goo blog サービス終了のお知らせ 

ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

崎山多美『ゆらてぃく ゆりてぃく』

2015年02月21日 | 本と雑誌

 崎山多美の作品は、エッセイ集の『南島小景』を残して単行本はほぼ制覇した。本書もご多分に漏れず入手しにくい一冊だが、運良く沖縄の古書店のホームページで見つけて即刻購入した。Amazonの中古で図書館の払い下げ本が核安で出ているけれど、シールやゴム印などに加え、補強のビニールが全面に張られ、製本も崩れている場合がしばしばだ。これではいくら安くても購入する気はしない。
今回入手したのはほとんど無傷で状態が良い上に、定価よりわずかに高目で、まあ良心的な価格であった。このレベルだと、Amazonの中古で出れば8000円くらいついているから、それではちょっと手が出ない。
 
 本書は以前図書館で一度借りたことがある。何冊かまとめて借りたものだから、期限の2週間で読み切れず、そのまま返してしまった。崎山多美の作品としては「水上往還」(『くりかえしがえし』に収録)があまりにもよかったものだから、それ以上の期待が本書になかったこともある。
 
 表題の「ゆらてぃく ゆりてぃく」は崎山多美独特のシマ言葉をまじえた文体で、それが幻想的な雰囲気を醸し出す。
 物語の舞台は「保多良ジマ」という南の果てにある架空の小島である。この島ではすでに何十年も「赤子」が戸籍簿に登録されたことがない。いつの頃からか、「子供は作らないことを暗黙の美徳にするという風潮がシマビトの心を支配していた」。そのために、シマは80歳以上の老人ばかりになってしまっていた。男女の交わりがなかったわけではない。しかしそれが、子孫を残すための機能を果たさなくなった、という事情があったようだ。つまり、こういうことなのだろう。石女とインポテンツが急増して、子供が生まれたりする家庭に恨み羨みが生じて、なんとなく誰も子供を作らなくなってしまったのではないかと。
 
 そんな保多良ジマの平均寿命は高い。最高齢は133歳で80歳ではまだ若者である。
 そのシマに不思議な出来事を目撃したことのある、117歳になるジラーという男がいた。ジラーの思い出パナス(話)を通じて、なんとも怪奇なこのシマの文化と光景が描かれている。
 このシマではかつてある地方で実際にあった夜這の風習がずっと続いていた。ただ、保多良の夜這はイナグ(女)がイキガ(男)の寝所に夜這するのである。あくまでも主導権はイナグ(女)によって「仕切られて」いるのだ。しかも実際の婚姻とはまったく切り離されていて、婚姻が行われる前であれ後であれいっこうにかまわず、イナグは目当てのイキガをたずね歩いた。
 つまり、現代社会のように、女が性によって男に取り込まれることはなく、あくまで自由であった。それは古代日本の農村に似ていなくもない。
 保多良ジマの葬儀は水葬である。したがって島内に墓はない。人は死ねば海に返されるのだ。静かに死に行く年寄りたちは、人々の手で戸板状の板に乗せられ、裸の全身に絡められた蔦葛とともに、そっと海に流され静かに消えていくのだ。
 
 もしこの小説が、すべて標準語で書かれていたならば、そうとう破天荒なものになっていただろう。しかし、仰天するような内容が、シマ言葉によって上手にフィルターがかけられていて、美しくも物悲しい。
 崎山多美の作品の中で「水上往還」とともにお薦めしたい傑作である。
 
 同書には、表題作の覚書とも位置づけられる「ホタラ綺譚余滴」が併催されている。こちらはこちらで面白い。

山口瞳『酒飲みの自己弁護』

2015年02月12日 | 本と雑誌


 古い本である。いつどこで手に入れたかはすっかり忘れた。古書で買ったことは間違いないのだが。
『夕刊フジ』に連載されていたコラムを1冊にまとめたもので、1973年発行の定価750円。当時としては決して安い本ではない。それがずっとデスクの脇の、すぐ手の届くところに雑誌や辞典類などと一緒にある。仕事の合間にスッと手をのばしては、適当なページをパラパラと開いて読んでいる。ひとつのコラムが見開き2ページでおさまっているので、後を引かず、仕事の邪魔にならないから、気分転換にちょうどいい。
 山口瞳はノンポリで政治的な話はほとんどない。野球と酒飲みの話で大半が占められていて、まあ、毒にも薬にもならないと言っていい。
 今日、たまたま開いたページに「かくれジャイアンツ」という表題があった。
 
 「かくれジャイアンツ」」という言葉があるそうだ。もちろん「かくれキリシタン」をもじったものである。
 巨人軍が好きだと言ってしまうのは、時によって恥ずかしいことであるらしい。いわゆる野球通にはアンチ・ジャイアンツが多いのである。それに判官びいきということもある。俺は巨人軍だと言うのは、何やら子供っぽく見られる気配がある。まるでYGという野球帽をかぶっているように──。(186ページ)

 
 近頃は「かくれジャイアンツ」という言葉はほとんど耳にしなくなった。この本が出た当時の東京は、野球ファンと言えばジャイアンツファンであって、いわゆる「巨人大鵬卵焼き」の時代。大橋巨泉が「イレブンPM」という番組で「野球は巨人、司会は巨泉」などとほざいてはばからなかった時代でもある。(日テレ系列だったからだろうけれど、後に巨泉はV9に嫌気がさしてジャイアンツファンをやめてしまった)
 このコラムが連載されていた当時は、ジャイアンツのV9が進行中で、野球が最もつまらなかった頃でもあった。
 したがって、ジャイアンツは言ってみれば「体制」であったわけだ。そして体制的なジャイアンツファンに抵抗して現れたのが反体制を自負する「アンチジャイアンツ」という名のジャイアンツファンである。そして野球にめっぽう詳しい。(どういうわけか、ジャイアンツファンで野球に詳しい人はめったにいない。特に歴史については)
 ジャイアンツが嫌いなら他のチームのファンになればいいものをそうしない。ジャイアンツがただ負けるのを楽しんで溜飲を下げる。なんのことはない、「俺はミーハーではない」という意思表示をしたいだけで、結局はジャイアンツを意識していることに変わりはないのだ。
 
 他人と同じではかっこ悪いと考える人間は今も昔も少なくない。あえて流行は避ける。ランキング上位にある映画は観ない。ぽれぽれ東中野に大手配給会社のルートから外れた映画を観に行く。ゴールデンタイムではなく、深夜に放送される低予算のドラマを観ておもしろがる。
 なんだ、僕自身ではないか。ちなみに僕はジャイアンツファンではない。アンチジャイアンツでもない。江戸っ子なのにタイガースファンである。
 
