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ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

柳田國男『妖怪談義』

2015年12月16日 | 本と雑誌

 
 先日亡くなった水木しげる氏の妖怪のルーツを辿ってみた。
 妖怪と言えば、鳥山石燕の『図画百鬼夜行』が有名で、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪もそこから引いてきたと思われるものが多い。こちらは妖怪図鑑のようなもので、説明はそれぞれがいかなる妖怪であるかに留まる。
 本書『妖怪談義』(講談社学術文庫)は民俗学の立場から、庶民の間で自然発生的に現れてきた妖怪を、それぞれ当時の生活や環境を鑑みながら解説している。特徴は、『百鬼夜行』がおどろおどろしいのに比べ、柳田國男が語る妖怪にはそこはかとなく愛嬌がある。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪は、どうもこちらを主力に参考にしたのではないだろうかと思えるのだ。
 
 巻末に「妖怪名彙」という、妖怪辞書のような一節があって、そのなかに『百鬼夜行』には載っていない妖怪が多数登場する。
 イッタンモメン、ヌリカベ、スナカケ、コナキジジイ、アズキスクイなど。スナカケは砂かけばばあ、アズキスクイは小豆洗いだ。
 たとえばヌリカベについては、こんな解説がある。
 
 〈ヌリカベ〉筑前遠賀郡の海岸でいう。夜路をあるいていると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といって怖れられている。棒を以て下を払うと消えるが、上のほうをたたいてもどうもならぬという。壱岐島でヌリボウというのも似たものらしい。夜間路側の山から突き出すという。出る場処も定まりいろいろの言い伝えがある(続方言集)。
 
 かつて日本には「真の暗闇」があった。夜、月明かり星明かりだけがたよりであった時代、曇りや雨の夜などは、「一寸先」も見えない。足元を照らすのはか弱い提灯の明かりかたいまつで、庶民はそれすらも手元にないのがあたりまえ。従って、闇夜の外出はよほど火急の用事がない限り控えたものであった。道に迷うこともあったろうし、なにかの自然現象で発光体が現れたり飛翔することがあったろう。発光虫の集団が頭上を飛べば「イッタンモメン」、樹木の葉が揺れてなにかがハラハラと落ちてくれば「スナカケ」になる。
 いずれも、恐怖心が生み出した妖怪だ。翻って、そうした妖怪たちは精霊としての意味合いもあって、そこから自然を敬い神を畏れる風習が広がり、宗教へと発展して行った。
 水木しげる氏も言っているが、妖怪とは人類に対する警告である。妖怪の風習は自然を破壊し争いごとを起こす人間をいさめる役割を果たしてきた。
 
 はなから、非科学的、迷信を切って捨てるのは簡単だが、一旦立ち止まってその意味を考えてみたいものだ。

竹原あき子『パリ、サンルイ島─石の夢』

2015年12月02日 | 本と雑誌

 
 最近作った本から1冊。
 著者の竹原あき子さんは工業デザイナーで和光大学の名誉教授。東京原宿とパリ、サンルイ島の二か所の住まいを往復しての生活だ。
 この本は、サンルイ島での暮らしと、島の人々との交流を綴ったエッセイである。
 僕自身はパリとかサンルイ島とかにまったく興味がなかったので、竹原さんの本の原稿を読んでカルチャーショックの連続だった。この小さな島の内側と外側に存在する大きな格差。しかし、人種のるつぼのような島に住む人々の、底抜けの明るさが、何とも複雑な感情を呼び起こす。
 竹原さん自身は、脱原発や環境保護を、さまざまな機会に訴えかけている。
 
 本当は他の出版社から出すはずだった本を引き受けたので、最高にいい本にしたいと思った。
 全ページカラー印刷で、仮フランス、アンカットにスピン付という、通常の企画出版ではまずやらない贅沢な造りにした。
 編集レイアウトにずいぶん苦労して、予定よりもだいぶ余分に制作日数がかかってしまったけれど、想像以上に美しい本になったと自負している。
 納品が終わって竹原さんのお宅を訪ね、「良い仕事をしていただいてありがとう」といわれたときに心からほっとした。
 これだけの本をつくる機会はめったにある物ではない。僕にとっても作品として残せる。
 
 Amazonで購入できるので、ぜひご購読を。

植木不等式『ぼくらの哀しき超兵器』を読む

2015年11月28日 | 本と雑誌

 
 何か月も更新していないにもかかわらず、ブログの閲覧数は減っていない!
 驚いたと同時にお尻を叩かれているようなプレッシャーを感じた。
 「長いことサボっていて済みませんでした」

