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ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

崎山多美『ムイアニ由来記』

2014年12月03日 | 本と雑誌


 ひょんなことから、たまたま定価に近い値段で入手できた。
 崎山多美の単行本は、最新刊(2012年9月)の『月や、あらん』以外ことごとく品切れで、ほぼ絶版同様の状態が続いている。古書がネット市場に出品されても、タイミングにもよるがとんでもない高値が付けられていることもあって、とにかく入手困難である。
 まあだいたい、目取真俊や池上永一など、メジャーな作家以外、沖縄文学は手に入りにくいのが常だが。
 
 崎山多美の代表作といえば芥川賞候補になった『水上往還』である。これも収録されている『くりかえし がえし』が版元の砂子屋書房で品切れになっており、状態の良いものはなかなか手に入らず、根気よく待ってようやく半年ほど前に入手した。
 
 熱心なファンがいるにもかかわらず、なぜ再版されないのかといえば理由は簡単だ。採算が取れないからである。費用は印刷代だけではない、在庫を持てば倉庫代がかかるし税金もかかる。出版不況の昨今、1000部刷ったらその1000部は完売できないと困るのだ。1000部くらいと思うかもしれないが、今の時代、新刊ならともかく再版の1000部を売り切るのは大変なのである。
 崎山多美は、沖縄では著名な作家だが、本土では作品を読んだ人はおろか、名前すら知らない人がほとんどだと思う。それでも、わが杉並中央図書館には主要な本が揃っていて嬉しかった。
 つまり、崎山多美の作品に興味を持つ人間はマニアックな部類に入るといえる。
 そういう自分も、名前だけは知っていたが、作品を読んだのは友人のブログで紹介されたのがきっかけだから、自慢できたものではない。
 
 崎山多美の作品には、シマコトバがちりばめられていて、本土の人間にはわかりにくく取っ付きにくい。講談社文芸文庫の『現代沖縄文学作品選』に収録されている「見えないマチからションカネーが」などはほぼ全編ウチナーグチで構成されている。
「ムイアニ由来記」もシマコトバが解説なしで多く含まれているので、度々つっかかった。だが、崎山多美独特の幻想的な文学世界に、シマコトバ、ウチナーグチは欠かせない。日常生活で標準語しか使わないわれわれには、別世界の雰囲気を感じさせてくれるのだ。たぶん、方言をあまり使わなくなった現代沖縄の若者たちにとっても、本土の人間ほどではないにしても、似たような効果があるのではないだろうか。
 
「ムイアニ由来記」は作者目線で沖縄の女性が抱える問題をファンタジックに描いている。
 一人暮らしをする30代半ばの「わたし」は就寝前、いつもの習慣で「さる大手出版社(たぶん新潮社)から出版された」バルガス・リョサの『緑の家』の分厚い文庫本を読んでいると、突然電話があり「約束の日を忘れたのか」と呼び出され、連れて行かれる(リョサの小説がこの後の物語に何か意味があるのかと思ったが、どうやらそれは無関係のようだ)。
 実は彼女には5年前に書き置きを残し、子どもをおいて出奔した経験がある。だが、その記憶はいつしか欠落しまっていた。
 その書き置きに「5年後の誕生日に迎えにくる」と書かれてあり、今日がその日(約束の日)だったのだ。彼女は連れて行かれた先で、失われた記憶をひとつひとつ紡ぎ合わせていく。その子どもは色白で目が大きく、沖縄の人間とはまったく違った風貌を持っていたのである。
 「ムイアニ」が子どもの名前であることが最後にわかる。
 その子はいったい誰の子どもなのか、どんな成り行きで生まれ、どんな境遇で育ったのか、詳細はすべて読者の想像にゆだねられている。
 幻想的な中に、沖縄という特別な環境のもとで暮らす女たちの精神構造が、すこしだけ垣間みられる。
 
 もう一つの作品「オキナワンイナグングァヌ・パナス」と、花田俊典による「崎山多美論のために」を併載。

泥憲和『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!』

2014年11月13日 | 本と雑誌

 
 かもがわ出版の新刊、『安倍首相から「日本」を取り戻せ!!』が届けられ、さっそく読んだ。
 著者の泥憲和氏は元自衛官である。反戦自衛官と呼ばれる人は、有名な小西誠さんをはじめとして、以降何人も現れているが、小西さん以外出版物は少ない。それに、日本をめぐる防衛環境は、小西さんの時代とはまったく違っている。集団的自衛権の行使が閣議決定され、当時と比較にならないくらい戦争の足音が近づいていることもその一つだ。
 そう言った意味で、近頃の自衛隊員たちの本音(に近い)、そして自衛隊員という立場から集団的自衛権をどう見ているのか、大変興味深い本である。
 
 著者が語っていることは非常に明解だ。彼の考え方のエッセンスが冒頭のプロローグにある。
 
 神戸、三宮の駅前で数人の青年たちが集団的自衛権に抗議していた。著者はネットでそれを知り、青年たちの行動を手伝うために神戸までやってきていた。
 彼らは道行く人々にビラを配り、マイクで懸命に訴えているのだが、言葉が難しく理解しにくい。そこで彼らからマイクを取り上げ、思うままにしゃべった言葉が、この本のプロローグである。
 
 尖閣問題とか北朝鮮のミサイルとかは自衛隊がしっかり守ります。
 しかし、集団的自衛権とは日本を守る話ではないんです。売られたケンカに正当防衛で対抗するのではなく、売られてもいない他人のケンカにこっちから飛び込んでいこうというんです。
 自衛隊の仕事は日本を守ることで、身も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事ではありません。
 安倍首相は、外国で戦争が起きて避難してくる日本人を乗せたアメリカの船を守らなければならないのに、今はできないからおかしいと言いました。まったくのデタラメです。日本人を米軍が守って避難させるなんてことは絶対にありません。(抜粋要約)

 
 安倍首相は、集団的自衛権を行使すると言っても、基本的に後方支援であり、攻撃を受けたら撤退するので戦闘行為には至らないと言っているが、元自衛隊員として戦略的に考えれば、それはまったく机上の空論であって、現実的にそれはできないという。相手国からは補給も戦闘行為と見なされる。補給ができなければ前線での戦闘はできないわけだから、敵は防御の手薄な補強部隊を真っ先に狙う。
 元自衛隊員の著者は、自分ならそうすると。
 しかも、反撃してくる補給部隊と攻撃を受けたら撤退する部隊では、どちらが攻撃しやすいかと言えば、それは後者だとも。
 
 また安倍首相は、尖閣列島や北朝鮮をめぐって戦争になったとき、米軍に支援してもらうために、集団的自衛権を行使して恩を売っておきたいらしいが、それは確証できないことであるという。
 アメリカはあくまで「国益」で動く。尖閣列島を守ることが国益にかなうなら支援するだろうけれど、かえって米中関係の悪化を招くようなら、日本側の自己責任として手を出さないだろう。
 
 本書では、安倍首相が国会で述べた数々の発言を検証し、集団的自衛権を行使することを目的とした詭弁を、ことごとく論破する。
 集団的自衛権の行使が、平和を守るどころかかえって日本を危険に陥れることを、ものの見事に戦術的・戦略的に解説している。
 現場の自衛官たちは、領海侵犯してくる外国船と、武力衝突しないように万全の注意を払っているという。それなのに、安倍首相はケンカ腰の外交を行っている。
 著者は、某映画の名言を使ってこう言い放った。