酒呑みの自己弁護 (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
▲Amazonへ

トマ・ピケティ『21世紀の資本』

2015年02月10日 | 本と雑誌

 
21世紀の資本
クリエーター情報なし
みすず書房
▲Amazonへ
 
 昨年末の発売と同時に爆発的に話題が広がった。A5判700ページに及ぶ大冊で、価格は税抜き5500円という高価な本にも関わらず、1月末の時点で7度増刷され発効部数は13万部にのぼった。(みすず書房はほくほくだろう。3億円以上の利益があるはずだ)
 トマ・ピケティはフランスの経済学者で1971年生まれ、若干43歳である。世界には宇宙人かと思えるような頭のいいやつがいるものだ。22歳で博士号を取得し、すぐにマサチューセッツ工科大学に准教授として招請されるが、自分の研究目標とのあいだに温度差を覚え、わずか3年でパリに戻った。その後、小旅行以外でパリを出たことはないと言う。いまや人気絶頂で世界中から講演会に招かれているが、それらはすべて小旅行のうちに入るらしい。
 ネクタイ嫌いで誰と会うときもノーネクタイ。「最近、ネクタイを締めたのは妹の結婚式。首が締め付けられて嫌なんだ」と語る。それはまったく同感である。僕自身も葬式や結婚式の式場ではネクタイを締めるが、終わったらすぐにその場で外す。
 
 実はこの本、僕はまだ読了していない。最も読書が進むのは電車の中なのだが、友人の某氏がブログで書いていたように、あまりの大冊で電車の中で立って読むには不向きだから、書斎で腰を落ち着けて読むしかない。ほとんど家で仕事をしているので、そもそも乗り物に乗る機会がめったにない。そのためになかなかページが進まないのだ。
 大冊ではあるがしかし、決して難解な本ではない。これまで経済学に接したことがない人でも、それなりに理解できるよう、表現がわかりやすい。ちなみに僕自身も経済学を真面目に勉強したことはなくて、一般教養で身につけた基礎知識などほとんど忘れているし、歴史的な経済学の文庫本をそれなりに読んでみただけだから、精通した知識など端からない。(自慢じゃないが)
 したがって、事前の知識など必要ないのだが、著名な経済学者の名前や新聞に載っている程度の経済学用語は知っておいた方が理解が深まることは確かだ。「マルクス? リカード? だれそれ?」ではちょっときついかもしれない。加えて余裕があればの話だけれど、マルクスの『賃金・価格および利潤』『賃労働と資本』の2冊は、ピケティの理論と関連性が深いので、お薦めしたい。マルクスの本の中では『共産党宣言』と並んで平易であり、文庫本で100ページ程度の薄い本なので手に取りやすい。
 
 発売されてすぐに、みすず書房からのメールを見て興味を持ったのだが、そのときはさほど興味がなかった。しかしその後、新聞各紙や雑誌などに頻繁に書評が載るようになり、「何が書かれているか」がわかってくると、読まずにいられなくなった。しかし、税込で6000円近くする本をこの金縮の時期に安易に購入することには躊躇せざるを得なかった。ならば図書館でとも考えたが、知り合いが借りようと思ったら200人以上の待機があったと言う。規定の2週間で読み終えるはずはなく、たいていの人が借り直すだろうから自分にまわってくるまで数年かかる。
 そんなおり、ふとした縁でJCBのギフト券が手に入った。これはラッキーとばかり、使用可能な書店を調べてさっそく購入した。
 
 まだ読了していないので、詳細な論評は避けたい。いやそれ以前に新聞や雑誌などに、これでもかというくらい解説が掲載されているので、浅学の自分が訳知り顔に語ることはないだろう。
 ただあえて一言でいえば、膨大な資料に基づき、歴史的背景を含めて読み解く、「富の集中による格差」がテーマである。
 上位10パーセントの富裕層が占める所得の割合が日本はアメリカ、イギリスに次いで第3位、40パーセントを超える。同じ先進国でもスウェーデンが20パーセント台なのだから、この格差は異常と言える。
 しかしピケティは格差をまったくなくすべきとは言っていない。正当な理由があれば格差はあってしかるべきと言う。したがってピケティは、格差の解消とは言わず、「収斂」という言葉を使っている(もちろん翻訳だが)。すなわち、かつてマルクスが説いたように、「搾取」すなわち産出利益の大部分を資本が得てしまうような国は健全ではないということだ。
 また、現在アベノミクスが推進している「トリクルダウン」(シャンペンタワー理論)は、過去に実現例がないと否定する。
 
 先日、電車の中で若い学生が本書について語り合っているのを聞いた。すでに、一部の専門家が手にする専門書ではなく、広く一般に広がりはじめていると見た。かつて、1970年代初頭にドラッカーの『断絶の時代』という、ほぼ同じようなボリュームの本がブームになり、バカ売れしたときのことを思い出させた。
 高価でしかも大冊なのでいささか気が引けるが、この際小説などは我慢してもらってもぜひお薦めしたい。仮に完読しなくても、「よくぞ言ってくれた」と溜飲が下がること請け合いである。

ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』

2015年02月05日 | 本と雑誌
 ドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」で扱われていて、読みたいと思っていた。
 残念ながら当時は絶版で大変な稀覯本だった。一昨年河出書房から出版されたときは興味が失せていて、優先順位が下がり手が出なかったのだ。
 先日、広告で文庫で出ていることを知って購入し、すぐに読んだ。
 

 
 本書は13作品からなる、ロバート・ヤングの短編集で、表題の「たんぽぽ娘」はわずか23ページしかない。 
 タイトルからすると、まるで子ども向けの童話に思えるが、実はそうではなく、幻想的なファンタジーだ。
 
 
 いつもなら妻と2人で過ごす避暑地だったが、今年は妻が陪審員に指名されて休暇が取れなくなり、マークは一人2週間の休暇を持て余していた。ある日、丘の上にいる若い女を見た。見たことのない美しい生地で作られた白いドレスを着ているその女性は、声をかけると240年後の未来から来たと言う。
「すると、タイムマシンでこちらに来たわけか」
「ええ。父が発明したんです」
 マークは眉唾な作り話だと思った。しかし、未来から来たと言い張るならそれでいいとも思った。女は20歳、やさしい顔立ちの彼女に、マークはわき上がるほのぼのとした思いを抱くのだった。
 マークは、それから毎日丘の上で、たんぽぽ色の髪をした彼女に会った。
 ある晩、マークは夢を見る。そこにいつもと様子の違う彼女の夢を見た。夢の中の彼女が言う。
「おとといは兎を見たわ。昨日は鹿、今日はあなた」
 そして何日か経った昼下がり、別れる時が来て彼女がたずねる。
「あした、また会えるかしら?」
 その日を最後に、彼女は丘の上に現れなくなった。次の日も、さらに次の日も、彼女は現れない。これまで、妻以外の女には眼もくれなかった40歳のマークは、自分が彼女と恋に落ちたことに気づく。
 それから4日目、もう会えないかもしれないと希望を失いつつ丘に登ったマークは、日のあたる丘の上に黒いドレスを着た彼女が立っているのを見る。
「父が死にました」
 タイムマシンを発明した父親が死んだので、消耗の激しいタイムマシンの修理ができない。あと1回くらいしか時間旅行はできないと言う。
「もし来られなかったときのために──思い出のために──いっておきます。あなたを愛しています」
 言い終わると彼女は走り出し、丘を軽やかに駆けおり、一瞬のうちに姿を消した。
 マークは、彼女を捜して方々で消息をたずねたが、だれも彼女の姿を見たものはいなかった。
 休暇が終わって家に戻ったマークは、妻が街にビンゴゲームをしに出かけたとき、時間つぶしにと屋根裏部屋で古いジグソーパズルを取り出そうとして、棚から妻のスーツケースを落としてしまう。
 妻が秘密だと言って一度も開いたことのないスーツケースは、落とした衝撃で錆び付いた錠が壊れ、そこから白いドレスがはみ出していた。ドレスを指でつまみ上げ見ると、これとよく似た特徴のある生地に記憶があった。
 妻は20年後に若い自分が40歳になったマークに会い、2人が再び恋に落ちることを知っていた。そうでなければならなかった。
 思えば妻はいつまでも若さを失わなかった。その理由が20年連れ添ってようやくわかった。彼女が老いることに不安を持っていたことも。
 マークは走って妻の帰りをビンゴバスが止まる街角まで迎えにいく。
 バスから降り立った妻の眼には、見慣れた不安の色があった。マークが手をのばし、遥かな時を超えて妻のほほに触れたとき、彼女の眼から不安は永久に去っていった。
 