 ブログには載せなかったけれども、この間に映画やドラマも観たし読書もした。超多忙な中で読んだ本や映画、ドラマなどを徐々に紹介していく。

 さて、この『ぼくらの哀しき超兵器』、タイトルからして岩波が出すような本ではない、と思ったのだけれど、岩波がトンデモ本を出すはずもないので読んでみたこの本、資料に基づく実際にあったトンデモ兵器をこれでもかとばかり紹介している。
 ……本当に、実在した兵器だというから驚く。
 絶対に沈まない浮沈空母を造ろうと試行錯誤の結果、思いついたのが北極の氷山を削って巨大空母にする計画。「氷なら沈むことはないじゃないか!」しかし、氷は溶ける。そこで思いついたのが……。
 戦争だからといっても人殺しは避けたい、それなら敵の戦意を喪失させればいい。そのために空から禿薬を撒いたり、兵隊たちが同性愛に走って戦争どころではなくなるゲイ爆弾など、「本気かいな?」と思う奇策が山ほど登場する。当然、そのほとんどが計画倒れで実際に造られはしなかったらしいが……。
 東西冷戦のときのソ連とアメリカの核実験競争の際、アメリカは核兵器で月をぶっ壊してアメリカの軍事力を誇示しようと本気で計画したという。さらに、噂にはなったことがあるけれど、超能力者の研究も行われていたというのには何をか言わんや。
 それらの実験や研究はすべて国民の税金なのだから、たまったものではない。
 
 そんなおバカな計画から、もう少しで実現しそうだった超兵器などなど。戦争とは人間の思考回路を狂わせることの典型がここに集まっている。
 思えば、実際に使われてしまったので「哀しき超兵器」というにはあまりにもおぞましい原子爆弾も、戦争で狂った人間の産物と言えるだろう。その原子爆弾、日本も開発研究を中国大陸で行っていたとことを示す資料があるという。そういえば、そんな話も聞いたことがある。「だから、日本だって文句をいう筋合いではない」というアメリカの保守派の言い分も。やれやれ。

緊急出版『安倍壊憲クーデターとメディア支配』

2015年08月22日 | 本と雑誌


『Amazon 安倍壊憲クーデターとメディア支配』
 
 自民党の若手議員を集めた勉強会で、作家の百田尚樹氏は沖縄普天間基地移設問題で、「あの辺りはもともと田んぼだった。基地の近くにいれば金が儲かるというので集まって来た」などと、戦後の沖縄について全く無知蒙昧な発言をし、さらに、「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」などと暴言を吐いた。若手議員の中からは、「企業に圧力をかけて広告を出稿させないようにすればいい」などという、憲法を踏みにじるような発言まで飛び出した。
 
 しかしこれは、限られた若手議員だけの問題ではなく、安倍政権の本音と見ていい。すなわち、日本を再び軍国主義の国にするためには、マスコミを支配し、国民を洗脳し、憲法を改悪して安倍独裁の全体主義国家を目指していると推察できる。

 本書は多くの国民が反対する安保関連法案(集団的自衛権の行使を可能にする戦争法案)をなぜ強引に通そうとしているのか、安倍政権はどんな日本を作ろうとしているのかを、豊富な資料をもとに分かりやすく解説している。
 さらには、平和な日本を維持するための会話を広げるための一助となる一冊。

『Amazon 安倍壊憲クーデターとメディア支配』

念願の、白川静編『字通』落手

2015年07月05日 | 本と雑誌

 
 一般の人が漢和辞典を使う機会はあまりないかもしれない。『広辞苑』などの国語辞典に比べたら圧倒的に少ないだろう。
 しかし、出版に携わるものにとって漢和辞典は、必需品中の必需品なのである。
 先日、打ち合わせを兼ねて外出したおり、国際ブックフェアに立ち寄って2割引で購入した。

 ご存知のように、日本語の文字は漢字、平仮名、カタカナの三種類で成り立っており、文章はそれらを巧妙に使い分けることで成り立っている。
 
 平仮名とカタカナは音を表す表音文字であり、漢字は意味を表す表意文字に分類される。同じ音でも漢字で表すか仮名で表すかによって、ずいぶん印象が異なるので、最近では文章を優しく柔らかく表現したい女性を中心に、かなを多く使う人が増えているようだ。
 
 しかし、なにもかも仮名で書かれていては、かえって意味が通じにくくなる。たとえば児童書などでは対象年齢によって使える漢字が限られているので、編集にあっては多いに苦労する。
 
 そこで文章を読みやすくするために、漢字と仮名を上手に使い分けることになるのだが、漢字には「同訓異字」といって読み方は同じでも使われる漢字によって意味が異なる。
 最近のクイズ番組などであるような、「ほしょう=保障・保証・補償」だの「こうえん=公演・講演・公園」などは何ら迷うことはないけれど「おそれ=恐れ・怖れ・畏れ・虞れ」だとか「つくる=作る・造る・創る」などはわずかなニュアンスの違いで迷うことが多々ある。場合によっては文字の成り立ちから調べなければならない。もっとも、一冊の本の中で調べたくなる漢字はそう頻繁に出てくるものではないのだが。
 
 『字通』はそうした場合、文字の成り立ちや異字体を調べるのに大変便利なのだが、発行された当時の親本は2万3千円もする高価なもので、しかも巨大。早く普及版がでないものかと心待ちにしていたら、ようやく出版された。残念なことに前出の「同訓異字」の項目は普及版には含まれておらず、別冊になっているのだが、かえってそのほうが使いやすい。
 
