風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

牡蠣小屋

2011-02-28 12:34:28 | グルメ
 昨日、牡蠣小屋へ行った。
日曜の正午ごろだから、店内は満員であった。

 風子たちのように、仲間どうしもいれば、恋人らしい二人連れもいる。
 幼い子供連れの家族もいる。

 向かいのテーブルのコンロのあたりから、突然、子供の泣き声がした。
何事かと見ると、まだ 2、3歳の男児が、恐怖に顔を引きつらせて泣き叫んでいる。
火傷でもしたかと見るが、そうでもないらしい。

 母親がなだめても、抱き締めても泣きやまない。
彼らの炭火の上でも、グロテスクな牡蠣がのり、はぜた音をたてている。
活きた車エビが網の上で身をよじって跳び撥ねる。
 そのたびに子供はいっそう激しく泣きたてる。

 ああ、子供は正直だよねえ、これを残酷と思わなくなった大人たちは、この子が泣くのを笑ったり叱ったりしている。

 いや~ん、いや~ん、と子供はママにしがみつく。

 我らは、その横で、炭火に焼かれて開きかけた牡蠣殻に、ナイフを突っ込み、こじあけて身を剥く。

 サザエも、いかも、アナゴも、うまい、うまいと山のように盛り上げて食べた。

冥土の土産

2011-02-27 15:48:48 | 口は災いのもと
 若い仲間と、海辺に牡蠣を食べに行った。
砂浜の小屋で、コンロの炭火に生牡蠣をのせて焼く。

 十名を超す仲間の中で、風子が一番年長である。
年をとって嬉しいことのひとつに、みんなが大事にしてくれることがある。

 風子さん、これ焼けましたよ、と殻まで剥いてくれる。
「ありがとう」
ビールはいかがですか。
「ありがとう」
握り飯もありますよ。
「ありがとう」

 うちわエビはどうですか?
「え? 食べたことないなあ」 と言ったら、
冥土の土産に食べてみませんか?……ときた。

 冥土の土産ねえ……。

そうまで言われる年になったかと思ったら、大事にされても、喜んでばかりはいられない。

食欲

2011-02-26 10:56:58 | グルメ

 食べたいというのは人間の本能である。
あられもない寝姿、排泄、本能のままの姿態は、いずれも誰かに見られたくないものである。
食欲だって、空腹に耐えかねて、がつがつ食べる姿などは人さまに見られたくない姿である。

 だから、人間は、おちょぼ口をして食べるマナーとやらを考え、テーブルセッテングをして、
バックミュージックで咀嚼の音を消すのかもしれない。

 もう20年ほど前に亡くなった年上の友人がいる。
我が家にも何度か訪ねてくれたし、グループで食事の機会もあった。
そんなとき、彼女は一度も箸をとらなかった。
私はアレルギーがあるから……お水ちょうだい、といつも水だけ飲んで、にこにこ楽しそうにしていた。

 さりげなく美しい振る舞いだった。今になって思うに、あれは老いて食べる行為を、
若い仲間に見せたくなかったのではなかろうか。
センスの良くてモダンな彼女だったから、あれも究極のお洒落だったのかもしれない。

 風子もあのころの彼女の齢になった。
 
 でも、真似できないなあ。
あれも食べたい、これも食べたい、すすめられれば、人さまの皿にまで手をのばす。
 
 明日は若い仲間が、海辺に牡蠣を食べに行くという。
遠慮した方がいいのになあと思いながら、本心は行きたい。


ガイショッケンショクドウ

2011-02-25 09:22:15 | 思い出
 子供のころは、言葉を文字で覚えず、音で記憶する。
ガイショッケンショクドウ、というのは外食券食堂だと分かったのはずっとあと、大人になってからである。

 戦後すぐ、極度の食糧難だったころのことである。
米を買うにも米穀通帳というものがあった。
自由に外で食事をすることなどかなわない時代だった。
何かの都合で外食をする場合は、配布された食券が必要であった。

 うちの近くに灰色の建物があり、それがガイショッケンショクドウだった。 
今ならさしずめ、そこの駐車場というべき場所の空き地が、子供たちの遊び場だった。

 風子ばあさんは、いつも背中に生まれたばかりの弟を背中にくくりつけて遊んだ。
当時は珍しくなかった。

 その格好で、ケンケン、パッ! などして遊んだのである。
背中の子は、いつもがくがく揺れていた。
一度ならず弟を地面に落としたこともある。
よくあれで無事だったものと、いまごろになって胸なでおろす。