「戦争は国会で起きているんじゃない、現場で起きているんだ」
 
 各章の終りに、「アベジョークズ」として、安倍首相のデタラメ発言集が掲載されている。国民をだますために、いかにいい加減な発言を繰り返しているかがわかる。

佐々涼子『紙つなげ! 彼らが本の紙を造ってる』

2014年11月10日 | 本と雑誌

 東日本大震災で壊滅的な被害を被った日本製紙石巻工場の復興ストーリーである。
 実は恥ずかしながら、書籍用紙の大半をここで作っていることを、この本を読むまで知らなかった。
 
 震災の直後、取引先の出版社が、紙の供給が止まって予定どおり出版できないかもしれないと言っていた。また、印刷会社の営業が、石巻がやられたから困っていると伝えてきたことがある。
 印刷用紙は使用目的によってさまざまだ。チラシなどの紙と書籍用紙が異なるのは当然で、書籍に使われる紙であっても対象とする読者や原稿内容、さらには発効部数や予算等によって異なる。
 だが、自分が手がけている本は少部数の本が多いので、思いのほか順調に発行されていた。それはたぶん、石巻工場で作っている紙の多くが、大部数の文庫本、漫画本用と雑誌用が主流で、単行本に使われる紙はベストセラーが予想される大部数印刷のためだったからだろう。
 この本の主役である8号抄紙機は必要に応じてさまざまな書籍用紙を製造し、発行前からベストセラーが予想された村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』にも使われたという。
 つまり、大部数で発行する大手出版社のための用紙ということだ。たとえば、人気漫画の『ワンピース』などは、初版250万部(推定)と聞いたことがあり、印刷製本は何社かにわけて印刷されるが、紙だけはわけることができない。なぜなら、同じ製紙会社であっても工場が違ったり機械が違えば同じ紙にならないからだ。購入する書店によって厚さや手触りが異なってしまい、商品としては欠陥品になる。(同じ大日本製紙の工場でも、富士工場で石巻工場と同じ紙を作ることはできないという)
 
 感動的な物語に水をさすつもりはないが、石巻工場の8号抄紙機で作られるオペラクリームという紙は、個人的にはあまり好きではない。『多崎つくる……』をあらためて開いてみると、腰がなさすぎて頼りない。本が安っぽく感じる。
 ここに紹介する本『紙つなげ……』に使われている用紙は『多崎つくる……』よりもいくぶん斤量が上で厚みがある分腰の強さを感じるのだが、それでも共通して、なんとなく湿ったようなヘナヘナした感じがする。
 
 しかし、腰の弱いのには意図があるそうだ。子どもが柔らかな手でページを繰っても手を切らない。そして、ページ数が少なくても本に厚み(専門用語で「ツカ」という)が出て背表紙がきちんとデザインでき、かつ軽いということだそうだ。
 
 余談だが、僕が好んで指定するのは北越紀州製紙のクリームキンマリ。多くの専門書などに使われていて、高級感のある紙だ。だがいくぶん高いので、この出版不況ではなかなか使わせてもらえない。
 
 本の多くは初版だけで、再版されることはめったにない。そうした中にも何年にもわたって重版を重ね続ける、ロングセラーと呼ばれる本がある。そんな場合、継続して安定した供給が必要で、どうしても大手製紙会社の紙になる。
 だが、僕が作っているような少部数の本のための用紙の供給には、あまり影響がなかった。もちろん、各製紙会社が努力してくれたおかげだ。
 
 以上のように、大変だったのは漫画、文庫、雑誌の出版社だ。言ってみれば、大手出版社と大手製紙会社の問題と言えなくもない。
 
 大日本製紙石巻工場では、従業員の犠牲者は一人も出なかったそうだ。それはすごいことである。中には家族を失った従業員もいて、本心は紙どころではなかっただろう。それにも関わらず、日本の出版文化を終わらせないために一丸となり、不眠不休で不可能に近い復興をやり遂げたのだ。
 震災直後、休刊になった雑誌や発行が延期された漫画本、文庫がいくつもあった。その状態を長引かせれば、日本の出版は終わってしまう、彼らはそう考えた。
 
 大日本製紙石巻工場の主力は、広告などの一般紙を作る主力機「N6マシン」で、1台で小さな製紙会社の全生産量に匹敵する。設備投資費が630億円というから、東京スカイツリーの建設費650億円に近い額だ。
 書籍用紙を作る「8号抄紙機」も二百数十メートルある巨大な機械だが、稼働してすでに40年が経ち、責任者の佐藤憲昭は、すぐにすねて調子が悪くなるこの機械を「姫」と呼んでご機嫌を取りながら稼働させている。
 
 津波が襲った直後の石巻工場は瓦礫の山で、製紙機械も水に浸かってしまった。当初は復興は不可能で、工場は閉鎖するとまで言われていた。しかし、出版社からの要望に加え、「この工場が死んだら、日本の出版は終わる」という従業員たちの気概が、わずか6か月で「8号抄紙機」の復活を成し遂げる。
 
 このドキュメントは、テレビ東京でドラマ化され、昨日(9日)放送された。わずか50分枠で、内容はひじょうに感動的に作られてはいるものの、テレビ東京らしい会社寄りの作品で、家族や周囲の人間の描写が薄い。目立った女優は佐藤憲昭(寺脇康文)の妻(藤田朋子)だけで、他の従業員の家族は登場しない。
 工場が復興するにあたっては、家族を失った従業員の心のゆらぎや、家族の支えなどがもっと詳細に描かれてよいはずなのだが、50分枠にまとめたのはいささか乱暴だ。
 
 長年出版に携わっていながら、紙のことは二の次になっていて、本を読んで初めて知ったことがたくさんあった。電子出版よりも紙の本だなどと言っておきながら、何たる不調法。反省する。

金史良「光の中へ」

2014年11月01日 | 本と雑誌

 
  思い立って、というかある人のブログの記事が引き金となって、数十年前に一度読んだことのある「光の中へ」(『金史良作品集』理論社刊)を再読する。
 金史良(キム・サリャン)は日本統治下の朝鮮人作家である。1935年に東京帝国大学文学部に進学、専攻はドイツ文学であった。
 本作「光の中へ」は芥川賞候補となり、それを機に矢継ぎ早に作品を発表する。最も多作だった時期は27歳の頃で、妻を出産のために郷里に帰してからは、鎌倉の小さな旅館のはなれを借りて住み、毎日平均8時間ずつは机に向かうという生活をしていた。(金達壽「金史良・人と作品」)
 太平洋戦争の開戦とともに弾圧が厳しくなり、開戦の翌朝に鎌倉警察に拘留される。3か月ほどで釈放されるとすぐに帰国した。したがって、日本での創作活動は、わずか2年にすぎない。
 
 金史良の作品は、朝鮮語で書かれたものもあるが、その多くは日本語である。『金史良作品集』(理論社)に収録されている11作品は「光の中へ」を含め、すべて日本語で書かれている。
 