 漢和辞典は20代の頃から講談社版の『大字典』を愛用していた。本当は大修館の『大漢和辞典』が欲しかったのだけれど、それこそ置き場に困る。数年前、『字通』と同じ著者の『字統』を購入した。解説は充実していてていねいなのだが、項目数にいささか不満を感じた。白川静氏にはもう一冊『字訓』というのがあって、これは手元にないが、『字通』はその両方の特徴を合わせ、かつ項目数も1万字近くまで増やしてある。ちなみに『大字典』の項目数は1万5千字近いので、項目数では遠く及ばない。しかし内容は圧倒的である。
 篆字や象形文字まで紹介されていて、文字の成り立ちが一目でわかる字典はこれをおいてほかにない。

水谷・岸『革共同政治局の敗北』

2015年06月18日 | 本と雑誌

 『革共同政治局の敗北 1975~2014 ─あるいは中核派の崩壊』
 水谷保孝/岸宏一 著
 白順社刊 3200円+税

 
  著者の1人、水谷保孝さんから案内があり、出版を知った。水谷さんは現在、「図書新聞」の企画部部長で、書評などの掲載を無理矢理お願いしてずいぶんお世話になっている。
 元革共同中核派の中心的な幹部で政治局員であった水谷さんは、2006年の党内クーデターおよびそれに係るリンチ事件を機に離党している。共著者の岸宏一さんも同様である。
 
「’70年安保」改訂反対闘争の敗北から、全共闘運動が挫折した最大の原因は、大衆からの支持が得られないどころか反発さえ買ったところにある。
 広範な労働者など無産階級の現実を客観的に見ることなく、都合よく解釈し、党員からの反対意見を一切聞き入れなかった。それがすべてであると思い込み、セクト主義に陥った末正義を勘違いしていた。現在の革共同中核派も、その路線をほぼ継続していると見ていい。言ってみれば思考回路は安倍政権と何ら変わらない。
 
 2006年の「3.14II」(革マル派による1975年の本多書記長虐殺事件「3.14」と区別するために「II」を加えてある)以降、反対派の粛正がエスカレートし、その中で2人の杉並区議会議員(結柴誠一、新城節子)の辞職勧告にまで発展した。二名が「都政を革新する会」(通称「都革新」革共同中核派)を離党し、その後無所属区民派として区民から多大な支持を得、高位当選を続けていることは周知の通りである。
 
 本書はこれまで知られていなかった事実が多数盛り込まれており、革共同の内部告発の書と言える。関係者のほとんどが実名で記されていることも衝撃的である。
 ドキュメンタリータッチで詳細に描かれた事象の数々は、一読に値する。
 それにしても、著者の身の安全は保たれるのだろうか。ちょっと気がかりである。
 
 貴重な記録が満載のであるが、しかし本書にはいくつかの欠点もある。まず、離党した側からの表現が主体になっており、現在「革共同」を名乗っている側からの意見はつまびらかとは言えない。また、著者が以前、中核派機関誌「前進」の編集長を務めていたことが影響しているのか、そもそも「前進」の欠点である独りよがりの説明不足は否めず、一定の基礎知識がないと意味不明な個所が多分にある。「前進」の読みにくい文体が垣間みられることも影響しているかもしれない。
 
 また、これは編集技術の問題だが、組版が荒っぽい。1ページ20行でも上手くやればもっとすっきりと読みやすくなる。四六判450頁近い大冊で、できるだけ詰め込んで定価を下げようとする努力は認めるが、点在する誤字誤用もあいまって、編集組版の粗雑感はぬぐえない。
 
 東京新聞の三八広告で2刷とのこと。けっこう売れているようで喜ばしい。しかしその広告の隣に『松崎明著作集』はなかろう。東京新聞も多少は気を使ってほしいものだ。(松崎明は革マル派である)

関口博之『ドイツから学ぶ「希望ある未来」』

2015年06月14日 | 本と雑誌

 
 著者はリタイヤ後にドイツ留学をして、エネルギー政策について学んだ。
 原発推進派であったメルケル首相は、福島原発事故を見てすぐに脱原発に転換し、それだけでなく化石依存社会からの脱出を目標に掲げた。
 本書は、日本のマスコミが報道しない、ドイツの再生可能エネルギー政策が目標達成に向かっていることの、真実のドキュメントである。
 
 日本政府は原発推進の妨げになるからであろう、自然エネルギーについては、その推進はおろか研究についてもきわめて消極的だ。
 その理由として、自然エネルギーは不安定であるとかコストが高くつくなどを喧伝しているが、本当の理由は「原子力利権」が得られなくなるからに他ならない。しかもそれは、不況と格差社会拡大の、元凶の一つでもある。
 
 ドイツではさまざまな問題を次々に克服して、究極的には市民が独自の方法で電力を自給自足できることを目標に、国家的な支援を試みており、実際に次々と成果を上げている。
 もちろん、そうした事実が日本で報道されることはない。

 ドイツの優れた技術力は、パネルの高性能化と蓄電技術によって、太陽光発電による電力供給に安定性を高めることに成功しつつある。
 蓄電池技術を完成したユコナイス社では、出勤した社員が蓄電池を旅行用のキャスターのように自分のデスクに運び、その日自分が使う電力はそれで賄うという光景が見られる。
 
 本書は、著者自身が自らの目で見たことをレポートし、日本政府が言うような、再生可能エネルギーに対するプロパガンダ、
1. 再生可能エネルギーは割高になる。
2. 再生可能エネルギーでは国の経済力が低下する。
3. 不安定で停電や電力不足に見舞われる。
4. 蓄電池技術が完成するまでには長期的な課題が残る。
5. 巨大電力網は不可欠である。
がことごとく解決され、あるいはほぼ解決されていることを証明している。

