今年も母の命日が訪れた。
昭和35年3月18日、その女性は32歳という若さで短い生涯を閉じた。母ながら、とても美しい人だった。
正看護婦の資格を持っていた母は、当時ロクな設備も無かった病院のレントゲン撮影をさせられて、挙句に被爆していたんである。
その所為でガンに侵されていたのだった。
高等看護学校を卒業していた母の医学知識は半端ではなく、
自分の体助からぬことは充分に知っていたと見えて、日記に色んなことを書き遺している。
そこには幼い子供を残して死んでいく無念さが断腸の想いで綴られている。
そんなクレバーな母であった。
私が病気などしようものなら、すぐに便の検査をされて、すぐに食事治療を施されたものだ。
すると不思議なことに、翌日にはケロリとよくなるのだから、私にとっての最高の名医であった。
病気すると、よく飲ませられたのがリンゴのジュース
ジュースなんぞ無かった時代の、リンゴを擂った絞りたてのジュースであった。
厳しい反面、実はとても細やかで優しい母でもあった。
麻疹にかかった時など、二晩殆ど付きっ切りで看護してくれたし、熱で魘されながら、フッと目を覚ますといつも母が枕元で、やさしく微笑んでくれていたのだ。
そんな母の大好きな花はフリージャ
それも一般的な黄色ではなく、白
純白なドレスを纏ったフリージャの花がお気に入りであった。
一昨年だったろうか、母の命日になって・・・・・・。
その白いフリージャが我が家の花壇に突然咲いた時には驚いたものだった。
その時のブログは ⇒ ココ
その白いフリージャをやっと探し出して、今年も母の霊前に供えた。
もう50年以上も前に逝った母なのだが、
年月と共に、その存在が、益々鮮明に思い出され
思い出が増幅しているのはどうしてなのだろうか。