若い頃に武雄市の古刹、廣福禅寺に2年間毎週日曜日の早朝、座禅に赴いていた。
時の住職、峰松大雲和尚に、厳しい禅の躾の薫陶に授かったんである。
廣福護国禅寺は臨済宗のお寺、国宝で運慶の作といわれる四天王像が祀られているので有名
さて臨済宗の開祖栄西の教えは、「公案禅」
禅問答のルーツは実はここにある。
座禅の都度、老師から公案を与えられ、その後、師の問いかけに答えねばならないのだ。
しかし、峰松大雲和尚は一生涯娶らず(めとらず)の戒律に厳しい禅宗坊主であられたのだが、
実は1時間の参禅の後、曹洞宗の開祖道元禅師の難解な著作である「正法眼蔵」の読書勉強会を行っていたんである。
地下の水脈では繋がっている同源の禅宗とは申せ、座禅の内容が
片や、先ほど申し上げた公案禅
曹洞宗の参禅方法は「只管打座」(しかんだざ)
ただひたすら坐ることにより、無意識の中から見えてくるものがあるのだという他宗派の教え
これを勉強しようという臨済宗の僧侶は、そうは居まい。
老師は般若心経の教えの通りに「こだわらない人」であったのだ。
読書勉強会が終ると、本堂と庫裏の清掃奉仕をして、禅宗のしきたりである一汁一菜の朝餉を頂くのが当時の私の愉しみであった。
ご飯は勿論お粥である。
昆布とタクアンが添えられており、薄い味噌汁のシンプルな朝食。
ご飯茶碗を持ったまま、タクアンを摘もうものなら、手厳しく叱られたものである。
「それは犬畜生の食べ方だ・・・・。」
「人はモノに感謝しつつ押し頂かねばならないのだから、ちゃんと昆布は昆布の皿を持って、タクアンはタクアンの皿を持って食べなければならんのだ・・・・。」
こんな調子で厳しく教えられた。
食べ終えると、お白湯を茶碗に注ぎ、綺麗に飲み干した後、白い懐布で綺麗に食器を拭き取らねばならない。
食事の作法にも深い思索に裏付けられた修行があるんである。
そんな座禅修行を2年間毎週行ったのであった。
早朝、冬の広い本堂は零下に及ぶこともあった。
両足を組んで太腿の上に乗せる結跏趺坐(けっかふざ)で禅定に入っていると、
足の指先が寒さで感覚がなくなり、凍傷のように痛くなるほどであったが・・・・・、
今となっては、その厳しさが却って修行という襟元を正してくれたように思う。
因みに私の実家は鹿島市の曹洞宗幸福寺
勿論大本山は、道元禅師が1200年代半ばに開山した福井県の名刹永平寺
その永平寺の「つもりちがい10ヶ条」というのがある。
全部自分に当てはまるので「ドキッ!」とする。ご披露したい。
高いつもりで低いのが教養
低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのが知識
浅いようで深いのが欲望
厚いようで薄いのが人情
薄いようで厚いのが面皮
強いようで弱いのが根性
弱いようで強いのが自我
多いようで少ないのが分別
少ないようで多いのが無駄
そのつもりでがんばりましょう
「尾形君、まだまだじゃのう・・・。また今夜も呑んでおったのか!」
今は亡き峰松大雲老師の声が聞こえたような・・・・・。