 このことは同時に、一部の巨大電力会社が電力を独占することを防ぎ、ひいては格差社会の緩和にも貢献できると語る。
 すなわち、安倍政権は安保法制に限らず、エネルギー政策においても明らかに時代を逆行しているということだ。
(地湧社発行 1800円+税)

モリオン『閉ざされた城の中で語る英吉利人』

2015年05月03日 | 本と雑誌

 
 燐光群から芝居の招待のメールが来て、5日のマチネーに行くと返事をしてしまってから、その日はまだ眼鏡ができてきていないことに気づいた。
 どうにか使えそうなのはないものかと、なんとなく捨てられないでいた古眼鏡を引っぱり出していくつもの中から我慢できそうなのを見つけた。が、それが見え方によってはけっこう使い勝手がいい。あわてて新しいのを作らなくても良かったのではないかと、ちらりと変な後悔がよぎる。
 
 思い立って今日、ようやく石油ストーブを納戸にしまい込む。簡単に済ませるつもりが、納戸の中にあまりにもロクでもないものが入っていたのでそれを処分しているうちに結構時間が経ってしまったら、いつのまにか阪神タイガースが負けていた。
 
 ああ、今日こそは原稿を仕上げなければと思っていたのだ。
 
 ところが、そうだ、切れなくなっていたカミさん愛用の牛刀を研ぐのを頼まれていたことを思い出してしまった。
 牛刀は長年使い込んで、まるでペティナイフみたいに小さくなっている。新しいのを買ってやらなければと、近々正本に一緒に行こうと思いつつなかなか機会を作れないでいる。
 包丁を研いでいると原稿のことも企画書を書くことも考えずに済むのだが、夕方になってさて仕事に取りかかろうかと思っても、あれこれやったあとではすぐに仕事モードにならない。無理に頭の中を整理しようと思ったらかえってこんがらがってしまった。
 
 結局今日の仕事はあきらめる。
 
 どうせ日曜日だし、連休明けまでにはまだ数日ある。こんな日は脳髄を遊ばせるに限ると、ピエール・モリオンの『閉ざされた城の中で語る英吉利人』を読みはじめた。ポルノ小説に「名作」と呼ばれるものがあるとすれば、これはまぎれもなく「名作」だ。カミさんに見つかっても文学作品を読んでいるふうに見える「真面目な」エロ本である。
 この本、白水社から作者本名のアンドレ・ピエール・ド マンディアルグの名前で「城のなかのイギリス人」という澁澤龍彦訳の本が出ていて、こちらは映画「共喰い」に主人公が読んでいるシーンがある。内容は同じ本だ。
 実にえげつないことを露骨に表現していながら、生田耕作の訳文は格調が高い(澁澤龍彦のは読んでいないからわからない)。頭を遊ばせるには、ほんとうはもっとイヤらしい官能小説の方がいいのだろうけれど、そういう本は持っていないし買ったこともない。官能小説を否定しているわけでも見下しているわけでもなく、読んでいる自分を想像すると照れてしまうからだ。カッコ付けているのならこっそり読むとうい方法もあるのだけれど、それもできない。映画なら日活ロマンポルノも石井隆の作品も観るのに、なんでだろうか。どうも脳の回線がどこかでひねくれているらしい。
 
 1953年に発表されたアングラ出版のこの本を読み終えて、作者は何を伝えたかったのか、何を語ろうとしているのだろうか……などと考えてしまう。だからダメなのである。官能小説を単純に楽しめない原因は、どうやら活字に対する自分の理屈っぽさにあるのかもしれない。

徳永直 編著『働く者の文学読本』

2015年04月28日 | 本と雑誌

 
 某古書店で廃棄されそうになっていたものを救出してきたが、けっこう入手困難な本だったようだ。
 プロレタリア文学に精通した4人の作家・評論家によるもので、編者の徳永直が2章分担当し、小田切秀雄、岡本潤、岩上潤一がそれぞれ1章ずつ執筆している。
 四六判148ページの薄い本にもかかわらず、前書きによると発行まで1年半を費やしている。
 昭和23年8月の発行だから、企画が立ち上がったのは前年昭和22年の春、日本の軍事体制が崩壊して出版物に対する軍の検閲が解除され、プロレタリア文学がGHQによる厳しい検閲にさらされる前のことだ。
 