 老いとともに薄れていく愛に不安を感じる妻が、若いときの自分の姿を夫に見せて、夫が一目惚れすることで愛を確認する。老いることの不安、愛情の不安は少なくとも結果的に彼女の思い過ごしであった。ただそれだけの話である。この小説に大きな波風は立たない。しかし日常にある不安が取り除かれたとき、愛情はいっそう強くなることを、この作品は語っている。だが裏返せば、もしその不安に気づかず放置しておけば、やがて夫婦生活の破綻の原因になるかもしれないという不幸への恐怖も潜在する。
 SF小説とも思える設定と、結婚して20年になる40歳の男の心の揺らぎを、実にみごとに表現した名作である。
 「たんぽぽ娘」わずか23ページのためだけにこの本を購入したとしても、決して損ではない。
 
たんぽぽ娘 (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社

クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』

2015年01月26日 | 本と雑誌



 文庫の棚の中で、いかにも早く読んでくれと言わんばかりに頭が飛び出した本があったので引き抜いたらこれだった。
 だいぶ前に神保町の古本屋のワゴンの中に見つけて、たしか50円で買ってそのままになっていた。
 奥付は昭和16年発行になっていて、この頃の岩波文庫は用紙が菊判だものだから現在の文庫と比較して数ミリ背が高い。
 横書きのタイトルがアラビア語みたいに右から左に書かれており、本文は当然旧字旧仮名である。
 もちろん、新字体新仮名遣いに直したものが出ている、いや、出ていたが(現在品切れ)、ときどきこうした旧字旧仮名を読んでおかないと、いざという時に読めなくなる。いざという時とはどんな時だと突っ込まれると困るが。まあ、読めるんだという自慢である。
 

 
 クライスト(1777 - 1811年)はドイツの劇作家である。代表作は『こわれがめ』。俳優座が1964年に千田是也演出、東野英心主演で上演したことがある。東野に誘われて観に行った。
『ミヒャエル・コールハースの運命』は、クライストの小説作品では代表作。テーマは、権力者の理不尽に対し、敢然と立ち向かった市民の物語である。
 
 博労(ばくろう)のミヒャエル・コールハースは、自らが育てた数頭の見事な馬を引いてザクセンに向かうが、トロンケンブルク城に近づいたとき、通り抜けるには通行証が必要だと言われる。以前ここを通ったときには必要がなかったのでコールハースが抗議すると、領主が替わって通行証が必要になったという。やむなく通行証を貰いにドレスデンまでとりにいくことになり、保証として特に手入れの行き届いた自慢の黒馬二頭とそれを世話する牧童とを預けドレスデンに向かう。しかしドレスデンに着いてみると、通行証が必要という話は嘘であったことがわかる。コールハースが城に戻ると、保証として置いていった馬はろくに飼い葉も与えられていなかったばかりか農作業などにこき使われ、やせ細って見る陰もない駄馬に変わり果てていた。コールハースは領主のフォン・トロンカに弁償を求めるが、トロンカはただで飼い葉を喰わせているのだから仕事をさせるのは当然だと言って取り合わない。正義感が強く実直なコールハースは泣き寝入りできず、ブランデンブルク選帝侯宛てに、ザクセン選帝侯への抗議を促す訴状を書き、妻を使いにやる。しかしこれも握りつぶされ、その上訴状を届けようとした妻は、衛兵から暴行を受けたことがもとで死んでしまう。
 コールハースは怒り心頭に発し、武装した7人の仲間とともに城を襲撃する。城を打ち壊したものの、フォン・トロンカはヴィッテンベルクへ逃れてしまう。フォン・トロンカを追いながらたちを仲間に引き込み、コールハースの軍隊は400人にも膨れ上がる。フォン・トロンカをあぶりだすために街を焼き討ちにし、国中を恐怖に陥れる。すると、ライプツィヒの知恵者マルティン・ルターがコールハースの行動を非難する布告を出す。しかし信仰が厚くルターを尊敬していたコールハースは、ルターに面会を求め、これまでの経緯を説明する。話を聞いたルターは、コールハース軍の武装解除を条件に再審を認めさせる。再審でコールハースの訴えが全面的に認められた結果、フォン・トロンカには賠償と2年の禁固刑が言い渡される。
 一方コールハースには、街で破壊の限りを尽くした罪を否定できず、裁判で打ち首の判決がくだされる。しかしコールハースは、裁判で自分の訴えが認められたことに満足し、判決を受け入れるのであった。

 
 それにしても、馬2頭をだまし取られた事件がもとで、内戦ともいえる大暴動になるなど、いささか大げさに過ぎる話なのだが、実は16世紀に実際にあった事件で、実在したザクセンの体制反逆者ハンス・コールハースがモデル。冗談みたいな話だが、争いの原因をたどってみると、ちょっとした出来事がきっかけがあれば鬱積した市民の不満が爆発し、取り返しのつかない大事になるという話である。安倍晋三の悪政でひどい目にあっているにもかかわらず、不満どころか気づいてさえもいない日本国民とはいったいなんなんだろうか。

日夏耿之介訳の『サロメ』

2015年01月24日 | 本と雑誌

 
 岩波文庫版の『サロメ』が行方不明になった。そこで買い直しておこうとネットを漁っていたら、日夏耿之介訳による『院曲 撒羅米(サロメ)』を見つけた。
 翻訳としては岩波文庫版の福田恆存訳が有名だが、詩人で英文学者の日夏耿之介訳も名訳である。こちらが最初の日本語訳となる。
 いくつかの出版社から出され、講談社文芸文庫に入ったこともあるが、現在はこの沖積社版のみ。
 日夏耿之介(1890~1971)は、エドガー・アラン・ポーの詩集『ポオ詩集』におさめられた「アナベル・リイ」が有名で、この詩は大江健三郎の小説『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』の題材になっている。
 訳文は口語というよりも文語体に近く、現代の上演にはあまり適していない。この台詞で舞台に上げても、最近の観客には聞き取れず、理解できないのではないか。したがって、文学として観賞するのが良いと思う。
 登場人物の名前はすべて漢字が当ててあり、これは上海美華書館から発行されていた中国語訳にならったもので、冒頭の小引(凡例)に「東方趣味ニ準ヘムガタメノミ」とあり、その方が東洋人に受け入れられやすいと考えたようだ。つまり上演目的というよりは、読み物として翻訳したのだろう。舞台にのせたら漢字も平仮名もない。
 サロメは撒羅米、ヨカナーンは約翰(ヨハネ)。新約聖書の「洗礼者ヨハネ」なのだから約翰(ヨハネ)で間違いではない。
 