 「光の中へ」の語り手である学生の「私」は南(みなみ)と呼ばれていたが、自分では「なん」と朝鮮人名を名乗っていた。南は協会で子どもたちを指導している「先生」である。そこに通う子どもたちの多くは朝鮮人か日本人との混血であった。だが、そんな子どもたちには朝鮮人であることのコンプレックスが強く根付き、朝鮮人でありながら、自分は日本人であるといい張ったり、それを証明するかのように朝鮮人に対し敵対する態度を取ったりするものもいた。
 子どもたちの一人山田春雄は、日本人の父と朝鮮人の母のあいだに生まれ、そのことにコンプレックスを抱いていた。そんな理由から朝鮮人教師の南にわざと逆らう態度で手を焼かせていた。
 日本人の父は朝鮮半島生まれのならず者で、朝鮮人の女を強奪して女房にしていた。その間に生まれたのが春雄であった。春雄は乱暴者の父がいる家に帰りたがらない。
 そんなある日、母親が血まみれになって病院に担ぎ込まれる。夫が刃物で傷付けたというのだ。母親は九死に一生を得、それを手助けした南と春雄の間に信頼関係が深まっていく。

 南とはたぶん金史良本人であり、体験談に近いものなのだろう。
 
 金史良は北部朝鮮の平壌で生まれた。
 当時の朝鮮における宗教、──ことにキリスト教は一つの積極的な意味をもっていた。とにかくこれは支配者であった日本帝国主義にとっては嫌いなものであって、その勢力は平壌が中心をなしていた。こういう意味で、彼(金史良)もそのキリスト教を是認していたようである。(金達壽「金史良・人と作品」)

 
 朝鮮が日本の植民地であった当時の朝鮮人の精神構造が端的に描かれた作品で、日本人作家によって書かれた朝鮮人の姿とは、少しばかり印象を異にする。
 それにしても、金史良をはじめ、金達壽、金芝河ら、朝鮮文学の深さと重さには接するたびに圧倒される。

 この作品が読めるのは、現在『光の中に─金史良作品集』(講談社文藝文庫のみである。
 参考として『金史良─その抵抗と生涯』(岩波新書)がある。現在品切れだが、古書店では比較的入手しやすい。

週刊金曜日臨時増刊『「従軍慰安婦」問題』

2014年10月30日 | 本と雑誌


 ずっと「従軍慰安婦」問題を扱ってきた『週刊金曜日』が、本誌に掲載した関連記事を一冊にまとめたものだ。『週刊金曜日』を欠かさず購読している人には大半の内容が重複する。
 しかし、バックナンバーから引っぱりだす手間がはぶけるし、けっこう古い記事や読みそこなった号の記事を系統立てて読むことができ、大変参考になる。
 
 半藤一利さんのインタビュー記事は、ちょうど買いそこなった号に掲載されていたものでありがたかった。

 ──ところで半藤さんは、現天皇に呼ばれて、歴史について進講されているという話を耳にしたんですが。
 半藤 え、そんな噂が流れているんですか(笑)。こればかりは、ノーコメント、と言うしかないですね。


 半藤さんは否定していない。たぶん天皇への講義を通じて、天皇が今の自民党政権がやっていることに、快く感じていない感触を引き出したらしい。
 そのため右派は「困っている」兆候があるという。
 
 能川元一氏の論考に、作家の塩野七生が『文藝春秋』に無知丸出しの発言をそのまま載せているのことに言及。おどろいた。
 
「オランダ人の女も慰安婦にされたなどという話が広まろうものなら、日本にとっては(欧米を敵にまわすことになるので)大変なことになる」
 
 塩野七生ともあろうものが、「スマラン事件」を知らないことに驚く。そんな基本的な知識もなく、「従軍慰安婦」を否定するような記事を平気で掲載する『文藝春秋』にもあきれてものが言えない。右派の論壇とはその程度のものなのだ。
 
 しかし、無知蒙昧な人物の発言であっても、それが大手の媒体によって語られれば、それが真実になってしまうのが今の日本である。大声でまちがったことを言えば、いつのまにかそれが真実としてまかり通る。
 
 この増刊号には、「慰安婦」問題をめぐる資料と関連年表が巻末にまとめて掲載されているので、手元に置いておけば便利だと思う。

 〈注〉
「スマラン事件」(別名「白馬事件」)とは、インドネシアに侵攻した日本軍がスマランに慰安所設置の際、日本兵によってインドネシア在住の若いオランダ人女性が強制的に慰安婦にされた事件である。「オランダ軍バタビア臨時軍法会議」の記録資料が残されている。
 インドネシアは日本軍侵攻前、オランダの植民地であり、多数のオランダ人が居住していた。日本軍は「オランダ領インドシナ」(蘭印)と称していた。

赤坂真理『東京プリズン』

2014年10月26日 | 本と雑誌


16歳でアメリカの高校に留学したマリは、年次の関係で1学年遅れだった。そこで進級するための課題として「日本について全校生徒の前で発表せよ」との課題を課せられた。
それも、能や歌舞伎といった「縄文時代」のことではなく、近現代の日本についてだった。
ところがマリは、日本人でありながらそのあたりの知識がまるでない。日本の学校での日本史の授業が、明治維新で終わってしまっているからだった。

「東京裁判て何?」
「敗戦をなんで終戦って言うの?」

そんなマリに進級をかけたディベートが課せられた。
論題は「日本の天皇ヒロヒトには、第二次世界大戦の戦争責任がある」。
マリは天皇の戦争責任を肯定する側に立った。つまり「天皇には戦争責任があることを立証する」立場だ。
天皇についても戦争についてもほとんど知識がないマリは、参考書をかき集めて必死で勉強した。しかし、ここはアメリカであり、日本語の参考書で有効なものはほとんどない。難解な英単語を調べ判読しながら、それでも天皇について、戦争について一定の知識を得るに至った。

アメリカ人が原子爆弾投下や大空襲のいいわけに、真珠湾の奇襲攻撃を持ち出すのに対し、あれは不意打ちではなく、大使館の怠慢で宣戦布告が届かなかった事故であること、真珠湾で攻撃したのは軍事施設で非戦闘員を狙ったものではないこと。
天皇とは明治以降天皇として祭り上げられ、為政者たちが決めたことを天皇の名のもとに行ったのであって、個人としての天皇に軍隊を操る能力はなかったこと。
つまり「天皇」とは個人ではなく、ただの「存在」であることに気づく。
 
しかし、天皇に戦争責任があるのかどうか、はっきりとした結論は出ておらず、「個人としての天皇に戦争責任はないのではないか」という雰囲気を漂わせる。
軍部にすべての権限を握られていたとはいえ、大日本帝国憲法で元首とされているわけだから、戦争を防ぐことももっと早くに終結させることもできたはずだが、そのあたりは欠落している。
赤坂真理は天皇の戦争責任否定論者かと読み取れないこともないがどうだろうか。

16歳の日本人少女にディベートが馴染むわけもなく、天皇の戦争責任を肯定する立場にありながらそれを実証することができなかったマリは敗北する。
このディベートは、マリにとってまさに、現代の東京裁判だった。

天皇に戦争責任があるのかないのか、アメリカに原爆投下や東京大空襲などによって大量の非戦闘員を殺害した国際法違反の責任はないのか、など、近代史に疎い人たちが考えるべきテーマを与えてくれる。

戦後の日本はおかしいことだらけだ。あんなひどい目にあわされたアメリカと、手の平を返したように友好関係を結ぶ国。アメリカに基地を提供して、さらに「思いやり予算」という名目の、莫大な資金を提供している世界で唯一の国。国民にウソをついてまで、沖縄に新しい米軍基地を造る国。こうした問題を話題にすると、場がしらけるとか、友だちが去るとか、異性にもてないなどと言って避けようとする人間がたくさんいる国。授業で太平洋戦争を教えると、偏向教育だと非難される国。そのため、日本とアメリカが戦争をしたことさえ知らない子どもがいるものすごく変な国。