 小田切秀雄の「名作の鑑賞と解説」がところどころぶっ飛んでいて面白い。
 小田切秀雄には1988年発行の大著『私の見た昭和の思想と文学の五十年』があり、これはプロレタリア文学を中心に長年書きためた文章をまとめたもので、平易で評論というよりは読み物的な親しみやすさがある。
 「名作の鑑賞と解説」の中で小田切は、夏目漱石の『坊っちゃん』をぼろくそにこき下ろしている。うらなりや、野だいこ、赤シャツなどは「日本社会の現実の一部が立体的に照らし出されて」いて身近な人間を当てはめて理解することができて面白いと評価しつつ、小説の中での扱いは納得できない、という。「野だいことか赤シャツとかいう型そのものが、人間のごく大雑把な特徴づけとしてはまことに適当(いいかげんの意)」であっさりし過ぎていると、リアリティのなさを批判する。
 官僚社会に反発したものの、うまくいかないと知るやことさら抵抗もせずにさっさと東京に引き上げてしまうのも「浅い」と切って捨てた。
「いわばこの作品は、どうしようもない実生活上の悪や虚偽に対する作者の鬱を、作品の上ではらすために書かれたものにほかなりません」
 ということなのだそうだ。『吾輩は猫である』も『坊っちゃん』は夏目漱石が実生活との矛盾(多分経済的)の鬱をはらすために書かれたものだと言う。
 そういった実生活の問題に直截的に面と向かって書かれたのが『道草』で「苦悩そのものの克服に精一杯のエネルギーを傾けていく文学がここに成熟している」だから、漱石の作品の代表作は『道草』であると言い切った。
 賛否両論はあるだろうが、誰もが評価する作品を見事にひっくり返す小田切のエネルギーには感服せざるを得ない。
 戦後、『坊っちゃん』批判、漱石批判が一部で巻き起こったのはこの評論のせいかもしれない。
 
 さてこの本、1年半もかけて作ったわりには誤植がちらほら見られる。また物資に不足していたために、印刷用紙はいわゆる仙花紙(せんかし)と呼ばれるくず紙の再生紙で薄くてボソボソ。それでも当時の国民は出版物に飢えていて、新刊が出ればいずれも飛ぶように売れた。この本もそうとう部数売れたのだろうけれど、価値を知らなければほんとうに紙くず扱いされてしまいそうな見栄えである。たぶん、現在残っている部数は少ないだろう。

『伊藤野枝全集』(1970年版)

2015年04月23日 | 本と雑誌

 
 たまたま立ち寄った古書店に、『伊藤野枝全集』(上下巻)が格安で出ていたので衝動買いした。2冊で1050円だ。『定本伊藤野枝全集』というのが出ているので、この旧版はもともとそんなに高価なものではないが、それにしても安い。
 ちょっと残念なのは、「当用漢字、新仮名遣い」に改められていることだ。残念ながら旧字旧仮名の全集は出ていない。
 
 この學藝書林版は、かつて我家に蔵書されていた記憶があるので、たぶん父親が新刊で買っていたのだろう。しかし、遺品を整理した中では見当たらなくなっていた。
 
 伊藤野枝はご存知の通り大杉栄の細君で、関東大震災の直後に夫の大杉栄とともに、憲兵の甘粕正彦によって虐殺された。
 18歳のときに平塚らいてうから雑誌『青鞜』の編集を任されている。全集には17歳の時の写真が掲載されており、なかなか美形である。
 

 
 奔放な女性で、時代を50年先どりしているといわれる通り、封建的な時代背景にありながら、不倫、三角関係、四角関係などを問題としなかった。
 
 全集に掲載されているエッセイの「雑音」で次のように語っている。
 
 私たちの歩みはじめの第一歩は習俗に対する反抗でした。そして私たち自身では、それはかなりしっかりした理論を持っていました。けれども、それは世間の人々にとっては何んでもありませんでした。雑誌をのぞいて何彼という人はまだしも、ただ無責任な人から人へ伝わる誤謬の多い噂をまに受けて、「新しい女」という流行語が生まれ、五色の酒、マント、吉原ゆき、男女間のふしだらな交際、といったような乱暴きわまる、外見的な奇を衒うような女のみと早呑みこみをする人の方が多くなってきました。そして青鞜社は「女梁山泊」というはなはだ有難い名称までも頂戴するようになりました。
 
 これを読んで、何のことはない、世間の風潮は明治・大正・昭和、そして平成とちっとも変わっていない。エジプトのピラミッドに「まったくもって近頃の若者は」という一文が発見されたという噂が真実味を持つ。
 新しい考え方や習慣に対する人々の抵抗は、どうやら永遠のものらしい。ということは、革命児はいつの時代も異端扱いということだ。

ダニエル・キース『アルジャーノンに花束を』

2015年04月18日 | 本と雑誌

 
 この本を読んだのは30年以上も前のことだ。
 ある日立ち寄った新宿駅構内の書店で、ばったり友人の早川書房の営業マンと出会った。彼は『アルジャーノンに花束を』という新刊を売り込みに来ていた。
「ものすごくいい本なんだけど、今ひとつ動きが悪いんだよね」と彼はいう。後で知ったことだが、決して売れていないわけではなく、ベストセラーとしては微妙ということだったようだ。
「じゃあ、ここで店長と企んで、店頭でキャンペーンをやってみれば?」
 そう提案して、返品承認付で50冊ほど追加発注をしてもらい、店頭に3列ほど平積みし、手描きポップも付けた。
〈歴史に残る感動の名作!〉
〈胸が熱くなりました。涙が止まらなくなりました─読者〉
 まあ、それがきっかけではないだろうけれど(そういうことにしておきたい)、『アルジャーノンに花束を』は一歩出遅れたものの爆発的ベストセラーになった。
 作者のダニエル・キースはその勢いもあってか、多重人格を扱った『五番目のサリー』やノンフィクションの『24人のビリー・ミリガン』も大ヒットした。
 ダニエル・キースは昨年6月、86歳で亡くなっている。
 