「また、あした~ ガイショッケンショクドウねえ」
 というときは、そこが外食をする場であるということなど思いもせず、ただひたすら、近くの遊び場の名称としてあった。

 食堂に出入りしていたのは男性ばかりだったような気がする。

 レストラン、和食処、バーガーチェーン、カフェ、寿司屋。
着飾った女どもが、グルメに群れ集うような時代がくるとは、あのころ思いもつかなかった。

 



地震

2011-02-24 16:39:12 | 時事
 広島の妹から電話がかかった。
「ねえ、アッコちゃんはニュージランドにいるのよね」
 そうなのである。

「地震、大丈夫だったかねえ」
 アッコちゃんは東京にいる弟の子である。

 気になるなら直接弟に電話をかければいいのに、
わざわざ九州のばあさんのところに確かめてくる。

 長姉というのは、いつでも一族のことを把握していないといけないらしい。
 実を言えば、風子ばあさんも、
気になりながら電話をするのを遠慮していた。

 ニュージランドと一口に言っても広いだろうから、
まさかのこともあるまいと思いながら、東京に電話をかけた。

 電話に出た義妹に、
「アッコちゃんのいる所はどこだっけ?」
と訊いた。
 クライストチャーチ、震源地です……、義妹の声が潤んでいる。

「えっ 大丈夫なの?」 
 こちらも声が震えた。
義妹は一瞬声を詰まらせて返事をしない。

 ややあって、鼻をかむ音がしたあと、
ようやく、無事ですという声が聞こえた。

「脅かさないでよ、でも、よかったねえ」

 それにしても電話の向こうの義妹の様子はただ事でない。
「どうしたの?」
「ええ、花粉症がひどくて……」

 ああ、よかった。
花粉症くらい、なんですか!

ニュージランド

2011-02-23 10:28:12 | 時事
 クライストチャーチで大きな地震だ。
ニュージランドには風子ばあさんの姪がいる。
当然、心配である。

 彼女はニュージランドのどの都市にいるのか。
聞いたことはあるが覚えていない。
クライストチャーチに近いのか、あるいはクライストチャーチそのものなのかもわからない。

 じいさんは、すぐ弟に電話をしてみろという。
しかし、テレビでは、分かる限りのことは報道されているようである。
姪の名前もない。
まあ、無事だろうと思いたい。

 こういうとき、家族に電話して、どう? と訊くのは簡単である。
大丈夫だよ、という返事を聞きたいばかりにかけるのだろう。

 しかし、万一、まだ連絡がとれずにいるところに、どう? などと電話をしたら、
神経を尖らせている家族には大変迷惑な話である。
電話の音だけで飛び上がるだろう。

 どうもないだろうと思いながら、どう? というのも野次馬みたいでいやである。

 昔からたよりのないのは無事の知らせ、というではないか。
何かあったら、向こうから知らせてくるさ……、と嘯きつつ、
風子ばあさんは、ニュースの時間にはテレビの前から離れられずにいる。

2011-02-22 13:39:07 | 口は災いのもと

 風子ばあさんたちの世代は、家庭でも、職場でも、電話のマナーはやかましく、しつけられた。
 だから、いまでも電話に出るときは、明るい声で、朗らかに名乗ることにしている。

 先日、あるショップに、掃除機の付属品を取り寄せてもらうように頼んでいた。

 中々連絡がないので、こちらから問い合わせの電話をかけた。
もちろん、明るく朗らかな声を出した。

 受話器の向こうで、受けたひとが、別の店員さんにその件を尋ねるやり取りが聞こえた。

「ええ、一週間ほど前だそうなの……、××風子って。……、年寄りの声よ」

 今の電話の感度は大変よろしい。全部聞こえている。

 顔も見ないで、声だけで、年寄りってわかるんだよねえ、
明るく朗らかな声を出したつもりのばあさんは、ちょっとばかりショックではあった。

天神

2011-02-21 13:44:41 | バス
 天神というのは、福岡で一番にぎやかな街である。

 今春、博多駅が新装するとあちらも賑わうだろうが、まあ、いまのところ、若い人に人気があるのは、なんと言っても天神である。
デパートが三つもあって、地下街があって、パルコもある。
コンサートホールもあればインキューブもベスト電器もある。