これまで日本の近代史にあまり縁がなかった人には考えるべき課題が与えられ、詳しくなりすぎた人には、問題を簡潔に整理することができる。

引越し後第1号! 『けーし風』読者の集い

2014年10月26日 | 本と雑誌
いろいろと煩雑になって、2か月以上もブログの更新を休んでしまった。
「ブログ人」が閉鎖になって「gooブログ」に引っ越したのを機に、再開することにした。
 
 

 
久しぶりの記事は、25日土曜日の『けーし風』84号読者の集いの報告。

 
じつは先日(22日)に急に新崎盛暉先生から連絡が入り、友人二人を誘って神保町の揚子菜館で夕食をともにした。
新崎先生は『けーし風』に自伝を連載中で、その話も含め、辺野古のこと間近に控えた沖縄知事選のことなどをうかがった。
沖縄知事選は実質、基地反対派の翁長氏と現知事の仲井眞氏との争いになるが、ともに保守。
基地反対派の翁長氏がリードというが、沖縄の選挙は始まってみないとわからないところがある。
事前のアンケートやインタビューでは翁長氏支持といいながら、仲井眞氏に投票する人がけっこう多いことが予想されるからだ。
生活を基地に依存している人にとっては、沖縄県内では大勢を占める基地反対派に気を使い、おおっぴらに仲井眞支持とは言いにくい空気があるからだ。
出口調査でも、「翁長氏に投票しました」と答えていながら実際は仲井眞氏に投票している人が少なからずいることが想像される。
革新派の知事候補が立候補していないことについて新崎先生は、「支持政党云々ではなく、まず辺野古の新基地建設を止めること、これは国共合作だ」と言い、沖縄県内でも、そうした会話は聞かれるらしい。
「国共合作」というのは、中国で蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が新中国の建設をめぐって内戦中、当面の敵である大日本帝国にたいし、協力してたたかうことを目的に敵味方でありながら協定を結んだことである。
日本がアジア太平洋戦争に敗戦してから、あらためて内戦を再開し、毛沢東の共産党軍が勝利して中華人民共和国が誕生した。
 
「集い」でも知事選について話題になり、その話が出た。都知事選のときも細川陣営からそんな言葉が出たが、このたとえはあまり的を射ているとは言えないとぼくは思う。
中国の場合は、日本軍を排斥するという明らかな目的があり、結果が明白だった。しかし、沖縄知事選の場合は翁長氏が勝利して終りではない。引き続き保守派である翁長氏を監視しつづけなければならず、明確な終りがない。強いていうならば、「辺野古の基地建設撤回」がゴールとなる。(その後も基地問題は継続して残るわけだが)
中国の国共合作ように翁長氏が当選したらふたたび闘うと言うのでは意味がない。
したがって、「国共合作」ではなく、保革連合で永続的に基地問題に取り組む機会にするべきだと思う。
もっとも、それこそ簡単なことではないだろうけれど。
 
「集い」の参加者は9名。だいたいこんなものである。
84号の特集は「岐路を前に、歴史を創るたたかいを」として、新崎盛暉、由井晶子、目取真俊、新城郁夫の4氏による対談が中心になっており、大変興味深い。
新城郁夫氏と言えば、新川明氏と沖縄独立論をめぐって、それぞれ『けーし風』と独立派の雑誌『うるまネシア』の誌上で火花を散らす関係にある。
誤解を怖れずに一言でいえば、新城氏は現実的、新川氏は理想という感じである。しかし、この話はややこしいので、ここでは割愛する。
 
この対談の中で新崎先生は、
「たとえば、安保の問題であれば、翁長さん自身は安保を否定していないし、是認派だと言っているわけですよね。なぜ安保のどこが悪いか、なぜ是認か、そうした議論はまだ始まってはいないわけですね。普天間基地の閉鎖・撤去、辺野古新基地建設阻止という大前提のもとに成立した「オール沖縄」体制の中で、安保の是非とか、貧富の格差是正とかを自由に検証しあう政治的雰囲気が確保されなければならない。そうした検証の場が各区干されることによって初めて、沖縄の抱える矛盾を乗り越えながら将来的展望を切り開くことができる」
と言っていて、つまりは、選挙に勝つことがゴールではないこと、そのあとの闘争が大変重要であることを述べているのだ。つまり、「国共合作」ではなく「永続的な保革連合」がつくり出せるかどうかということだと思う。

『徹底批判!! カジノ賭博合法化』

2014年08月03日 | 本と雑誌
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 「特定秘密保護法」「集団的自衛権」などの重要課題の陰に隠れて、カジノ誘致に関する報道はほとんどなされておらず、現在東京、大阪、沖縄を含む19の自治体にカジノ誘致計画があることはまったくといっていいほど周知されていない。
 沖縄県の仲井眞弘多知事は、普天間基地の辺野古への移転受け入れと引き換えに、沖縄本島北部振興策としてカジノ誘致許可を安倍政権から取り付けた。仲井眞知事はさっそく県庁内にカジノ誘致のための準備室をおき、調査のための予算も付けたという。当然沖縄では、カジノ誘致計画に反対する市民運動が立ち上がったが、本土では対岸の火事とばかり中央メディアの報道はまったく見られない。
 しかし東京でも、石原慎太郎前知事が「お台場カジノ構想」をぶちあげたことは記憶に新しく、その計画が知事の退任とともに完全消滅したと考えられているが、しかし、知事の一声でいつでも計画が復活する状態におかれている。
 多くの自治体がカジノ誘致を目論む目的は何かといえば、カジノ賭博場を通じて多額の現金が自治体にもたらされると考えられるからにほかならない。実際、ラスベガスは砂漠の真ん中にありながら繁栄を極め、韓国やマカオでもカジノは外貨獲得の有力な手段となっているといわれる。
 本書は、第1章で本来違法であるはずの賭博がどのような法的処理で可能にされているのか、また、合法化にあたっての矛盾や課題などについて述べる。
 第2章では、カジノ建設の目論見である経済効果が、実際に自治体を豊かにできるのか、国民の資産がどこにどう動くのかを、経済学的な観点から分析する。
 第3章では、日本ではほとんど病気と認められていないギャンブル依存症についての現状と、カジノ賭博場が開かれることによって、それが国民にどのような影響をおよぼすのかについて述べる。
 第4章では、韓国とマカオのカジノ賭博場を実際にレポートし、その繁栄の影に売春や借金問題など、報道されないさまざまな現実を検証していく。

海外からに観光客は期待できるのか
 しかし、本当にカジノは税収入に苦しむ自治体にとって打ち出の小槌となるのであろうか。また、プラスの面ばかりが強調される傾向にあるが、マイナス面はないのか。もしあるなら、それは容易に解決可能なことであるか、あるいは負の部分を受け入れるに足る経済的なプラスがあるのか。それらを総合的に検証すると、国民に容易に癒しきれない傷を負わせることが見えてくる。
 第一目的はまぎれもなく経済面であり、第二も第三もない。その根拠として、近隣諸国から訪れる富裕層が莫大な現金をカジノ賭博場に落とし、その収益によって巨額の法人税を得ることができるというものである。また、国内においては、タンス預金などで眠っている個人資産をカジノにつぎ込ませることで、経済が活性するという意見もある。
 だが、その目論見は極めて実現性に乏しい。まず、日本に来る観光客の多くは韓国人と中国人であり、両国とも自前のカジノ賭博場を持っている。韓国では当初、カジノは外国人観光客専用であったが、2000年に自国民向けの「江原(カンウォン)ランド」がオープンし、わざわざカジノを目的に外国に行く必要がなくなった。中国では賭博は厳重に禁じられているが、1999年にマカオがポルトガルから返還され、一国二制度のもとにマカオにはそのままカジノが残された。以降ラスベガス資本の参入などによって新たな賭博場が続々と建設され、2006年には売上高でラスベガスを抜き世界トップに躍り出た。客の多くは中国を中心とした近隣諸国の富裕層で、近くにラスベガスを凌ぐカジノ賭博場があるのに、わざわざ沖縄や大阪などの小規模なカジノを選んで海外から客が訪れるとは到底思えない。