 僕自身も当時強く感動した記憶がある。30年以上も前のことなので、詳細は覚えていないがこの本の袖にあるあらすじを引用すると以下の通りだ。
 
 33歳になっても、幼児の知能しかないチャーリイ・ゴードンの人生は、罵詈雑言と嘲笑に満ちていた。昼間はパン屋でこき使われ、夜は精薄センターでの頭の痛くなる勉強の毎日。それでも、人の好いチャーリイは、少しも挫けず、陽気に生きていた。そんなある日、彼に夢のような話が舞い込んだ。大学の偉い先生が、頭をよくしてくれるというのだ。
 願ってもないこの申し出に飛びついたチャーリイを待っていたのは連日の苛酷な検査だった。検査の競争相手は、アルジャーノンと呼ばれる白ネズミだ。チャーリイは、脳外科手術で超知能をもつようになったアルジャーノンに、奇妙な親近感を抱き始める。
 やがて、手術を受けたチャーリイに新しい世界が開かれた。友情、愛、憎しみ、性、そして人生の悲哀。それらが渦まく正常人の社会は、何も知らなかった白痴の状態より決してすばらしいとは言えなかった。そして、何よりもチャーリイを苦しめるのは、彼を見捨てた肉親への愛であった。今や超知能をもつ天才に変貌したチャーリイは、父母のもとへ帰り、あらたな人生を歩もうとする。彼は家族の驚嘆、そしてそれに続く笑顔を思い浮かべ、希望に胸ふくらませ故郷へと旅立つ。だが、彼の悲劇的な運命を暗示するかのごとくアルジャーノンは狂暴化し、死んでいった……。
 科学を越えたヒューマニズムを繊細な感性が描き出した感動のネビュラ賞受賞作。

 
 人は、常人以上の能力を持つと不幸になる、と何かの本で読んだ。「IQ」という言葉がまだ現在ほど一般的ではなかった時代、チャーリイ・ゴードンのIQは68に設定されていた。チンパンジーよりはまし、という程度である。
 その彼が脳外科手術によって185というとてつもないIQを得るようになり、望みが叶って“利口”になったものの、今度は知らなくてもよいことを知ってしまうことで、より大きく深い悩みに苛まれる。
 他人と同じであること、他人よりも優れることにどんな意味があるのかと、この作品は訴えかけているのだ。
 
 今なぜ「アルジャーノン」なのか
 
 
 『アルジャーノンに花束を』は自分にとって、いっときSFファンタジーにはまったきっかけになった、忘れることのできない1冊である。だから、過去にユースケ・サンタマリアの主演でドラマ化(2002年)された時は感動を壊されたくなかったので観なかった。実際、評判になったという噂も聞かなかった。
 いわゆる“感動的な名作”が叛乱する現代で、原作ですら今読んでどれだけの人が感動するか疑問である。上記のあらすじを読めばわかる通り、当時は「白痴」「精薄」など、現在では不適切とされている言葉が普通に使われていた。知的障害者が露骨にバカにされ迫害を受ける時代でもあった。表面的には障害者への理解が深まり、施設や職業の受け入れ先が整備されてきている現在では、このドラマの振り幅は小さく感じられるのではないか。当然、今回のドラマの中で不適切な言葉は使えない。周囲の人間は非常にものわかりがよく親切だ。だから、初回と2回目を見た限りでは、主人公が「おりこうになりたい」と言っていることにリアリティが感じられない。
 さてこれからどう展開していくのかわからないが、あまり小細工せずに、原作に沿ったドラマ展開の方が説得力が増すと思うのだが。

佐藤泰志『海炭市叙景』

2015年03月31日 | 本と雑誌

 
 『海炭市叙景』は佐藤泰志の短編小説集であり、その一部を原作として映画化された。
 短編集といっても、まったく別の物語ではなく、すべての作品が他のいずれかの作品とどこかでリンクしている。
 たとえば原作の最初「まだ若い廃墟」。颯太と帆波の兄妹は務めていた炭鉱(映画では造船所)が閉山になり、職を失う。元日、二人は初日の出を見ようと、部屋中からかき集めたなけなしの小銭を持って山に登る。帰りのロープウェイの切符が買えず、兄の颯太だけが歩いて山を下りる。帆波はロープウエイの発着所で、独り6時間以上も待ち続けるが、兄は帰って来ない。
 颯太たちが初日の出を見に登った山は、標高わずか389メートルの低い山だが、運悪く道に迷い、独りで下山しようとした颯太は遭難する。
 この最初の話が、テレビのニュースとして、あるいは巷の人々の噂として、また事件現場があるシーンの背景として、他の物語でも様々な形で触れられている。
 他の話も同様で、人物や場所、出来ごとなどが近く遠く日常の延長のようにリンクし合いながら現れては消える。
 
 海炭市は原作者佐藤泰志が生まれた北海道の函館市がモデルで、颯太が遭難した山は標高334メートルの函館山ということになる。
 
 原作は18の物語から構成されていて、前半の9作が冬、後半が春である。作者はそのあと、夏と秋も書く予定であったらしいが、このシリーズを完成させる前に自殺してしまった。
 
