monologue
夜明けに向けて
 



その日、ある女性ロッカーの遺灰が飛行機からロサンジェルス、スチンソンビーチ(Stinson Beach)あたりの太平洋に撒かれた。かの女の死因はヘロインの過剰摂取。いつもより高純度の製品であったためとみられている。

 そしてジャニスは伝説になってしまった。その歌やパフォーマンスに接したことのない人までもが知っているような気になった。

 テキサス州ポート・アーサーの高校時代、肥っていて、「豚(pig)」「キモイ(freak)」「ぞっとする(creep)」などと呼ばれて深く傷付いていた少女ジャニス・ジョップリン(Janis Joplin)はオースチン( Austin)のテキサス大学を中退して1963年にサンフランシスコ、ノースビーチ(North Beach)に移転した。そして ヒッピーの本拠地Haight-Ashbury(ハイトあるいはヘイト・アシュベリー)に越したことで伝説が始まったのである。ドラッグカルチャー、フラワー・ムーヴメント、カウンターカルチャーの中心に身を置きその時代を全速で駆け抜けることになるのだ。

 初めはフォークソングなどを歌っていたが、時代の先端を走るサイケデリク・ロックバンド、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーにボーカルとして参加したことで変貌する。ライヴを重ねて出演した、67年6月のモントレイ・ポップフェスティバル におけるジャニスのBall and Chain の歌唱はママズ・アンド・パパスのキャス・エリオットも「ウワオ!あれはホント、スゲー"Wow! That's really heavy!" 」と思わず洩らしたほどであった。

 奇跡的女性ロッカー出現の噂が噂を呼びジャニスはあっという間にスターとなった。レコーディング、ライヴ、おきまりのバンドの不和、新バックバンド結成、ツアーなど慌ただしい女性ロックスターとしての日々がゆき過ぎた。その間、ジャニスは常習していたドラッグやトレードマークとなったフルーツ・リキュール酒、「サザーン・コンフォート」を一時やめたりしたが高校時代のトラウマが残り故郷テキサスに帰っても評価されていないことに気付いて前より多量にドラッグを摂取したりしてゆれ動いた。

 そして1970年10月4日、アルバム『パール』の録音で、ロサンゼルスのランドマーク・モーター・ホテルに滞在中、迎えにきたロードマネージャー、ジョン・クック(John Cooke)が床の上のかの女の死体を発見した。享年27歳。ジャニスはロサンジェルスのピアース・ブラザーズ・ウエストウッド・ヴィレッジ葬祭場で火葬されその遺灰が太平洋に撒かれたのである。そのあたりの海で泳ぐ魚はジャニスの灰に含まれたドラッグの成分が溶けてすこしハイになったかも。
 
 ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリンと「J」が頭文字につくロッカーたちがこの時代につぎつぎに27才でドラッグにより命を落としたのでその後「Jの悲劇」と呼ばれることになったのだが、かれらが現在まで生きながらえていればずいぶんロック界事情は違っていたのに、といつも惜しく思ってしまう。

 天才たちにはこの世での暮らしはBall and Chain につながれたようなものだったのか。

 しかしながら27才ではまだ知らないことが多すぎる。もっと世の中をよく知ってからその才能を活かした作品を遺してほしかった…。
fumio


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