ひまわり博士のウンチク

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カッパ・えびせん・ノベルス

2009年11月23日 | 本と雑誌
松本清張「ゼロの焦点」
 
Zeroshoten
 
 映画をみる前にもう一度目を通しておこうと、カッパ・ノベルスの「ゼロの焦点」を書棚から探し出して読み直した。
 高校時代に一度読んでいるのだが、そのころは松本清張とあれば片端から読んでいたので、今となってはタイトルと内容が結びつかない。
 それどころか、どんな物語だったのかほとんど覚えていないものが多い。
 松本清張自身が代表作とするこの「ゼロの焦点」もその一つだ。
 読んでいくうちに、ああそうだった、たしかあれはこうなってああなった、と思い出すのだが、忘れていたことをだれかに言われてはじめて、そう言えばそんなこともあったなあと、はるか昔の出来事を話されている感がある。
 
 パパパッと飛ばし読みをするだけのつもりが、ズッポリはまってしまった。本当は今日、少しでも原稿を進めておきたかったのだが、「やめられない、とまらない」“かっぱえびせん”ならぬ“カッパ・えびせん・ノベルス”状態で、まったく手につかなくなってしまった。
 
 「小説は面白くなくてはならない」とは、生前の松本清張がかねがね口にしていた言葉だが、まったくその通り、しかも最高傑作と自薦する作品である。
 忙しい時に読み始めるほうが悪いのだ。
 
 ところでこの作品、日本が高度経済成長期にさしかかろうとする、昭和三十年代初頭が舞台になっている。昨今のレトロブームで様々に当時が紹介されているが、現代とは文化風習がだいぶ違う。今ではほとんどの世代に理解できないのではないかと思える個所が多分にある。
 
 見合い結婚では、お互いが十分知り合うことなく結婚することがあるなど、今の若者には理解しがたいだろう。
 まして、見合いは家族同士が歌舞伎座で顔合わせをするなど、現代ではあり得ない。
 しかし、この頃までは、事前の顔合わせどころか家族同士が勝手に決めてしまって、本人たちは結婚式当日までお互いをまったく知らないという、現代なら乱暴とも思えることが、何の疑問もなく行われることすらあった。
 
 昭和三十年代初頭は、企業や裕福な家でなければ電話はなかった。緊急の連絡には電報が使われた。携帯電話どころか、警察無線さえ十分ではなかったのだから、失踪者を探すのは並大抵のことではない。
 
 米兵を相手にする売春婦「パンパン」も、繁華街や基地周辺で見かけることが多かった。美輪明宏が唄う「星の流れに」や、田村泰次郎の小説「肉体の門」は、そのパンパンがテーマだ。
 彼女たちは戦後の混乱の中でまともな仕事がなく、必死に生きるために始めた仕事だ。しかし、普通の市民は彼女たちをまるでダニかゴキブリのように見ていた。
 
 宿の女中(これも今では死語だ。中居という)が「男の客を扱うように灰皿を用意した」ところなど、まともな女性はタバコを吸わないとされていた時代でもある。
 
 ネタバレになるので詳細は語れないが、物語の進行上、また主題を表現する上で、当時の時代背景を語ることは原作を読む限り必要なことだ。いや、この時代における社会像そのものがテーマなのだ。
 したがって、映画はまだ見ていないが、現代の感覚とのギャップをどう処理するか、それは避けて通れないだろう。
 清張作品でもっとも成功した映画「砂の器」は、近年テレビドラマにリメイクされたとき、視聴率を意識し過ぎたためか、無理矢理現代に引きつけたために、本来のテーマが失われ、ただの娯楽作品になってしまった。
 松本清張が知ったら怒るだろうと思えるほどの駄作になってしまっていたのだ。
 
 さて、映画「ゼロの焦点」、なかなか評判はよろしいようだが、はたして……。
 見るのが恐いような、楽しみなような。
 
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