 『サロメ』が最初に上演されたのは1914年、島村抱月の芸術座で、サロメは松井須磨子が演じた。どんな舞台だったのか大変興味があるが、VTRなどない時代である、記録があろうはずはない。
 
 この沖積社版、基本的には日夏耿之介の原文通りなのだが、漢字が旧字体ではなく新字体である。仮名は旧仮名遣いなのだから何とかならなかったのか。たぶん、コンピューターのフォントに旧字体がないのが理由だろう。活版では制作費がかかりすぎる。しかし、せっかくならと切に思う。
 
 『サロメ』といえば、オスカー・ワイルドの戯曲もさることながら、ビアズレーによる挿絵があまりにも有名だ。
 

         舞姫のかづけもの(褒美)。
 
 この挿絵だけで画集が出ているほどなのだが、出版当初は卑猥であるという理由で修正を求められた。現在出版されているものはオリジナルである。
 
 ビアズレーの挿絵は、日本でも多くの画家やイラストレータに影響を与えた。

『lasbarcas』別冊

2015年01月19日 | 本と雑誌


『けーし風』の裏表紙に広告が掲載されていて、「文学とアート作品を自由に発表できる場」というキャッチフレーズと執筆者に惹かれて衝動的に注文してしまった。
 この雑誌、創刊当時は気づかなかったが、この別冊に限っては妙に気になった。
 送られてきてすぐに写真を眺めての第一印象は「何じゃこりゃ?」。
 かつて、「君の写真はアサカメ(アサヒカメラ)っぽいね」とか、「ポンカメ(日本カメラ)風だね」とか言い合っていた時代があって、きれいにとってそれをさまざまに加工して作品にしていて、そういう写真にあこがれたりしていたものだ。ハイキーとかローキーとか砂目とかソラリゼーションとか、オリジナルはたいした作品でなくても、そうやっていじくると斬新な作品に見えてくる。この雑誌に掲載された作品の多くはそんな写真の羅列に見えた。(ごめん)
 僕自身も20代の頃にはそんなモノをコンクールに応募しては賞をもらったりしていた。今思うとろくでもない作品で、あんなモノに賞を出す主催者の気が知れない。
 
 掲載写真の多くは、サロンに飾って違和感がないインテリアっぽい作品ではあるが、だからなんだ、と言いたくなる。ドンと胸に飛び込んでくるような作品は見当たらず、正直つまらない。

 雑誌の付録でインターネット上で動画が見られるアクセスキーがついていて、そこでは作品とともに作者何人かのインタビューが見られる。なかの一人が、沖縄発信の作品についてまわる「沖縄」という冠を取り外したかった、というようなことを言っていた。
 本土の人間から見ると、沖縄発信の作品には他の都道府県とは比べ物にならない個性があって、「オキナワ」という先入観を排除できない場合が多い。しかし、アートとは自らの生活環境の中から生まれ出るものであって、作者が沖縄に住んでいればどうしても作品に沖縄の匂いがつく。だからといって、必然の結果ではなく、それを意図的になくそうとすれば、作品の持つ重要な要素が消えてしまいかねない。のっぺらぼうなつまらない作品なってしまう場合が多い。
 つまり、あえて脱沖縄を宣言する必要はないのだ。
 この動画も、わざわざロックをかけて購読者限定にするようなものには思えず、Yuo Yubeにアップして販促材料にした方がよかったのではないか。
 
 写真にはあまり興味が持てなかったが、文章の方は、それなりに面白い。新城郁夫氏の「高嶺剛論のためのノート」は興味深い。高嶺氏は現在、今年公開予定の新作を製作中で、それを意識しての高嶺論だが、代表作の『ウンタマギルー』には当然触れていて、復帰前の沖縄の高等弁務官に対する風刺や、ほぼ全編方言で構成されたファンタジックな世界を表現しているこの作品を、好意的に評価している。この映画の紹介は次の機会にするが、すごい作品である。抽象的な表現が多いが、的を射たいい文章だ。
 
 新城郁夫はこの文章の中で、ピエール・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』と『豚小屋』を傑作と評価し引き合いに出している。なるほど、その世界なんだと納得し、パゾリーニと『ウンタマギルー』が一瞬でオーバーラップした。
 
 ちなみに、僕が初めてパゾリーニの映画を見たのは『テオレマ』で、当時の僕はけっこう引き込まれ、原作本まで買って読んだ。しかし現在は、パゾリーニの作品でもう一度観たいと思うのは『奇跡の丘』と『アポロンの地獄』だけであとは興味がない。とくに『ソドムの市』なんかはくそくらえだ。(本当にクソをくらう映画なのだ。マンジャ!) 
 
 それはさておき、この雑誌に作品を載せているアーチストの年齢層は幅広い。映画監督の高嶺剛氏や新城郁夫氏をはじめ、実績のある作家も名を連ねている。
 明確に言っておきたいことは、アートすなわち芸術作品もコミュニケーション手段の一つであり、発信する側と受け取る側のキャッチボールで成り立っている。受け取る側の視線を無視しては成り立たない。かつてアンダーグラウンドと言われる分野があって、わかる人間がわかればいいなどと傲慢な態度で作品を創り続けた制作集団が雨後のタケノコのように現れて、いずれも長続きはしていなかった。
 この雑誌を長続きさせるには常に一定の読者を確保することが必須だし、そのためには何を伝えたいのか、伝えるべきことがどう伝わっているか、それを意識することは重要だ。これは鑑賞者に媚びるということではないので念のため。
 
 結論。意図がよくわからない雑誌だ。面白いかつまらないかも、よくわからない。もしかすると、僕の頭が古いのか固いのか、豪華なカタログみたいな印象で、わざわざ金を払って手にするものでもないと感じた。
 最後になったが、製作を担当したでいご印刷さんの仕事はお見事である。

『けーし風』85号 特集 2014 沖縄の選択

2015年01月13日 | 本と雑誌

 
 めずらしく発行日が守られた。実は12月中に到着していたのだが、つい封も開けずにそのままになっていた。最も開封したところで読む時間がなかった。
 特集は、去る沖縄県知事選の振り返りである。
 さしあたり、《座談会》「県知事選を終えて」を読む。発言者は新崎盛暉(沖縄大学名誉教授)さん、桜井国俊(沖縄大学名誉教授)さん、高嶺朝一(ジャーナリスト)さん。
 
 この座談会が行われたのは昨年12月5日で、まだ衆議院選挙は行われておらず、1か月以上のタイムラグがあるため、会話の内容が現実に合わない個所があるのはやむを得ない。新聞ではないのだから、昨日のニュースを今日伝えるというわけにはいかない。
 したがって、翁長さんが新たに知事になって、沖縄が安倍内閣から露骨に冷遇されるようになったことには、当然のことながら触れられていない。
 
 新崎さんは「旧自民党から共産党に至るまでの統一戦線という枠組みでの県知事選挙というのは「前代未聞」の、というか、日本の戦後史上初めてのことではないでしょうか」と、オール沖縄体制を評価した。「山内徳信さんの表現でいえば『国共合作』というか、『小異を残して大同に就く』という形で克服されていった。」
 
