家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

建築主と施主

2005年12月05日 | 家について思ったことなど
 弊blogでは建築家の「家」(か)問題を何回か取り上げてきたが(その1その2その3その4)、今度は同じく言葉の面から「施主」について取り上げてみたい。家(か)とは違って言葉のニュアンスではなく、言葉の区分けの仕方からのアプローチである。

辞書の定義で判断すれば、「施主」とは「建築主」に他ならない。
しかし、私は「施主」を「建築主」として表現することにどこか違和感があった。
その違和感は今回の耐震構造計算書偽造問題ではっきりした。
今回の事件で登場する「建築主」とは「売主(うりぬし)」だ。一方、私が「施主」という言葉を使うとき、頭に思い浮かべているのは「自分の住む家を建てる建築主」なのだ。これらを同じくくりで考えることに対する違和感だったのだ。

「売主」と「(自分が住む)施主」(以下、施主)では、家を建てるという行為における動機や取り組み方が全然違う。
「売主」であるならば、(業者ごとに差はあるだろうが)基本的には「出来るだけ安く建てて、出来るだけ高く売る」という方向で動く。「高く売れない場合は安く建てる」ということでもある。費用と売価の差こそが「売主」が最も重要視する部分なのである。
しかし、自分で住む「施主」は違う。自分が消費者でもあるから、「出来るだけ安く建てたい」という意識はあるものの、その後は「高く売る」のではなくて「快適に使う」のが最も重要なことなのである。
この違いは大きい。「売主」は安いものを高く売るための工夫をしようとする。その工夫はハードとしての「家」に本来必要なものではなく、ある意味「ダマシ」的な要素になる。商慣習上、許容せざるを得ないレベルの「ダマシ」や「誇張」というのはあるものだが、今回の事件は「ダマシ」部分を違法なレベルまで肥大化させ、詐欺に等しい結果となった。
方や「施主」は何のメリットもないのでそんな工夫はしない。「ダマシ」部分を大きくしようなどという発想はそもそも浮かばない。施主にとってはコストを安くしていく作業とは、妥協や覚悟という形で現状を認識する作業だったりする。

また、極端な話、「売主」であれば売り終わるまでの間だけ建物のことを考えていればいい。しかし「施主」は最低でも住み替える/建て替えるまでの暮らしを考えて家を建てるのである。自分が消費者(住人)である建築主と、そうでない建築主とでは立脚点がかなり異なる。

言葉の定義からいえば、「建築主」という大きな集合の中に「施主」と「売主」がいるということになるだろう。「住人」と「非住人」という分け方でもいい。ちなみに「非住人」の中には「売主」の他に「賃貸人」(大家さん)というグループもある。また、「建築主」という集合の外にも「住人」はいて、今回の事件の被害者はそのカテゴリに分類される。
私は「施主」という字面自体には別にこだわりはないので違う言葉になってもかまわないが、住人である建築主と、住人でない建築主はちゃんと区分けして考えるべきだと思う。
一つの「建築主」という言葉にくくられてしまったら、「施主」(住人である建築主)にとっていいことはあまりない。自分の住居を建てるとき、あくまで「住人たる建築主」という立場から情報を集めたり、勉強をしたりする必要があるからだ(「施主のための住宅本の読み方」も、それを前提に考えている)。