 さて、先日、風子ばあさんがバスに乗ったら、とあるバス停から、幼稚園くらいの男児を連れた母親が乗ってきた。
昼間だから、空席は多い。
ばあさんのすぐ横の座席に親子で座った。
座ったときから、この子は機嫌が悪い。

 天神、いや…、と身体をくねらせて小声で言う。
ははん、ママと天神へ買い物かあ、と思う。
 
 幾らも走らないうちに、また、天神いや、と子供がいう。
ママは知らん顔をしている。

「ねえ、天神いや」と声が段々大きくなる。
風子ばあさんはおかしい。
そうだね、天神は子供が行ってもあまり面白いところじゃないもんね、と思う。

 おそらくママの買い物のお伴であろう。
退屈したあと、せいぜいジュースかアイスクリームをおごってもらうのが関の山、行きたくないよねえ、とおかしい。

 天神いや! とうとう子供は泣き出した。
もう止まらない。
あ~ん あ~ん、天神いやあ~ん。大声にみんな振り向く。

 たまりかねたママは、天神よりだいぶ手前で子供の手を引いて下りてしまった。

子供は、よくよく天神に恨みがあるに違いない。


カプリチョアラベ

2011-02-20 11:08:14 | ギター、映画など他
 年に一度、十数名で集まりギターを弾く会がある。
聴衆は、ほんの身内だけというささやかな会合である。
 
 風子ばあさんは、そこの会員であるような……ないような。
つまりは練習には出られないけど、楽しい集いなので当日は参加させてもらうという我儘会員である。

 昨日がその日だった。
一番若い演奏者は、小学生。最高齢は70ウン歳。
みんなギターが好きで好きでたまらない人たちである。

 風子ばあさんは、いつもの仲良し三人と「アルベニスのタンゴ」とソルの「グランドソナタ第四楽章」を弾いた。
 練習ではうまくいっていたところもトチったが、でも楽しかった。

 しかし、健忘症は明らかに進んでいる。
人の演奏を聞きながら、知っているはずの曲名がすぐに思い浮かばない。

 隣の仲良しばあさんに、小声で、この曲、なんだっけ?
「ほら、あれです、あれ、アラビア、アラビア……」
「奇想曲だよね」
三人がかりで、アラビア風奇想曲、つまり「カプリチョアラベ」という曲名にたどりつくころには、演奏はすでに終盤にさしかかっていた。

 異国の地の激情と哀歓に満ちた素晴らしい曲を見事な演奏で聴かせてもらった。

こんな日は、いつまでも元気でいたいなあと……と思う。

門番の家

2011-02-20 00:25:53 | 思い出
 終戦で華族制度が消滅した直後、それまで宮様の住んでいた屋敷に住んだことがある。

 住んだのは本邸ではなく、門番の家である。
門も、正面の車寄せのある方ではなくて、車道に面した警護門とでもいうべき門の方である。

 警護の係が交替ででも詰めたのか、あるいは家族と住むためのものだったのか、三間ばかりの部屋があり、トイレも台所もきちんとしたものであった。
 
 門番の家の前からは広く砂利を敷き詰めた前庭に繋がり、和風の本邸のほかに、洋館があった。
和庭園には茶室も、洋庭には芝生の間にスミレの咲く豪勢なものであった。

 敷地内の坂を下ると使用人のための長屋も存在していた。 
終戦後しばらくの間、国が管理していたのであろう、父が公務員だったので官舎として居住していた。

 風子ばあさんはまだ小学生だった。
弟や妹たちと敷地内を走り回って遊んだ。
爆撃を受けて崩れかかった洋館には近づいてはいけないと父母から厳重に注意されていたが、それが却って子供たちの冒険心をそそった。

 洋館の地下へ降りると、毀れた御紋入りの椅子や燭台などが乱暴に放られていた。

 何年かそこに住んだので、風子の古い住所録にはそのアドレスが残っている。
たまたまそれを目にした男友だちから、えっ、××町の××番って、風子さん、もしかして世が世なら由緒ある家のお姫さまだったのではないですか、と訊かれた。

 いやいや、焼跡の門番の家に住んでいたんです、それも官舎でした。

風子が、お姫様のわけ、ねえだろ、と睨んだら、そうですよね、と彼はいたく納得した顔をした。