周囲の人間をも巻き込むギャンブル依存症
 そうなると当然、カジノの客のほとんどは自国民ということになる。
 カジノとは、客が負けることを前提として経営が成り立っている。賭けに負けて客が落としていく金が、カジノの収益になる。そこに生産性はまったくない。カジノの客が地元の人間であるとするならば、自治体はカジノ会社が地元民から金を巻き上げる手助けをし、そのおこぼれをもらうことになる。これは資本主義経済の面から見ても、タコが自分の足を喰っている状況できわめて不健全である。
 しかしそれよりも、もっと重大な問題が待ち受けている。日本は、世界有数のギャンブル大国である。ギャンブルが法律で禁じられているにもかかわらず、競輪・競馬や競艇・オートレースなどの公的なギャンブルは合法とされ、パチンコ・パチスロの店数は日本が世界最多とされている。ちなみに、韓国でパチンコは禁止されている。
 そうした環境において、ギャンブルに関わる重要問題が「ギャンブル依存症」である。この問題が複雑なのは、ギャンブル依存症患者の多くが自らが病気であることを認めず、周囲も個人の意志の問題にしてしまうからである。
 ギャンブル依存症が病気であることの理由は、自分の行動が自分で制御できなくなってしまうことにある。ギャンブル依存症患者は、ギャンブルで負けると、そのときは「もうやめよう」と思う。しかし、一晩寝れば「今日は勝てそうだ」と何の根拠もなく思い立ち、パチンコや競馬場に向かう。その繰り返しの結果、金がなくなれば消費者金融に走り、それができなくなると横領や窃盗などの犯罪を犯すまでになる。ついには親に泣きつき借金を精算してもらうのだが、銀行に返済に向かう途中でパチンコ屋を見つければ、手にした返済金をすべてつぎこんでしまうのだ。金がなくなるたびに後悔するものの、それでもギャンブルをやめることができない。これは薬物依存やアルコール依存と同様、病気なのである。
 カジノ賭博場は、ギャンブル依存症患者の数を増大させるだけでなく、家族や地域社会を巻き込んだいっそう重篤な病を住民のあいだに伝染させることにもなる。
 これは、地域経済を活性化させるための引き換えとしては、あまりに悲惨ではないだろうか。つまり、カジノ賭博場解禁は、一部の政治家と財界人を肥やすだけで、一般国民にとってはマイナス以外の何ものでもないということなのだ。

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矢野久美子『ハンナ・アーレント』

2014年06月18日 | 本と雑誌
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 昨年、映画『ハンナ・アーレント』が公開され、その映画が思いのほかのヒットとなって、それまでは恐らく限られた人々の間でのみ語られて来たであろうハンナ・アーレントが一気に注目を浴びるようになった。たぶん、映画を見た人の多くは彼女の著作を読んではいないだろうと思うが。
 いうまでもないが、彼女は20世紀ではトップクラスの思想家である。これまでにも数々の伝記が著されていてそうした著作から人物像を描くことは、あらかじめ可能である。中公新書のこの小さな評伝が出版される以前の入門書としては、太田哲男による清水書院版がよく読まれていたと思う。
 
 アーレントは波瀾万丈の人生を送りながら自伝のようなものは遺していない。したがって、評伝の多くが膨大な著作と書簡のたぐいを探りながら書かれている。映画も含め、大きな違いはないから、いずれも決定的な的外れはないと思う。本書がとくに評判を得た理由は、その読みやすさにあるだろう。物語を読むようなわかりやすさと、なによりも240ページというコンパクトさが最近の読者には手にとりやすい。
 とはいうものの、読み進めていくあいだは手元にいくつかのアーレントの著作をおいておかなければならなかった。もちろん、自分がそう思っただけで、そうしなければ理解できないという意味ではない。引用が出てくるたびに、引用元をひもときその前後をたしかめたくなる、それが人情というものだ。『全体主義の起原』『アーレント政治思想集』「過去と未来の間』そして、映画で一躍有名になった『イェルサレムのアイヒマン』。
 とくに前半では、『アーレント政治思想集』の(1)に収録されている、著名なジャーナリスト、ギュンター・ガウスとの対話「何が残った? 母語が残った」を中心に描かれている。この対話では、アーレント自身の言葉で子ども時代に哲学を学ぼうとしたきっかけや、ハイデガーやヤスパース等との学問上の交流が語られている。
 『全体主義の起原』はアーレントの代表作で、彼女を一流の思想家に押し上げた著作である。本書の中でも書いているが、アーレント自身『全体主義の起原』というタイトルは意図と違うという。あたかも全体主義の歴史について書かれているように誤解されるが、読めばわかるが、書かれているのは「起原」ではなく、強いていうならば「要素」である。これはたぶん、売り上げを目論んだ出版社側の意向でつけられたタイトルだろう。
 『イェルサレムのアイヒマン』は、アーレントが全世界から非難されたことで知られる著作である。アイヒマン裁判が「ユダヤ人の苦悩の巨大なパンラマ」という見せ物であったと指摘したり、ユダヤ評議会がアイヒマンの部下の指示に従ってユダヤ人を「移送する列車を満たすための名簿」を作成したことを書いたためだ。また、アイヒマンについて「怪物的な悪の権化ではなく、思考の欠如した凡庸な男」と書いたことが、ユダヤ人でありながらアイヒマンを擁護したと解釈されたのである。しかしアーレントの視点は、ナショナルなものだけでなく、グローバルな位置にも常におかれている。いや、基本的に後者である言っていい。個人としてのアイヒマンと、ナチスというシステムに所属する高官の1人としてのアイヒマンを別個にとられているのである。彼が凡庸な人間であったからこそ、残虐行為もただの使命ととらえ実行できたということだ。人間は極端に異常な環境のもとでは思考が停止する。
 『イェルサレムのアイヒマン』批判がそのままアーレント批判になった経緯は、映画でも語られていたが、なにか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺どおり、日本社会との共通点を感じて失笑した。
 アーレントの著作は難解である。思考の層が、何重にもパイの皮のように重なりあっている。十分心して取りかからないと、それこそ多くの人々が『イェルサレムのアイヒマン』で犯したのと同じ過ちを犯してしまう。矢野久美子の『ハンナ・アーレント』は、重なりあいもつれあってしまいがちな読者の頭の中を、著作の層の中から最も重要な部分を引き出して、交通整理をしてくれるのだ。
 じつは、読破したのはずいぶん昔の時間があったときに、たっぷり時間をかけて『全体主義の起原』を読んだだけで、あとはつまみ食いであったり途中で挫折している。『イェルサレムのアイヒマン』と『過去と未来の間』についてはもう一度きちんと読み直しておくべきだと思うのだが、なにしろ今は時間がない。墓にでももっていって読むしかないのだろうか。


