、人ごみの中で、はぐれた。

  しばらく探したが、気分でも悪くなって帰ったのかもしれないということになって、
          両親は、茨木まで戻ってみると、
     アパートのドアはカギが閉まっていて、帰宅した様子はない。

       さては、まだどこかで待っているのだろうかと、
    父だけもう一度京都まで行って戻って、結局どこで再会出来たのかは、
     もう忘れたが、リョウちゃんは清水寺で4時間も待ったそうである。

            待つ方も大変だったろうが、
       京都と茨木を行ったり来たりの一日だった父は、
    リョウコが灯篭の影になんか座っていたから悪いと文句を言ったらしい。

     これもケイタイなんかなかった時代には、わりにありふれた話である。

父からの便り

2012-02-23 11:10:32 | 思い出
       風子は長女だったせいか、母とはとくに仲が良かった。
       実家へ泊まりに行くと、日付の変わるまで喋っていた。
  
         一度寝た父が、トイレに起きてきて、
     何だ、お前たちは、まだ喋ってたのかとあきれたりした。

     そんなわけで、母の思い出は多いが、父の思い出は少ない。

         ところが、古い手紙を読み直していたら、
      意外なことに、父もけっこうマメに便りをくれていた。
  朝顔が咲きました、とか、いま役所から帰ったところです……などと書いてある。

        一番下の妹はとくに父親に可愛がられていた。
     彼女が、九州の風子のところへ遊びに来ると東京を出て、
    広島へ寄り道をしたときなど、何通ものハガキが風子のところに届いて、
          父を心配させている。

     途中下車で広島の知人を訪ねることは出発前に言ってあったのだろうが、
        5日も滞在するとは言ってなかったのだろう。

      このハガキが着いて、まだリョウコがそちらへ行かないときは、
       自分が広島まで行ってみようかと思う、とまで書いてある。


すでに社会人だった妹を、新幹線で広島まで所在を尋ねて行こうと考えるような人だったのかしら、と今ごろになって思いがけない父の一面を見ている。

      今の若い人には通じないだろう、携帯電話などなかった時代の話である。

訪問

2012-02-22 11:43:47 | 思い出
        古い母の手紙に、
    今日は急に用が出来て、銀座まで行ってきました、とある。
 
       夕方、帰宅したら、留守中に、ビンちゃんが来たそうで、
        会えずに残念なことをしました、と書いてある。

         そのころ、妹のビンちゃんは、
     実家の母のところまで新宿から私鉄に乗り換えて一時間もかかる所に住んでいた。
         まだ生まれたばかりの男の子をおんぶして、
          母に会いたくてきたのだろう。
 
        あのころは、携帯電話などもなかったから、
    ちょっと行ってみようか、というときにこのように会いそこなうことは珍しくなかった。

        だから、母も、外出の予定ができると、嫁いだ娘たちに、
         ×日×曜日、歯科行き、〇日 展覧会、とか
           前もってハガキなどで知らせてくれた。
 
      今日は多分いるだろう、天気がいいから、ちょっと実家へ行ってみようか。
         見当で行くのだから、急用で居ないこともある。

         鍵は犬小屋の後ろあたりに隠してあるので、
          上がって、一休みしながら待つ。
             ダメなら諦めて、
   「来ました、ビン、また来ます」などと、そのへんの紙に書いて帰るのである。

      せっかく来てくれたのに残念でした……などと慌ててハガキを書いても、
   それが届くのはまた数日後で、まあ、ほんとに今の人には考えられない長閑なことだった。
 
        今から40年ばかり前のことである。

        若い人にとって40年は、生まれる前の大昔だろうが、 
      ばあさん達には、たった40年、ついこの間のことなのである。

       ああ、懐かしいなあ。 届きそうでもう届かない日々である。

これでいいのか

2012-02-21 21:24:10 | 俳句、川柳、エッセイ
       昔、テレビが普及し始めたころ、
    こんなものを見ていたら、一億総痴呆化するなどと言われたものである。
 
      パソコンの場合は、そうは言われなかった。
    使いこなせる人間が賢そうに見えて、使えない人間は肩身の狭い思いをした。

         しかし、本当にそうだろうか。

         古い手紙を整理している。
     父も母も、私だって、み~んな、むかしは今よりずっと忙しかった。
     母なんか、いつ寝て起きるのかわからないような暮らし方をしていた。
         それでも、
  今から、お風呂ですが、その前に一筆と……と便箋に二枚も三枚もの手紙をくれた。

          肉親からだけではない。
      共稼ぎで働いていた友だちからも、
    風子さん、しばらくお便りがないので、心配しています、
    こちらは組合の勉強会とかもあって大変ですと、
    細かい字でびっしり近況を書いてくれた。
 
   風子も、画数の多い文字を、辞書を片手に返事を書いた覚えがある。

      今は、たいがいのことをメールですます。
       文字を書くことなど滅多にない。

    宛先だって、パソコンに入力してある宛名ラベルをぺたっと貼るし、
  電話番号だって機械が覚えていてくれるから、人間は何も覚えないでも用が足りる。

        そればかりではない。
   便座の蓋は近づくだけで、自動的にパッとあがるし、
        風呂が沸けば、
  ピヨヨ~ン、ピヨヨ~ン、オフロガワキマシタ、オフロガワキマシタ
       と知らせてくれる。

      便利便利というが、 これでいいのだろうか。
     本来人間に備わっている知恵も体力もこれでは退化するのではなかろうか。

       考えてみれば、空恐ろしい。
      
      てな、ことを考えて、風子ばあさんは今夜も寝つきが悪いのである。
 

記憶

2012-02-20 17:17:38 | 友情
      毎週会っているクミちゃんからの古い手紙が出てきた。
     便箋三枚の入った封筒を見るまで、貰った記憶がないのである。

      綺麗な文字でびっしりと書いてある。

       毎週、毎週、姉妹以上に顔を合わせているから、
    わざわざ手紙など交わす必要もないはずなので、え、なんだろうと、
   広げてみたら、20数年前に風子が入院したときの見舞状であった。

        クミちゃんも驚いて、
        うっそ! 私があ? 

