学生時代福岡に居た。
浪人ばやりの時代、私も流行り病のように一浪を経験
学生運動に身を置いていた私には、辛く、甘酸っぱく、社会的責任もなく、そして音楽的な魅力に溢れた街が福岡であった。
70年安保闘争、4.28沖縄奪還デモの辛さは一入であった。
警固公園からアメリカ領事館前までフランスデモに参加した時に、丸々と太った血色のよい機動隊の縦列規制を経験した。
彼らは人目の多い、大通りを通る時は整然と横に並んでデモ隊を見守るんであるが、一度人通りの少ない路地に入ると、デモの隊列を分断するかの如くに、露骨に罵声を浴びせながら、ボッコボッコと、蹴りを入れてくるのであった。
それに対抗して私達は皆、痩せ細った貧乏学生だったのだが、腰を落とし、隣の仲間のベルトを握り、ジグザグに蛇行しながら
「安保粉砕・闘争勝利!」のシュプレヒコールを繰り返しながら、辛い行進を続けるのだった。
警棒で殴られてヘルメットが割れた女子学生が居た位に、機動隊の規制は過激であった。
私にとって学生運動とは、・・・それは、当時の学生の熱病みたいに日本中に蔓延していたのであるが・・・、少なくとも「国家のありよう」について、若いなりに真剣に思い考え、憂い、失望し、泣き笑いした。
そして、それは、尖ったナイフのような青春の蹉跌なんである。
そんな中で、天神のフォーク喫茶「照和」は唯一の心の拠り所であった。
チューリップの財津和夫や海援隊の武田鉄矢が常時出演していて、私も駆け出しで、ステージに立ったことがあるのだ。
そんな頃に福岡でとても流行った曲がこれ・・・・。
「柱時計が10時半」
当時のアマチュア音楽シーンとしては凄い新鮮なオリジナル曲であった。
「白い雪そんな雪が私は好き」という曲も、12月の街の喧騒の中で、多くの人に口ずさまれたのであった。
昔噺をするのは年老いた証拠なのだろうが、私にとって、少なくとも音楽に関しては昔噺ではないんである。
柱時計が10時半
ママがパパを愛したように
ええとこの子のバラッド
いつか一緒にやりましょう。
それとブラザーズフォアも・・・。