『「現代思潮社」という閃光』

2014年06月18日 | 本と雑誌
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 今は再建して現代思潮社新社となっているが、かつて、現代思潮社というユニークな出版社があった。著者の陶山幾朗(すやま・いくろう)氏はその現代思潮社の元編集者である。当時似たような名前の出版社がいくつかあった。詩集を中心に出版していた思潮社、新左翼系の現代思想社……。それらの出版物にはいずれもかつてずいぶん世話になった。

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 現代思潮社の本は、書棚をサッと見ただけですぐに数冊が目に入る。ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』、リサガレー『パリ・コミューン』、アンドレ・ブルトン『シュールレアリズム宣言』、トロツキー『我が生涯』、ロープシン『蒼ざめた馬』『黒馬を見たり』、メルロ・ポンティ『ヒューマニズムとテロル』、モーリス・ブランショ『文学空間』『来るべき書物』、etc.
真剣に探せばこの数倍は出てくるだろう。
 
 本書の帯には「悪い本を出せ!」とある。悪い本とはすなわち、「良い本」を体制的な秩序を守った本とすれば、権力によって作られた枠組みから徹底して外れた「反体制」の本のことである。60年代70年代の進歩的文化人といわれている人々の傾向は、マルクス主義とエロティシズムだった。吉本隆明、埴谷雄高ら、新左翼系学生運動家に人気があった作家達に加え、澁澤龍彦や栗田勇などの著作も出版している。
 当時の新左翼運動は、70年安保以降の挫折を迎えるまで、体制に対する抵抗でアイデンティティをあらわしていた。それは既存左翼であった日本共産党とは一線を画すもので、日本共産党が「健全・健康」な(「歌って踊ってニコニコ民青」とはやし立てバカにしていた)社会秩序の枠組みの中で活動しているのに比し、体制的な「公序良俗」や「社会秩序」を破壊することにあった。寺山修司や唐十郎等による「常識的」な見識を持った大人達には目をおおうような演劇や映画がウケたのもこの時代である。
 そうした時代背景の中で、現代思潮社の出版物は善かれ悪しかれ世間をにぎわす話題性とともに当時の若者達におおいに支持されたものだった。
 
 本書は元編集者の陶山氏が、遺された総目録をもとに記憶を辿りながら印象深い何冊かについてのエピソードを語る。
 『蒼ざめた馬』のエピソードがすごい。当時の著作権がどのような取り決めになっていたのかわからないが、同書がほとんど同時期に現代思潮社と晶文社の2社から発売されている。出版間際までおたがいバッティングしていることに気づかなかったらしい。そこで現代思潮社は相手より早くより良い本を出そうということで、自署名入り写真の口絵をつけ、堅牢な箱入りの美本を短期間で仕上げた。発行日は奥付によると現代思潮社版が11月25日、晶文社版が11月30日であるが、同時発行といっていい。今ではまずあり得ない現象だ。
 しかし、売れたのは現代思潮社版だった。装幀がよかっただけでなく、川崎浹(かわさき・とおる)の訳がすこぶる読みやすい。
 
 60年代70年代に青春をすごした人にとって、当時読んで印象に残っている本の出版社を見ると、現代思潮社だったという例が少なくないのではないだろうか。
 何度か書棚と書斎を往復していたらさらに見つかった。サヴィンコフ『テロリスト群像』、デリダ『根源の彼方に─グラマトロジーについて』、さらには谷川雁『原点が存在する』なんて本もあった。


BIG COMIC スピリッツ No.25

2014年05月20日 | 本と雑誌
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『美味しんぼ』についての「ご批判とご意見」が掲載されている最新号を買った。発売当日の午後に出かけたら、近所のコンビニでは最後の1冊だった。
 漫画雑誌を買うのは学生時代以来である。当時は『サンデー』か『マガジン』で、社会人になってからはまったく読まず、青年向けの漫画雑誌などは他人が読んでいるのを横目で見るくらいで、ほとんど手に取ったことはなかった。
 久しぶりに手に取って、真っ先に気づいたのは、編集が大変だろうということだ。
 どういうことかというと、製本である。『サンデー』や『マガジン』が背中が四角い無線綴じであるのに対し、『BIG COMIC スピリッツ』は中央でホチキス留めした中綴じなのだ。しかも、400ページ以上ある大冊。中綴じだと左右の幅が中と外とで10ミリ以上違ってくるわけで、ページによって異なるフォーマットづくりが必要になる。漫画家さんたちも自分の作品がどのページに掲載されるかで原稿の寸法を変えなければならない。10ミリも違えば、掲載頁を間違えて大騒ぎになるような事故は、一度ならずあったに違いない。こんな雑誌はつくったことがないから、プロセスはよくわからないけれど、書籍づくりとはぜんぜん違うノウハウが必要なんだろうなあ、とつくづく思う。
 もともと、雑誌と書籍では同じ出版物でありながら別世界なので、一方の経験があれば他方もこなせるという論理は成り立たない。雑誌屋さんがつくった書籍は、やっぱり雑誌の延長であることが一目でわかる。
 
 
 その「ご批判とご意見」は巻末に掲載されていた。投稿者は以下のとおりである。
 立命館大学の安斎育郎氏、川内村村長遠藤雄幸氏、大阪市、作家で住職の玄侑宗久氏、京大の小出裕章氏、医学博士の崎山比早子氏、岡山大学の津田敏秀氏、日大の野口邦和氏、NPO法人代表の野呂美加氏、大熊町商工会会長の蜂須賀禮子氏、医師の肥田舜太郎氏、福島県庁、双葉町、琉球大学の谷ヶ崎克馬氏、医師の山田真氏、ジャーナリスト青木理氏(掲載順)
 
 まず結論から言うと、いずれもそれぞれの立場から見れば「正しい」、のだろう。福島という自治体を守る立場、東電という企業を守る立場、国益を守りたいという立場、そして、人々の健康を守りたい立場、子どもの未来を守る立場など、それぞれの立場において、その論理はまぎれもなく「正しい」のだろう。
 ただ、読んでいくうちに「正しいのだろうけれど、違和感を覚える」意見がいくつかあった。何度も出てくる「県民」とか「町民」などという言葉で住民の意見を一括りにする欺瞞をまず感じる。県民の中にも町民の中にも異なる考えの人はいるだろうし、国や自治体の言うことに異を唱える人も少なくないだろう。そこで言われている「県民」や「町民」とはいったい誰で、その意見はどんな人々を代表するものなのか。
 
