ひまわり博士のウンチク

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ソフィ・カルという女

2015年01月11日 | 本と雑誌

 
 先日のブログにポール・オースターの『リヴァイアサン』について記事をアップしたら、その小説の主要な登場人物の1人マリア・ターナーのモデルであるとのコメントをいただいた。マリア・ターナーとして描かれている女性もかなり風変わりであるが、実在のソフィ・カルは超ど級の「ヘン」な女だ。ご紹介いただいた『本当の話』という、自身の行動をそのまま書き綴った本を読んで、これはとんでもない人だと感じた。
 
 紹介いただくまで、ソフィ・カルについての知識はまったくなかった。そもそも彼女と関連の深い作家、ポール・オースターも読み始めたばかりなのだ。
 
 ソフィ・カルは1953年生まれで、10代の終りから、7年間にわたって放浪生活を送り、26歳のときに生まれ育ったパリに戻る。以来〈写真〉という表現手段を媒介にして、人間のアイデンティティにつきまとう“謎”を追及した諸作品を生み出すようになる。(『本当の話』カバー袖より)
 
 放浪中は、ストリッパーやヌードモデル、はては娼婦までやったらしい。
 
 
 
 紹介された『本当の話』を読んでみたいと思い、Amazonで検索したら、版元品切れか絶版らしく、6千円近い値段がつけられていた。四六判ハードカバー200ページ程度の本で、定価の2000円でも高いのに6000円とはなにごとか!
 そこで、わが杉並の中央図書館で検索すると、あった。さすが、都内有数の蔵書数を誇る図書館で、読みたい本はおおかた揃っている。ちなみに、沖縄の作家崎山多美の本も巷では入手しにくいのだが、それもほとんど蔵書しているのだ。
 
 この本は、「ヴェネツィア組曲」「尾行」「本当の話」の3作品で構成されていて、巻末にジャン・ボードリヤールによる「ヴェネツィア組曲」の解説が掲載されている。
 
「ヴェネツィア組曲」は1人の男をただひたすら尾行し、観察し写真におさめる時系列の記録である。尾行の目的が、男との交際を求めるためとか、男から被害を被ったとか、そういうことは何もない。
 しかし、それにしては執拗だ。男が泊まっているホテルを見つけるために、ヴェネツィア中のホテルほとんどすべてに電話をかける。男が骨董品屋に入り、何時間も出てこなくてもただひたすら待つ。明確な目的もないのに、この根気はどこから来ているのか。
 テキストのあいだに何枚もの写真が掲載されていて、中には映画フィルムのようなベタ焼きも含まれている。カメラは実に頻繁にシャッターが切られ、男が女性と腕を組みながら歩いていく姿を、連続写真のようにとらえる。
 ソフィ・カルはスカンタールというアクセサリーをカメラのレンズに装着している。これを使うと被写体にレンズを直接向けることなく写せるというのだ。日本で使ったら絶対にまずい。
 
「尾行」は、探偵を雇ってこんどは逆に自分を尾行させ、写真付の報告書を提出させる。それには実際の行動と異なる個所があるのだが、探偵のそんな手抜きは問題でないのだ。尾行し、尾行されるという行動の中から、主観と客観二重の「生」を見出し、それを写真とテキストの両方で表現する、それが彼女の芸術だ。
 ただ、彼女の行動は危険で、他人のプライバシーを侵し、訴えられることもしばしばだったらしい。
 
 三つ目の作品「本当の話」はこれが本当に“本当の話”なら、こんな女にはあんまり近寄りたくない。これが『リヴァイアサン』のマリア・ターナの実際の姿なのか。
 
「若い娘の夢」
 15歳の頃、あるレストランで「若い娘の夢」という名のデザートを注文したら、写真のようなモノが出てきた。
 

 
「ボーイは微笑を浮かべて、さあどうぞといった。私は涙をこらえ、目をつむった。何年か後、初めて男の裸を目の当たりにしたときのように。」

「離婚」
 こんな写真を撮ってはいけない。「おしっこ二人羽織」である。まあ、カップルが冗談半分でやることはあっても、それを写真に撮ったり、まして本に掲載したりはしないだろう。
 しかもこの写真、プライベートフォトではなく、スタジオでカメラマンにとらせたというから驚きだ。
 

 
「私たちが別れた直後、わたしはグレッグ(夫)に、この儀式の記念写真をとろうと持ちかけた。そこでブルックリンのスタジオで、カメラの見守る中、わたしはプラスチックのバケツに向かって彼におしっこをさせた。この撮影は、わたしにとって彼の性器に最後にもう一度だけ触れるための口実となった。その晩、わたしは離婚に同意した。」
 
 この本の本編も解説も読み終えたとき、ジャン・ボードリヤールの解説が、天沢退二郎が『紙の鏡』という評論集に掲載した、つげ義春の『ねじ式』について書かれた文章とオーバーラップした。
『ねじ式』では海で重傷を負い此岸から彼岸に迷い込んだ少年が、放浪の末「女医」に象徴される「オンナ」と出会うことで自己を取り戻してモーターボートで此岸に戻る話だ。
 ソフィ・カルは「尾行」という“放浪”を通じて、自己を客観的に見ることを行った。それには写真の持つ役割がとても大きかったと思う。他を映し出すことで自己を連続的に発見していったのだ。
 また、自分を尾行させて探偵に自分を撮らせるという行為には、自分がどこに、どのように存在しているのかを確かめたに違いない。
 それにしても、面倒くさい女である。たいていの男は共に暮らすことを拒否し、やめてしまう、きっと。それにしても、近寄る男が尽きることがないとは、さぞかし魅力的な女性なのだろうか。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おかしい (齊藤)
2015-01-11 23:12:58
まあ、おかしい人ですよね。何なんだ、という・・・。
でも、オースターの中にもそんなおかしさがあるような気がするのですけれど。
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アーチストというのは… (ひまわり博士)
2015-01-12 01:36:32
齊藤さん

まあ、アーチストというのはおおかた変なやつばかりですけどね。(自分は棚に上げて、ですが)
変な方が人間としても、人生そのものも面白い。
ソフィ・カルみたいな女性が友だちにいたら面白いでしょうね。ただし、彼女とか妻とかは勘弁してもらって。
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