 桜井さんは、10万票という差について「正直なところ、世の中は『圧勝』とはいっても、私はもう少し票差が開いてほしかった。」と語る。
 実はこの票差について、僕もどこかで話した覚えがある。10万票という票差は、大きいようで小さいと思うのだ。大勝ではあるが圧勝ではないとも。風向きが変われば一瞬で吹き飛ぶ数字でもある。オール沖縄という、悪くいえば呉越同舟の集まりの恐さだ。
 高嶺さんがいうように、「国共合作」は結局は大陸と台湾に別れてしまった。しかし、中国の「国共合作」の場合、日本帝国主義を打倒するという共通の大目標があった。そして、1945年8月に大日本帝国が無条件降伏したときに「国共合作」の目的は達成された。
 しかし沖縄の場合、知事選に勝つことは最終目標ではなく、ただの通過点に過ぎない。すべての基地がなくなり、本土による沖縄支配から脱却することこそが到達地点である。その大目標を達成するまでオール沖縄が維持できるかどうか、それをどうやって維持していくかが今後の重要課題になる。「翁長さんのやり方によってはまた変わるということもあるのではないかと思いますが」と高嶺さんは危惧する。
 
 実はこの座談会が行われた時点ではまだ、交付金の削減の話は出ていなかったのだが、高嶺さんは「予算に懸案がなければいいが、中央政府と対立しているときだから、相手は必ず何か仕掛けてきますよね。」と予言していた。それに対して新崎さんが面白いことをいう。
「そのとき、彼(翁長知事)が『カネはいらない』といったら、沖縄の選挙民、有権者はどうするだろうか。」
 仲井真時代、交渉の駆け引きとして「予算交渉で交付金を出さないと言って密かに説得すれば、仲井真さんは埋め立てを承認せざるを得ないだろう」とCIAの高官がいっていたらしいので、沖縄冷遇は翁長知事誕生以前から準備されていたようだ。
 
 高嶺さんの「非暴力で貫いてきた沖縄の過去のこれまでの運動というのは、世界に誇っていいと思っています。」という言葉は印象的である。

『うるまネシア』第19号より

2015年01月12日 | 本と雑誌


 今年最初の『うるまネシア』が東京琉球館から送られてきたのでパラパラと目を通す。
 今年、マスメディアは戦後70年ということで、安倍政権の撒いた地雷を踏まない程度に戦争関連番組をやっているが、沖縄にとっては「沖縄戦70年」の方がずっと意味深い。
 その特集の中で浦崎成子さんによる「日本のアベノリスク克服は可能か ― 女性の輝きほど遠い国から ―」がまとまっていてよく書けていた。
 
「アベノリスク」とはなかなか言い得て妙
「アベノミクスのせいで不景気が進んでいる」とはマスメディアとは逆の巷の声だ。安倍政権はすでに失敗することが明らかな新自由主義的経済の推進を行っている。その代表が「シャンペンタワー理論」である。高くピラミッド型に積み上げたシャンペングラスの頂上にシャンペンを注ぐと、上から順にシャンペンが溢れて、最後は一番下のグラスも満たされるというわけだ。ところがどっこい、経済はそうはうまくいかない。一番上のグラスが異常に大きかったり、いくら注いでもゴム風船みたいにふくれあがって溜まるのは上のグラスばかり、なかなか下まで降りてこないのが過去の例だ。
 それどころかシャンペンが頂上ののグラスにばかり吸い込まれることで、下のグラスはからからに干上がってしまう。
 やがて、土台となるグラスにひび割れが生じ、その中の一つでも壊れれば、連鎖的にシャンペンタワーは崩壊する。それはすでにアメリカがその状況を経験しているではないか。リーマンショックはまさにそれ、経済全体に危機が訪れる。
 だから、アベノミクスではなくアベノリスクなのだ。これから度々使わせてもらう。
 
 閑話休題。話はこれではない。
 浦崎成子さんの記事、タイトルから経済問題に触れているのかと思ったら、そうではなかった。
 僕は以前から、右翼が神経を尖らせる三つの事件として「南京事件」「従軍慰安婦問題」そして沖縄のいわゆる「集団自決(強制された集団死)」をあげてきた。この浦上さんの記事はその三つのうち沖縄問題に触れつつ「従軍慰安婦問題」を中心に取り上げ、安倍内閣によるファシズムの台頭を危惧する。
 とくに、「慰安婦」問題は日本の戦争責任、植民地支配、女性の人権侵害にかかわることであるが、いくら歴史認識を見なおせと声高に叫んでも、国内の右翼が元気づくだけで、問題そのものが消えるわけではない。かえって周辺諸国との関係を悪化させる。
 
「慰安婦」問題の歪曲と否定は、「美しい日本を取り戻す」ために恰好の攻撃材料、ターゲットとされた。憲法改定を進め、積極的平和主義で戦争する日本軍を設置するためには、大日本帝国の軍隊が残虐な「南京事件」を起こし、軍隊による「性奴隷制度」を運用し、軍命による「集団自決」「戦争マラリア」などがあってはならないことである。歴史修正によって日本軍の残虐行為は、捏造されたものか逸脱した下級兵士の行為であったと短小化する必要があるとされる。(引用)
 
 記事は、昨年、麻生太郎元首相が憲法改正について「ナチの手口を真似てはどうか」と発言したことにおよぶ。
 
 すでに憲法改定の手順に関する何らかの研究において、ナチによるワイマール憲法骨抜きの手法が参考にされていることが伺えた。(引用)
 
 僕は、口の軽い麻生太郎がつい本音を漏らしたととらえている。しかしドイツならこのような発言は処罰の対象になる。はっきり言えることは、安倍政権の目指すところは「全体主義」であろう。今のところ露骨にそれはあらわさない(いくら何でもそれは言えないだろう)が、その一旦を麻生太郎の曲がった口が漏らしてしまった。
 ナチスが権力を把握したのには綿密な計画と周到な準備があった。時間をかけ、教育を通じてナチのエリート集団である親衛隊を作った。国民に悟られる前にワイマール憲法を骨抜きにした。「教育基本法」の改定、なしくずしに憲法を改定する「集団的自衛権」の閣内承認など、安倍政権はまさにナチと同じ道を歩もうとしているのだ。
 
 安倍晋三を中心とした右翼がいくら声を荒げても、国際的には何ら問題は解決しない。かえって日本を国際社会から孤立させるばかりだ。かつて、国際連盟の議場で日本が世界中から糾弾されたとき、松岡洋右全権が席を蹴って立ち、それから日本は無謀な戦争の深みに際限なくはまっていった。
 もし日本がこのままの道を進むなら、アメリカも含め世界中から総スカンを喰らい、それこそ国連脱退、宣戦布告となるやも知れない。
「それは妄想だ」などと思うなかれ、妄想が妄想でなくなったのが、「アジア太平洋戦争」なのだから。

ソフィ・カルという女

2015年01月11日 | 本と雑誌

 
 先日のブログにポール・オースターの『リヴァイアサン』について記事をアップしたら、その小説の主要な登場人物の1人マリア・ターナーのモデルであるとのコメントをいただいた。マリア・ターナーとして描かれている女性もかなり風変わりであるが、実在のソフィ・カルは超ど級の「ヘン」な女だ。ご紹介いただいた『本当の話』という、自身の行動をそのまま書き綴った本を読んで、これはとんでもない人だと感じた。
 