 登場人物たちは、いずれも何らかの問題を抱え、歪んだ生活をしている。しかしよく考えてみれば、実際の世の中にあっても、何の問題も抱えていない人間などほとんど存在しない。したがって、登場人物たちは何ら異常ではなく、ここにはそれこそリアルな「世間」が描かれていると言えるのではないか。
 そして、そこに存在する問題や事件の数々は、何一つ根本的な解決も終結も迎えることなく物語を終えている。それはすなわち、海炭市に住む人々、すなわち市井のすべての人々が、さまざまな問題を抱えたまま破滅と再生を繰り返しながら、それでもわずかな希望に生き甲斐を見出してずっと生き続けなければならない、宿命のようなものを現している。
 

 
 映画は、原作の18の短編のなかから、「まだ若い廃墟」「ネコを抱いた婆さん」「黒い森」「裂けた爪」「裸足」の5編を中心にまとめたものだ。マイナーな映画館での公開にも関わらず、かなりの興業実績をあげたらしいが、原作を読んだ身としてはやや不満足だった。原作のダイジェストという印象が否めず、原作の重要な部分、とくに登場人物の背景や人となりの描き方に物足りなさを感じたからだ。
 しかし、2時間半を越える大作なのに、それでもまだ不十分と思えるということは、原作の密度がいかに濃いか思い知らされる。
 もし原作者が未完のまま命を断つことをせず、残りの半分を書き終えていたなら、文学史に残る傑作になっていたに違いない。
 
 ただし映画は、原作にとらわれなければ、破滅と再生の人生を必死に生きる人々が、それぞれ希望を捨てずにすべてを受け入れて生きていく姿を描いた上級の作品と言える。したがってこの作品の場合、原作は後で読むべきだった。

日高昭二『占領空間の中の文学』

2015年03月27日 | 本と雑誌

 
 敗戦直後から1952年4月まで、6年8ヶ月もの長期にわたって、日本はアメリカに占領されている期間があった。後にその理不尽さや不自由をさまざまな書物やドキュメンタリー番組などを通じて知ったが、当時僕はまだ幼少期で、もちろんそんな実感はない。親からもことさらそんな話を聞いたことはなかった。
 ただ、近所の子どもたちと一緒にままごと遊びでたむろしていれば、そこにジープに乗った米兵がやってきて、「アゲマショ」と言って小さな箱に入ったお菓子を置いていったりした。よく子供が「ギブミー・チョコレート」とお菓子をねだったという話を聞いたが、我家の近所にそんな子どもはいなかった。
 青山墓地に墓参りに行ったとき、墓地を貫く道路を馬に乗った米兵が駆け抜けていき、慌てて道路脇に避難したことを覚えている。繁華街に出れば、パンパンをともなって乗用車にふんぞり返っている進駐軍の将校を見かけることは頻繁にあったので、いま思えばそれらがいわゆる「占領期」を象徴する事象であることを思い知らされるが、子どもの僕にそんなことはわからない。
 
 占領が解けたときも、何かが大きく変わったということはなく、ただ急に「外人」の姿を見かけなくなり、再び多くの外国人を見かけるようになるのは、1964年の東京オリンピックからで、高度経済成長期の日本では、現在ほど外国から観光客が訪れることはなかった。
 
 この本は、「進駐軍」と呼ばれていたGHQに日本が支配されていた当時を、さまざまん表現手法で記録した文学についての研究書である。
 研究書ではあるが、実に読みやすく、また面白い。驚くのは著者の読書量である。宮本百合子に始まって、中野重治、高見順、火野葦平、太宰治、石川淳、大岡昇平、武田泰淳、加えて石坂洋次郎から獅子文六、井上ひさし、さらには雑誌にしか紹介されていない新人作家の作品に至るまで、その研究対象はあきれるほど膨大である。
 なかでも、このブログで先に紹介した石川淳や「遥拝隊長」の井伏鱒二について言及した文章は白眉である。文筆家にとっては厳しい検閲や圧力で不自由きわまりなかったであろうが、その不自由さを逆手に取ってユーモアや風刺をたっぷりと繰り広げていることがわかる。
 困ったことに、取り扱われている作品群の中にはまったく知らなかったり読んでいない作品が多数あり、しかも読みたくても入手困難で何とも歯がゆい想いをする。50年前、60年前に雑誌に掲載された作品など、国会図書館にでもいかなければ目にすることはできそうにない。
 そうしたことはともかく、取り上げられた文学作品を通じて、敗戦後の日本人の多くが体験した植民地としての実感と、日本がかつて、朝鮮半島や中国などで行ってきた植民地政策により、占領されていた側の視点とを重ね合わせることができる。
 井伏鱒二の「二つの話」という作品についての研究は、特にその部分を見つめ、的確にエッセンスを抽出している。
 各作家の代表作の多くはたいてい読まれているものであるが、本書を読了後あらためて読み直してみると、初見では気づかなかったさまざまな発見がある。
 