     書いた私も忘れてた……、と両方でげらげら笑った。

     見舞いに行かなかったから書いたのかなあ、とクミちゃん。

       ううん、違うよ、来てるよ、
     病院へ行ったら、楽しい入院生活のようで
    安心しましたって書いてあったよ。

     人の記憶はこうも曖昧なものかと両方で驚く。

      いやだなあ、捨てといてとクミちゃんが言うから、
         はいはい、そうしますと答えたが、
         友情にあふれた貴重な手紙だからね。
       たとえクミちゃんのお願いでも、捨てたくない。
       
          何度も読み返してまた仕舞った。

         かくして、終活は一向にはかどらない。

お手紙ありがとう

2012-02-19 11:36:38 | 思い出
     
        折々に処分してきたつもりだが、
         古い手紙の束がまだ大量にあった。
      捨てる前にと読みはじめたら、三日かかっても終わらない。

      昔の人間はよくも手紙を書いたものだと感心する。

      風子が世帯を持ったころは、まだ我が家に電話はなかった。
       むろん、携帯もパソコンもファクスもないから、
     郵便は大事な伝達手段であった。たいがいのことは郵便ですませた。

      結婚してまもなく、東京から九州に移った風子は、
       両親が恋しくてせっせと手紙を書いた。

      両親も忙しいのに、よく返事をくれた。 
      
     「お手紙ありがとう」で始まる手紙が多いから、
      こちらも大量に出していたとわかる。

      ×月×日、博多駅に何時到着、迎えに出てください、
       などという父のハガキもある。

      今なら、メールでたちまち、ピッといくところだが、
       郵便だと数日かかった。

      まだハガキ、届きませんという手紙もある。

       ハガキと手紙、二通一緒に届きました、
    このつぎから、投函日を記入してくださいなどと書いたのも出てきた。

        どちらも三日にあげず手紙を書いていたのだ。
     気が遠くなるような一昔が、目の前に束になってここにある。

サイン帳

2012-02-18 22:25:19 | 友情
      アルバムに続いて、押し入れの中の古い手紙の整理を始めた。

        自分でもまったく忘れていた60年も前の、
         中学卒業時のサイン帳なども出てきた。

        山の好きな風子さんが、いつか富士山に登れますように、
          というのから、
        歌の上手な風子さんの声を忘れません、
          などというのもある。
        今となっては、ハテナと本人が首を傾げる。

        私と風子さんは、切っても切れない親友です、
         と書いてくれたのはセキチャン。

       遠く離れて暮らすから、会う機会はめっきり少なくなったが、
         数年前に上京したときは、
    待ち合わせた地下にあるレストランの入り口がわからないといけないからと、
         舗道で待っていてくれた。

       セキチャンは風子の知りあいの中で、
        もっとも上品な奥様である。
     
      彼女は、子供のころから、自分のことを、
       ワタクシとしか言わなかった。
      風子の母のことは、オバサマと呼び、
       別れるときは、ゴキゲンヨウである。

      これがサマになっていて不自然でないのは、
        風子のまわりで、あとにも先にも彼女くらいなものである。
 
      ベランメエ調の風子とはちぐはぐコンビで、
        これが意外と相性がよかった。

        楽しかったよね、セキチャン。

   どうするかなサイン帳、捨てるかなあ、と一向に整理は進まない。
      終活も思った以上の難事業である。

終活

2012-02-13 12:46:46 | 俳句、川柳、エッセイ
      天下国家への愁いはあるが、我が身ひとつに限れば、
     さしあたり平穏無事である。
 
      いずれ限りある命だから、苦痛さえなければ、
     いつ死んでもいいと、悟ったふうな境地である。
 
       ただし、ひとつだけ心残りがある。
     風子ばあさんは、片づけ下手で、いつも散らかして暮らしている。
     服はぶら下がり、靴は脱ぎぱなっしのテイタラクである。

        ばあさん、案外、見栄っ張りだから、
       これでは死ねない。

      葬式でひとが集まったときに、このざまは見せられない。

      まず、押し入れの整理から……と思いたち、
    首を突っ込んだら、独身時代からのアルバムが積み上げてある。

     捨てるべきは捨て、遺すべきは薄いアルバムに貼り直すことにして、
   とりかかり、もう3日たったが、まだ終わらない。

      若かった風子、マンザラでもなかったなあと、秘かに眺め、
    懐かしいあの人、この人の顔を見ていると、なかなか仕事がはかどらない。
 
     ついには、飽きて、もうこのまま放りだしたくなる。

       手こずっていて思い出したのは、
     風子と同じ年で、引っ越しを目前にしている友だちの顔である。

       偉いなあ、彼女、頑張るなあ。
    押し入れくらいで音を上げられないなあ、と思い直して、
    また、しぶしぶ格闘しているのである。