 紹介いただくまで、ソフィ・カルについての知識はまったくなかった。そもそも彼女と関連の深い作家、ポール・オースターも読み始めたばかりなのだ。
 
 ソフィ・カルは1953年生まれで、10代の終りから、7年間にわたって放浪生活を送り、26歳のときに生まれ育ったパリに戻る。以来〈写真〉という表現手段を媒介にして、人間のアイデンティティにつきまとう“謎”を追及した諸作品を生み出すようになる。(『本当の話』カバー袖より)
 
 放浪中は、ストリッパーやヌードモデル、はては娼婦までやったらしい。
 
 
 
 紹介された『本当の話』を読んでみたいと思い、Amazonで検索したら、版元品切れか絶版らしく、6千円近い値段がつけられていた。四六判ハードカバー200ページ程度の本で、定価の2000円でも高いのに6000円とはなにごとか!
 そこで、わが杉並の中央図書館で検索すると、あった。さすが、都内有数の蔵書数を誇る図書館で、読みたい本はおおかた揃っている。ちなみに、沖縄の作家崎山多美の本も巷では入手しにくいのだが、それもほとんど蔵書しているのだ。
 
 この本は、「ヴェネツィア組曲」「尾行」「本当の話」の3作品で構成されていて、巻末にジャン・ボードリヤールによる「ヴェネツィア組曲」の解説が掲載されている。
 
「ヴェネツィア組曲」は1人の男をただひたすら尾行し、観察し写真におさめる時系列の記録である。尾行の目的が、男との交際を求めるためとか、男から被害を被ったとか、そういうことは何もない。
 しかし、それにしては執拗だ。男が泊まっているホテルを見つけるために、ヴェネツィア中のホテルほとんどすべてに電話をかける。男が骨董品屋に入り、何時間も出てこなくてもただひたすら待つ。明確な目的もないのに、この根気はどこから来ているのか。
 テキストのあいだに何枚もの写真が掲載されていて、中には映画フィルムのようなベタ焼きも含まれている。カメラは実に頻繁にシャッターが切られ、男が女性と腕を組みながら歩いていく姿を、連続写真のようにとらえる。
 ソフィ・カルはスカンタールというアクセサリーをカメラのレンズに装着している。これを使うと被写体にレンズを直接向けることなく写せるというのだ。日本で使ったら絶対にまずい。
 
「尾行」は、探偵を雇ってこんどは逆に自分を尾行させ、写真付の報告書を提出させる。それには実際の行動と異なる個所があるのだが、探偵のそんな手抜きは問題でないのだ。尾行し、尾行されるという行動の中から、主観と客観二重の「生」を見出し、それを写真とテキストの両方で表現する、それが彼女の芸術だ。
 ただ、彼女の行動は危険で、他人のプライバシーを侵し、訴えられることもしばしばだったらしい。
 
 三つ目の作品「本当の話」はこれが本当に“本当の話”なら、こんな女にはあんまり近寄りたくない。これが『リヴァイアサン』のマリア・ターナの実際の姿なのか。
 
「若い娘の夢」
 15歳の頃、あるレストランで「若い娘の夢」という名のデザートを注文したら、写真のようなモノが出てきた。
 

 
「ボーイは微笑を浮かべて、さあどうぞといった。私は涙をこらえ、目をつむった。何年か後、初めて男の裸を目の当たりにしたときのように。」

「離婚」
 こんな写真を撮ってはいけない。「おしっこ二人羽織」である。まあ、カップルが冗談半分でやることはあっても、それを写真に撮ったり、まして本に掲載したりはしないだろう。
 しかもこの写真、プライベートフォトではなく、スタジオでカメラマンにとらせたというから驚きだ。
 

 
「私たちが別れた直後、わたしはグレッグ(夫)に、この儀式の記念写真をとろうと持ちかけた。そこでブルックリンのスタジオで、カメラの見守る中、わたしはプラスチックのバケツに向かって彼におしっこをさせた。この撮影は、わたしにとって彼の性器に最後にもう一度だけ触れるための口実となった。その晩、わたしは離婚に同意した。」
 
 この本の本編も解説も読み終えたとき、ジャン・ボードリヤールの解説が、天沢退二郎が『紙の鏡』という評論集に掲載した、つげ義春の『ねじ式』について書かれた文章とオーバーラップした。
『ねじ式』では海で重傷を負い此岸から彼岸に迷い込んだ少年が、放浪の末「女医」に象徴される「オンナ」と出会うことで自己を取り戻してモーターボートで此岸に戻る話だ。
 ソフィ・カルは「尾行」という“放浪”を通じて、自己を客観的に見ることを行った。それには写真の持つ役割がとても大きかったと思う。他を映し出すことで自己を連続的に発見していったのだ。
 また、自分を尾行させて探偵に自分を撮らせるという行為には、自分がどこに、どのように存在しているのかを確かめたに違いない。
 それにしても、面倒くさい女である。たいていの男は共に暮らすことを拒否し、やめてしまう、きっと。それにしても、近寄る男が尽きることがないとは、さぞかし魅力的な女性なのだろうか。

ポール・オースター『リヴァイアサン』

2015年01月09日 | 本と雑誌

 一度は読んでみたいと思いつつ、なかなか機会が見つからなかった。そもそも小説を読む機会がなかなかもてない。次々に送られてくる原稿や、執筆・編集のための参考文献、加えて定期的に送られてくる雑誌やニューズレターなど、「読むという作業」のために時間の多くを奪われてしまうからだ。
 それでも、話題の作家の作品に一度は接しておかなければと思いつつ、昨年暮れにノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノとポール・オースターの代表的な作品を何冊か購入した。『リヴァイアサン』はその1冊である。
 
『リヴァイアサン』といえばホッブスによる国家論のタイトルとして有名だが、もともとは旧約聖書に出てくる巨大な幻獣であり、ホッブスはそれを絶対的権力をもつ国家になぞらえた。では、ポール・オースターがなぜこのタイトルをつけたのかというと、それはよくわからない。作品に登場する人物はいずれも権力とは無縁だし、強いていうならば、この物語の中核をなす登場人物であるベンジャミン・サックスが爆破してまわった自由の女神像に象徴される偽物の自由のことだろうか。 
 
 物語はかなり複雑である。何人もの男女が入り乱れ絡み合う。主要な登場人物のほとんど全員がそれぞれ性的な関係や恋愛関係を結ぶ。ドロドロのメロドラマ(ノーマン・メイラーの『鹿の園』を彷彿とさせる)を想像するかもしれないが、そんな通俗的な批判など吹き飛んでしまうほど心理描写が精緻だ。いうまでもないが、ポール・オースターはメロドラマを書こうとしたのではなく、人間の感情、思想、心理などの変遷を描く上で、男女関係を抜きには出来ないということなのである。
 