 本書は読書案内としても解説書としても秀逸で、座右の書の一冊に加わりそうである。
 
占領空間のなかの文学――痕跡・寓意・差異 (岩波現代全書)
クリエーター情報なし
岩波書店

『世界』増刊「沖縄 何が起きているのか」

2015年03月26日 | 本と雑誌

 
 重大な問題が起きているにもかかわらず、芸能人の惚れたはれたがトップニュースになっても、大手マスコミが報道しない沖縄問題の特集である。
 
 冒頭の「大琉球写真絵巻」というグラビアがユニークだ。琉球の時代から、「琉球処分」、「沖縄戦」を経て安倍政権による「基地建設」に至る歴史を、創作写真で表現している。初見ではコント集団のニュースペーパーかと思ったがそうではなく、写真家の石川真生が友人知人に声をかけ衣装や小道具を借りまくって撮ったと言う。
 ヤマトから、そしてアメリカから迫害を受け、構造的差別で現在の政府からも理不尽に扱われている有様を時系列に見せる。そして、安倍晋三と石破茂がシーサーに追い出されるシーンで終わる。
 『世界』よりも、『週刊金曜日』で扱いそうな作品である。
 
 民意に反した辺野古基地建設のために、珊瑚礁を破壊したり反対住民を暴力で排除する現場の事実を伝えつつ、沖縄の側から「伝えたいこと」「思うこと」が高密度で紹介するこの増刊号は価値が高い。
 元毎日新聞記者の臺宏士氏は「いま、目覚めるべきなのは在京メディアなのである」と訴え、歴史家で東大名誉教授の保立道久氏は「辺野古を報道しない日本のマスコミは“異様”である」と語る。
 
 安倍晋三首相は自衛隊を「我が軍」と呼んだ。日本は憲法で軍隊を持つことはできない。したがって、自衛隊は表向き軍隊ではないということで憲法違反をかろうじて逃れてきたのだが、首相自身が我が軍と言ったことで、自衛隊を軍隊にするための既成事実作りと思われても仕方がない。その発言を受けて菅官房長官も肯定した。行動でも言葉でも、強引に日本を軍事国家にしようとしていることに躊躇がないように感じられる。
 辺野古に基地ができれば、米軍が撤退したあとも自衛隊(日本軍)が使うことになるだろう。沖縄は米軍が去ってもそのあとには自衛隊(日本軍)が駐屯し、永久的な基地の島になりかねない。
 かつては「居酒屋独立論」などと言われてばかにされていた「琉球独立」が現実味を帯びてくるに違いない。実際、独立論者は日増しに増えているという。沖縄から基地をなくすには、本当に独立するしかないのかもしれない。
 
沖縄 何が起きているのか 2015年 04 月号 [雑誌]: 世界 別冊
クリエーター情報なし
岩波書店

石川淳『焼跡のイエス』

2015年03月21日 | 本と雑誌
 思い立って、石川淳『焼跡のイエス』を読む。
 岩波現代選書の『占領空間のなかの文学』をぽつりぽつりと読んでいるうちに、いくつかあらためて読み直したい作品に出会ったものの、このところ読書の時間がとれず、長編に手が出ない。
 
 『焼跡のイエス』は高校生のときに読んだ記憶があるが、そのときの本はすでに手元になく、内容についてはまったくといっていいほど記憶にない。で、手元にある新潮社版「日本文學全集」53巻石川淳集で読む。
 原著は1946年発表でこの「日本文學全集」は1963年発行。この全集のありがたいところは、読者におもねて表記の変更などはせず、オリジナルのまま読めることだ。
 
 『焼跡のイエス』はB6判2段組みのこの全集でわずか12ページ、文庫でも恐らく20ページあるかないかだろう。そんなごく短い作品でありながら、石川淳の代表作のひとつに数えられている。
 
 戦後、方々に開かれた闇市のひとつで、場所は上野のガード下。ご承知の通り闇市は、戦後の品不足につけ込んで禁制品や不衛生な食品などを売る屋台に毛の生えたような店が並び、犯罪の温床にもなっていた。ときはGHQの命令で閉鎖される前日の1946年7月31日である。
 そこに「ボロとデキモノとウミ」の固まりのような少年が現れ、握り飯を盗み女の太ももに躍りかかる。この物語の語り手である「わたし」は、女にしがみついた少年を引き離そうとするが、少年の想像以上に強い力で跳ね飛ばされる。「わたし」はこの少年が「クリストであるかどうか判明しないが、イエスだということはまづうごかないない目星だらう」と確信する。その理由は、「メシヤはいつも下賤のものの上にあるのださうだから、また律法の無いものにこそ神は味方するさうだから」。
 「わたし」がここに来たのは谷中の墓地にある太宰春臺の墓碑銘を拓本にとるのが目的の道すがらで、そのまま谷中に向かうのだが、その途中「わたし」は少年に付けられていることに気づく。「わたし」が一瞬怖れたすきに、少年はふろしき包みのコッペパンと財布を盗んで逃げる。
 翌日、きれいに取り払われた闇市の「地べたがきれいに掃きなら」されたあとに、「あたかも砂漠の砂のうへに踏みのこされたけものの足跡、蹄のかたち」のようなものを目にする。
 少年は終始、一言も口をきかない。ただ強奪と命令だけであった。石川淳はそこに「イエス」=「アメリカ』を暗にあらわしている。占領期に作られたこの作品からは、命令のみによって日本及び日本人を作り替えようとする、マッカーサーの存在を感じ取ることができるのだ。