 安斎育郎氏は信頼できる放射線防護額の学者である。しかし、学者でもない作者が、学者の専門分野に踏み込んで放射線の影響などについて書いたのが、ひっかかったようだ。
「鼻血や倦怠感については、福島のほうでそうした症状を心配している方がいるという話は伝わってきています。そして、それが放射能によるものかの議論がある。ただ、原発事故前の鼻血や倦怠感に関するデータと今を比べなければ、増えているのかどうかはなんとも言えません。具体的な、そういう比較データは承知していない。
 こうした症状は「後付けバイアス」によって出ることが知られています。これは心理学用語で、鼻血が出た、疲れたという症状が出た場合、福島で放射能を浴びたからではないかと考える。今こんなに疲れているのは、きっと福島に行ったせいだろう、などと考えることはよくあることです」
 安斎育郎氏は、通常の異変であっても原発事故を体験したことで、体調不良があると放射能を浴びたからだと考えがちだというのである。たしかにそれは否定できない。
 しかし、ほとんどがそうであったとしても、すべて「後付けバイアス」だと決めつけることで、ほんとうに被曝被害を負った人を見過ごしてしまわないか。さらには、「後付けバイアス」が生じるにはそれなりの理由があるわけで、放射線医学だけでは解決できない、心の問題を孕んでいるのではないかということである。
 たしかに、雁谷氏は取材結果を自分だけで判断した節があり、軽率だと批判されても仕方がないところもある。統計的、あるいは調査結果などについては専門家の観衆を仰いだほうがよかったのかもしれない。しかしそうすると、専門家の意図が働いて、伝えたいことが伝えられなくなる危険性もあるからむずかしいところだ。
 小出裕章氏は、「現在までの科学的な知見では立証できないことであっても、可能性がないとはいえません」と語る。
 自然界の出来事で、科学で立証できるのはほんの一部でしかない。わからないことのほうが圧倒的に多いのである。
 放射線被害による症状には個人差があり、公式に当てはまらない例がかなりあるといわれている。
 元東電福島原発事故調査委員で大熊町商工会会長の蜂須賀禮子氏がいう、「鼻血が出るほど被曝したとなれば、山岡さんは死んでいる」という意見は、いささか乱暴で、また、22・23合併号でのやりとりから「医師が放射線と鼻血とを故意に関連づけないようにしている、という印象を与えます」という意見からは、放射線被害を小さく見せようとする立場が見え見えである。実際、東電寄りの医師の中には被曝線量を低く見積ったり、様々な症状を原発事故との因果関係は見られないなどと診断する人がいる。
 
 それにしても、おかれた立場によって180度、いや、ドラマではないが540度違う論理があるので興味深い。すでに言ったが、いずれの意見も鵜呑みにせず、だれの立場で、だれの利益のために述べているのか見極めることが重要である。
 なにより、編集部の見解にあるように、事故から3年経って「放射線物質の影響に関する報道が激減している現在」、議論を継続させるためのきっかけになったことは大きな価値があると思う。


『アジア記者クラブ通信』261号

2014年05月20日 | 本と雑誌
◆報道されない世界の真実を救い上げる、唯一の月刊通信。

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●今月の内容
 
Nishikawa
 
【定例会リポート】戦後19回の都知事選から分析した都民の投票行動の特徴(西川伸一)

【経済】オバマ政権はアベノミクスを斬り捨てた 安倍2次政権の「終わりの始まり」(ホイットニー)
【経済】大銀行は戦争の背後でほくそ笑んでいる 現代の戦争と金融資本(ワシントンズ・プログ)
【歴史】現代ファシズムヘの反逆精神を喚起 ポルトガル4月革命から40年(ロドリゲス)
【オバマ・アジア歴訪】中国を最終棟的にユーラシア支配目論む(ぺぺ・エスコバール)
【オバマ・アジア歴訪】オバマの中国封じ込めと配慮の真相は?(バードラクマル)
【ウクライナ】血塗られたオデッサ虐殺の真相が明らかに(ライプジャーナル)
【沖縄】軍事植民地・沖縄へ関心高める海外の市民 稲嶺名護市長訪米に注目(スワンソン)
【メディア】情報提供者を脅迫・迫害するオバマ政権(ミコル・サビアヘのインタビュー)
山崎久隆の原発切抜帖
【ウクライナ】クリミアの輸送回廊建設に中国企業が参入 ロシア支援に動く北京(プラウダ)
258・259号の都知事選記事への批判について(編集部)
 

■アジア記者クラブ5月定例会■

「沖縄県紙への権力の圧力と本土メディア」

2014年5月24日(土)18時30分~21時
明治大学研究棟4階・第一会議室(リバティタワー裏)
ゲスト:島 洋子さん(琉球新報東京報道部長)
    宮城栄作さん(沖縄タイムス東京編集部長)

 仲井真弘多知事による辺野古埋め立て承認から5ヵ月。沖縄の命運を決める県知事選挙まで半年に迫った。2月の宜野湾市長選、4月の沖縄市長選に目をやれば、安倍政権が辺野古への新基地建設を沖縄に呑ませるために政府を上げて遮二無二後押しし
てきた。県知事選に向けてこの動きに拍車をかけることは必定だ。本土メディアは、辺野古への新基地建設を既定路線と受け取ったのか、東京新聞を除けば、目立った沖縄報道が姿を消しているのが実情だ。その一方で、沖縄県紙叩きがエスカレートしている。仲井真知事から偏向呼ばわりされ、石垣島に自衛隊施設が建設されることをすっぱ抜いた県紙には悪態が浴びせられた。与党政治家、防衛省の官僚だけでなく、政府と一体化した全国紙からも県紙排除を正当化する論調が出てくるようになった。
 5月は、沖縄タイムスから宮城栄作さん、琉球新報から島洋子さんをゲストに迎え、ミニシンポジウム形式で開催します。今回の沖縄県紙叩きが過去とどこが違うのかを皮切りに本土メディアの立ち位置を検証し、尖閣諸島(釣魚)と与那国島への自衛隊配備、辺野古埋め立てと普天間飛行場問題、竹富島の教科書問題、実態は軍事植民地状態の沖縄の現状を打破するためにゲストに掘り下げた問題提起をお願いし、議論を深めたいと考えています。是非ご参集を願いいたします。

■交 通 JR・地下鉄「御茶ノ水」・都営線・地下鉄「神保町」下車
     (東京都千代田区神田駿河台1-1)
■費 用 会員・後援団体・学生1000円、ビジター1500円、
     年金生活者・生活が大変な方(自己申告)1000円
■主 催 アジア記者クラブ(APC)・社会思想史研究会
■連絡先 アジア記者クラブ(APC)
〒101-0061 東京都千代田区三崎町2-2-13-502
Tel&Fax: 03-6423-2452 http://apc.cup.com E-mai1: apc@cup.com
※最新の情報は、必ずHPでご確認ください。

Meijimap


海原雄山が泣いた『美味しんぼ』110

2014年05月17日 | 本と雑誌
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 『ビッグコミック・スピリッツ』に連載中の「美味しんぼ」に抗議が殺到しているという。
 原発を訪れた主人公の山岡が疲労感を訴えた後に鼻血を出すシーンが、「風評」を引き起こし、福島のイメージを損ない、復興に全力を注いでいる福島県民を傷つけるというのだ。
 しかし、その話がおおやけになってから、複数の住民から「自分も鼻血が出た」という訴えがあったそうだ。それまでは鼻血が出ても安易に口にできる雰囲気ではなかったという。
 カメラマンの広河隆一さんは「チェルノブイリでは5人に1人が鼻血を訴えた」と語っているし、井戸川元双葉町町長も同様の体験があり、「これは風評ではなく事実だ」という。
 「風評」とは、事実でないことがあたかも事実であるがごとく広まり、被害を及ぼすことだ。実際、福島県内にも汚染されていない、あるいは汚染度が低い地域があり、福島でとれる作物のすべてが汚染されているわけではない。それをただ福島県産だからという理由だけで排除するというのは、風評といって過言でないだろう。
 だが、その責任は風評を流す人間にあるのではなく、正しい情報を公表しない政府や自治体にある。ウソやごまかしが多いから、人々はなにを信じたらよいのかわからないのだ。安全が確認できない食べ物を、子どもにあたえる親はいない。
 