 この物語の語り手である作家のピーター・エアロンは、『ニューヨーク・タイムス』で1人の男の爆死を知る。身元も何もわからないということだったが、その男が親友のベンジャミン・サックス(1945年8月6日生まれ、広島に原爆が投下された日)だと悟る。
 サックス自身も作家であるが、生活できるほどには稼いでいない。
 あるとき山道で迷ったサックスがヒッチハイクをした車の若い運転手が、道をふさいでいた車に乗っていた男のために銃で撃たれる。サックスは若い男を守ろうとして銃撃した男を撲殺してしまう。殺してしまった男はピーターの元妻でサックスとも関係のあったマリア・ターナーの無二の親友リリアン・スターンの夫、ディマジオであったことがわかる。(すでにこのあたりの人間関係がややこしい)
 ディマジオは車のトランクに大金を隠し持っていて、サックスはこの金はリリアンに渡すべきだと考え、彼女のもとを訪れる。
 リリアンは美しい女性で、しかし家事に疎い。サックスはリリアンの魅力に惹かれ、金を一度に渡さず部屋を片付けながら少しずつ(それでも大金だが)毎日渡すことを考える。当初リリアンはサックスを警戒するが、彼女の1人娘がサックスに懐いたことと、リリアンもサックスに心を許すようになり、やがてベッドをともにする。ある日、サックスは家で独りになったとき、これまで覗くことのなかったリリアンの死んだ夫ディマジオの部屋をつぶさに調べた。そこでサックスが目にしたのは、数冊のマルクスの著作と爆弾づくりの参考書だった。
 つまらない理由からリリアンと喧嘩したサックスが家を飛び出したあと、ニューヨークの各所で自由の女神のレプリカが爆破されているというニュースが飛び込んでくる。犯人は「自由の怪人」と呼ばれ、噂は巷を席巻した。
 ピーターは、その「自由の怪人」がサックスではないかと思いはじめる。
 
 変化しさまざまに移り変わる人間の思考や愛情を、サスペンスタッチの緊迫感と、複雑な人間関係を通じて見事に描いた作品である。
 読み終えて、「すごい小説だなあ」とただ感心するばかりであった。
 もう1、2冊読んでみようかと思っている。
 
 四六判346ページで、決して分厚いという部類には入らないが、文字が小さめで9ポイント(13級)1ページあたりに19行×43文字がぎっしりと詰まっている。最近の小説としては文字数が多く、読み応えがある。

『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』

2014年12月28日 | 本と雑誌

ヒョウ柄と飴ちゃんを愛する大阪のおばちゃんがもし日本国憲法を読んだら」というキャッチフレーズに速攻で飛びついた。
 著者の谷口真由美さんは、大阪の普通の主婦と思いきや、大阪国際大学の准教授で全日本おばちゃん党代表代行の肩書きを持つ。1975年生まれだからアラフォー、僕のイメージでは「大阪のおばちゃん」というのには、いささか気が引ける。ちょっと年増のお姉さんというところか。
 しかし、本書に掲載の写真を見ると、やっぱりおばちゃんだ。
 大阪弁でしゃべるおばちゃんが憲法について井戸端会議でしゃべったらどないなるか? というコンセプトで作られたのがこの本。ちなみに、カバーもヒョウ柄、しかし「飴ちゃん」はついてこない。
 
 今までに、「学校で憲法ならったことありますか?」と聞いたら、たいがいのお人は「ならいました」って言わはるんです。
「ほな、どの条文知ってますか?」って聞いたら「前文と9条」って言わはるお人がめっちゃ多いんですわ。人によったら、日本国憲法っていうのは9条までしかないって思ってることもあって、笑い話みたいやけど笑い話ちゃいますねん、これが。

 
 実際にこんな調子で大学で講義をしているそうだ。
 もちろんこの本は「前文」と「9条」だけではなくて、自民党政権が気に入らないからといじり倒している条文について、ほとんどが「おばちゃん語」訳に加えて、「おばちゃん語」の解説がつけられている。

 たとえば9条、というかやっぱり9条。
 
 (2項)
 ほんで、さっきの戦争を永久に棄てましてんっていう目的を達成するためには、軍隊とか戦力は持ちまへんで。ほんで戦争する権利は認めまへんで。
 
 そして解説。
 
「集団的自衛権」っちゅうのは、ヤンキーのケンカみたいなモンで、仲良しのツレがやられて、「ツレに助けてーや」と言われたら、ホンマはツレのほうが間違ってたかもしれんケンカとか、ツレのほうが明らかにいじめてる側やのにとか関係なく、「俺、あいつのツレやから」という理由でケンカに行くようなモンですわ。ツレがめっちゃ悪い奴やったらどないすんねん、というのはすっ飛ばすんですな。
 
 本書の最後では、改憲派がよくいう、日本国憲法は「押しつけや!」という主張に反論する。
 成立過程をしっかり勉強すれば、生活保護や社会権など、アメリカが出してくるはずのない条文が各所にあり、それらはむしろ、すでに東西冷戦が始まっていて敵対している社会主義ソ連の考え方に近いと語る。
 つまり、「押しつけ」という論理は、戦争のできる国にするために、改憲したい人たちの「へ理屈」ということになる。
 
 さてこの本、出版社が保守的な出版物で有名な文藝春秋である。著者に話があったとき、「ドッキリカメラ」かと思ったそうだ。「絶対売れる」と太鼓判を押してくれた、編集の「もの静かな都会の洗練されたお姉さん」が社内的に立場が危うくなるので、「本屋さんで手に取って読んではるそこのアナタ! 人助けやと思ってレジまで行ってそっと買ってくれまへんやろか?」とのことである。
 四六判並製216ページで定価1100円(+税)安い!

パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』

2014年12月26日 | 本と雑誌

 パトリック・モディアノは今年のノーベル文学賞受賞作家である。有名な作品は映画にもなった『イヴォンヌの香り』。
 まったく読んだこがなかったので何か1冊と思い、『図書』だったか『世界』だったかに広告が掲載されていた本書(2005年 白水社)を選んだ。
 韓流ドラマの火付け役となった『冬のソナタ』の作者等が影響を受けたとあるが、メロドラマではなくサスペンスの雰囲気が濃い。
 タイトルの「暗いブティック通り」とはローマの一角にある地名で、主人公が住んでいた住所とされている。ただ作品の中に登場するのは2か所だけで、あまり重要性はない。
 主人公は、ドイツ占領下のフランスからスイスに逃亡しようと不法越境を企てるが、協力者と称する男たちにだまされ、雪の中を置き去りにされる。それがもとですべての記憶を失う。本人は自分が何者であるのかなぜ記憶を失ったのかさえわからない。8年間勤めていた探偵社での経験から、わずかな手がかりをつなぎ合わせ、まさに正真正銘自分探しの旅に出る。
 次々に現れる怪しげな人間たちと何が真実かわからない「体験」らしき出来事に惑わされながら、主人公は小さなきっかけをつなぎ合わせ、右往左往しながら自分を見つけ出そうとする。
 過去と現在が交錯し、読者自身もまるで霧の中に紛れ込んだような茫漠とした世界に取り込まれてしまう。
 最後まで解明されることのない問題もいくつか残され、読者をすっきりさせないまま終わるのだが、それがかえってよい残り香になっている。
 
 人間関係が複雑なのと、多数登場する人物の名前が覚え切れずに、何度か後戻りしてしまった。老化現象かもしれない。
 いささか読みにくい部分があるものの、モディアノという作者のもつ幻想的な雰囲気はけっこうクセになりそうだ。
 
 翻訳されている最新の単行本は『失われた時のカフェで』(2011年 作品社)。ノーベル賞受賞で急に読者が増えたのだろうか、現在品切れである。

夏目漱石『こころ』出版100年

2014年12月09日 | 本と雑誌

 夏目漱石『こころ』初版(レプリカ)。

 昨日は松本清張生誕105年について、半端な周年に意味がわからないと書いたが、夏目漱石の『こころ』を岩波書店が出版して100年というのは実に潔い。
 1914年(大正3年)、夏目漱石の代表作の一つ『こころ』が、岩波書店から発行された。
 岩波書店はそれを記念して、初版を忠実に再現した復刻版を発行し、また、内容のみ初版に忠実な縮刷版も先頃出版した。
 書店には、記念のカバーをかけた漱石の文庫本がずらりと並んでいる。
 
 岩波書店の創業は1913年、岩波茂雄が神保町に古書店を開いたのがスタートである。昨年が100周年で、記念の図書カードが送られてきた。


 岩波書店創業100周年の記念図書カード
 
 夏目漱石は、ずっと自著を春陽堂から出してきていた。岩波茂雄は流行作家夏目漱石の作品を自社から発行したいと考え、漱石を日参して口説き落とし、『こころ』の原稿を手に入れた。
 『こころ』の装幀は漱石自身が手がけている。表紙は、中国周代の石鼓文の拓本を朱色にして地紋に使用し、『康煕字典』にある「心」の項をトリミングして貼付けてある。以後、石鼓文の拓本は漱石の象徴のようになり、岩波書店発行の漱石全集や文庫などに用いられている。
 本体の背表紙下部には「漱石著」とあり、著書には夏目の名字を付けず、「漱石」のみで著すことを好んだ。ちなみに奥付は本名の夏目金之助になっている。
 
 冒頭写真の『こころ』初版はもちろんレプリカである。岩波発行ではなく、近代文学館から「名著復刻全集」の一冊として出版されたものだ。これは神保町の古書店の店頭ワゴンの中に見つけ、ずいぶん安い値段で購入した記憶がある。
 
 夏目漱石の代表作といえば『ぼっちゃん』と『吾輩は猫である』、そして『三四郎』『それから』『』の三部作も有名だ。とくに『ぼっちゃん』は教科書にも掲載されているので、日本人ならほとんどの人が読んでいるはずだ。『吾輩は猫である』は、さまざまなシーンで話題になることが多いので、必要に迫られて読んだという人も多いのではないか。しかし、結構長編なので、途中で挫折したり最初からあきらめてしまう人も少なくない。段落が長く、文字がぎっしりと詰まっている印象が災いしているのだろうか。そのあたりは最近の作家との大きな違いだ。トントンと本の角を机の上でたたくと、活字が隅っこに寄さってしまいそうな本がもてはやされるが、自分的にはなんだか損をしたような気がする。かといって、バルガス・リョサの翻訳本のように、何ページにも渡って改行がなかったりすると、途中で栞を入れるのに困る。
 
 話が脱線したが、夏目漱石の小説は、長編が多く、芥川龍之介の小説ように、昼休みに1編だけ読むという向きには適していない。最近の若い読者には取っ付きにくいかもしれないが、読んでみればそんなに難しいことは書かれておらず、底抜けに面白い。
 
 高校生諸君、古典を嫌わずに卒業までにいずれか一つ読んでみてはいかがか。

「南京大虐殺」誌上討論完結

2014年12月05日 | 本と雑誌

 
 5週に渡って行われた、藤岡信勝×本多勝一誌上討論が一応完結した。
 感想を一言でいえば、最後まで平行線。ああいえばこう言うならばまだ興味がわくが、藤岡氏はなにを言ってもまともに聞き入れようとしない、だだっ子のようだった。
 
 最後まで藤岡氏がこだわったのは、犠牲者数30万人説である。しかし現在、研究者のあいだでも、中国では定説となっている犠牲者30万人は不正確な数字であると言われている。つまり、議論の対象ではないのだ。
 藤岡氏は語る。
 
 証言者の言う三十万人について、「誰かに教え込まれた数字」であると(本多氏は)明言されました。つまり、三十万人説を本多氏はこの討論で否定したことになります。そうすると、『中国の旅』(朝日新聞社刊)が三十万人説を衝撃的に広げたことの罪はぬぐいがたく大きいことになります。どう責任をとるつもりでしょうか。
 
 すでに修正されている数字である。にもかかわらず藤岡氏は、30万人には根拠がないとわかったのだから、「南京大虐殺」そのものが捏造だというのである。
 南京事件論争の初期段階では、30万人説が有力だった。その理由は、敗戦時、日本軍が戦争犯罪者として摘発されることを怖れ、証拠となる文献をすべて焼却してしまったために、日本軍の資料から被害の実態を把握することが困難で、中国側からの情報提供を根拠としたことによる。
 その後の研究で、中国側の犠牲者数も推測の域を出ておらず、当時南京に在住し事件を目の当たりにした外国人記者や、帰還日本兵の従軍日誌などから、現在犠牲者数は十数万人が妥当であろうというのが定説になっている(笠原十九司教授)。
 藤岡氏はその揚げ足を取ってこう語る。

 「数の問題を考えるにはまず、南京事件の歴史事実を認定する必要がある」。事件があったと先に信じろというのですから、倒錯も極まれりです。(中略)これは歴史の研究方法ではなく、自己暗示・自己催眠の方法です。

 自分が、「南京大虐殺」などなかったという妄想から出発していることなど、高い棚の上に置きっ放したまま批判しているのだ。
 事件が起きたという事実があり、それについて研究を重ねるうちにさまざまな実態が明らかになっていくことは多々あるもので、教科書などもその度に改訂される。したがって、何ら不合理な研究方法ではない。
 おまけに、石川達三氏や大宅壮一氏の著述も捏造だというのである。都合の悪い著作はなにもかも捏造扱いなのだから何をか言わんやだ。これでは討論もクソもあったものではない。そんなむちゃくちゃな理論を振り回しておいて、「本多氏のすべての質問に答え、すべて論破しました」と粋がっている。結局持論を述べただけで何一つ論破していない。
 
 この誌上討論を通じて、歴史改竄派がどのようにして事実をゆがめているか、その論法が明らかになったことは、収穫だった。
 彼をはじめとする歴史改竄派の論理は、先頃の朝日新聞による「従軍慰安婦」報道事件のように、数ある証拠の一つが成り立たなかったからすべてを誤りだとする「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」論法や、都合の悪い証拠はすべてインチキ扱いする「臭いものには蓋」論法なのだ。
 どんな証拠を突きつけられても厚顔無恥になかったことにする、先頃の「従軍慰安婦問題」についての安倍総理の国会答弁に何と似ていることか。
 
 それにしても問題は、こんなむちゃくちゃな論理を信じて「南京大虐殺なんてなかった、って言われてるよね」と気軽に信じてしまう人間がけっこういることだ。
 そういう人間にはていねいに説明して、「南京大虐殺」まぼろし論を排除していきたいと思っている。
 
 ところで、
 ろくでなし子の連載漫画はちゃんと掲載されていた。予定どおりか打ち切りかわからない最終回だったけど。