 「福島の真実」前半がまとめられている『美味しんぼ』単行本の110を買った。雑誌のほうは残念ながら読むことができていない。品切れでしかも、中古にはバカバカしい高値がつけられている。だから、報道されている以上のことはわからない。持っている人がいたらぜひ見せてほしいところだが。
 
 『美味しんぼ』110にある「福島の真実」は決して偏った内容のものではなく、実によく調査し、地域によって安全な場所と危険な場所があること、農作物にも栽培方法や種類、土地などによって汚染度はまったく違うということなどが、詳細なデータとともに述べられている。そして、国や自治体などが公表するデータの不正確な点や、利害によって操作されていることも、その根拠を含めて述べている。
 海原雄山が放射能汚染による住民の現状を知って涙をこらえるという、らしくないシーンがある。あの海原雄山でさえ涙するほど、福島の現状は悲惨なのだが、それを知らせると「風評」被害をおよぼすといわれ、マスコミは報道を自粛してしまうのだ。
 
 原発事故によって住むことのできなくなった地域は実際に存在するし、汚染地域に入ったことで被曝し、鼻血が出たり倦怠感を訴える人は複数いる。それらはまぎれもない事実であって風評ではない。ところが、事実を「風評」にしたい人間がいるのだ。住民を危険にさらしても自らの利益を守りたい人間がいるのだ。
 事実をすべておおやけにすることが、結局は風評被害を最小限にとどめ、かつ復興を早めることになることはだれにでもわかるはずなのだが、日本という国は人の命よりも金が大事な人間が力を持っている。それが問題だ。
 
 『美味しんぼ』の111は2月に発行されるはずだったのが延びている。早くて5月末ということなのだが、抗議や批判に負けることなく、ぜひオリジナルのまま発行してほしいと願う。


『琉球弧の住民運動「復刻版』ついに刊行

2014年05月15日 | 本と雑誌
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 大型出版物、『琉球弧の住民運動「復刻版』がようやく刊行された。本書は、刊行されたすべてのページを余すことなくそのまま1冊にまとめて復刻した。
 当初の予定は昨年9月刊行の予定だった。それがさまざまな問題が生じ、11月になり、翌年2月に延び、4月までには確実と言われながらとうとう5月になってしまった。
 しかし、とにかく出版できた。ほっと一安心である。
 B5判840ページ。あとはこれを、1冊でも多く広めていくことだ。
 わけあって、定価が当初の11,000円から13,000円(税別)になってしまったことは、残念である。

 1975年からはじまったCTS(石油備蓄基地)反対運動は、沖縄の平和と環境を守る住民運動の原点であり、またそれは、現在の反基地闘争に直結する。それはとりもなおさず、脱原発、TPP反対運動、集団的自由権反対運動など、右傾化に歯止めをかけるすべての住民運動の原点でもある。全国の活動家、政治家、研究者待望の一冊。
 各大学、研究室に蔵書されたい。またそれぞれの地方図書館にリクエストをお願いしたい。そして、どのページからでも開いてみていただきたい。奄美から八重山に至る琉球弧住民の、熱い思いが感じられることと思う。
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ひまわり博士のウンチク: 「琉球弧の住民運動」復刻
Amazon
*Amazonでの取扱はもう少し時間がかかるので、合同出版に直接申し込めば、送料サービスで送ってもらえる。
 合同出版?03-3294-3506(編集部:しもかど)


崎山多美の小説

2014年05月06日 | 本と雑誌
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 沖縄の歴史、とくに現代史についてはずいぶんいろいろと調べてきたが、文学については、池上永一や目取真俊くらいで特別沖縄に限定して読み込んだということはなかった。あとは大城立裕、山之口貘くらいか。

 崎山多美は1954年、西表島に生まれた。「水上往還」で九州芸術祭文学賞を受賞。同作品と「シマに籠る」で芥川賞候補になる。

 恥ずかしながら崎山多美という芥川賞候補にまでなった作家を知らなかった。知ったのは、友人のブログで紹介されていた『現代沖縄文学作品選』(講談社文藝文庫)という、ばかに高価な文庫本に収録されていたものを読んだのがきっかけである。興味はあったけれど、あまりよく知らない作家の288ページ立てで1600円もする文庫本を購入するのはいささか抵抗があって(毎月書籍代に万単位の支出がある)図書館を利用した。
 ありがたいことに、杉並中央図書館(アンネの日記事件で一躍有名になった)に蔵書されていた。
 
 収録作品の「見えないマチからションカネーが」を読んでおどろいた。全文が沖縄方言である。読みながら、簡単に引ける沖縄方言辞典がほしくなった。
 おどろいたのはそれだけではない。ウチナンチュの精神構造を見事に表現しているのだ。風習や暮らしなど文化なら、先の池上永一や目取真俊の作品からも感じ取ることができる。しかし、微妙に本土の人間とは異なる心の動きまで表現されている作品は、なかなかないのではなかろうか。
 そして最後は、見事などんでん返し。読み進んでいる途中で、なんか変だと感じていたことが、最後の最後でなるほどそういうことだったのか、と読者を完結させている。実にうまい。ハマッた。
 
 読んでいる途中、ネットの古書店で『沖縄文学選』という、岡本恵徳氏が編集している本を見つけて注文した。こちらはA5判430ページで定価は税抜きの2600円だが1000円ほどで入手できた。時代別に小説、詩、琉歌、戯曲などの代表作が網羅されていて、崎山多美の作品は「風水譚」が収録されていた。他には最近岩波現代文庫で復刊された大城立裕の「カクテル・パーティー」や目取間俊の「水滴」も収録されている。
 ちなみに岡本恵徳氏は雑誌『けーし風』の編集長である岡本由希子さんの父上である。
 
 「風水譚」は親に棄てられた「色が白く青い目のシマンチュ」の女が、生きるために自分をからっぽにしていく話だ。彼女たちは、まるでこの世とあの世を往き帰しているかのように描かれている。敗戦後、ヤマトから見捨てられ米軍の占領下に長くおかれた沖縄の、そこに暮らした人間でなければ語ることのできない、あたかもよその家を訪れたときに感じるような、経験のないにおいがするのだ。
 杉並中央図書館には、ほかに『くりかえしがえし』と『ゆらていくゆるていく』も蔵書されていることがわかったので、借りてきた。『くりかえしがえし』には、芥川賞候補作品の「水上往還」が収録されていたので、真っ先にそれを読む。精神構造の表現力は「見えないマチからションカネーが」でわかっていたのでおどろかなかったが、この作品は情景描写が巧みだ。シーンごとに沖縄の樹木を配置して、登場人物のおかれた位置をさりげなく表現している。
 
 自分はどうやらシュールな作家に引かれるようだ。安部公房にはじまって、内田百閒(時代が逆だが)、川上弘美、そして崎山多美である。(京極夏彦も結構好きである)
 しかし、崎山多美のシュールさは、安部公房や内田百閒のように超常的ではない。だれもが体験しそうな、それでもかなりあやふやな世界なのである。
 残念なことに、彼女の作品は、ほとんどが絶版か品切れになっている。再版しないのはどの出版社も売れないと見たのだろう。彼女の作品が芥川賞の候補ではなくて、受賞していたならば今頃はベストセラーになっていたかもしれない。実にもったいない。