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夢の羅列<駐車場にて・part4・ウインドーから> 20180922 採取

2018-11-21 18:29:37 | Dreams
夢の羅列<駐車場にて・part4・ウインドーから> 20180922 採取

夢の中の暗い駐車場で小用を足そうとするも、工事関係者たちが現れ、小用は中断し、
半ケツのまま自分の車に乗り込み安堵するも尿意は未だ激しく、しかも今度は窓を叩かれ、
見ると知り合いが目の前に立ってていて車内を覗き込んでいた。私は窓を少し開けた。


「どうも。人を待ってるんだけど、なかなか来なくてさ」
「そうなの。飲みに行くんだけど、どう。あそこの○階。よかったら来てよ」
「ちょっとわからないけど、まあ後で行けたら行くよ」
「あっそ。そんじゃあ」
「はーい」

男と女はうまく去ってくれた。
私の頭の中は半ケツの心配で一杯だった。

気づかれなかったよな。
セーフだよな。
見られていたら何を吹聴されるかわかったもんじゃない。

するとまた、コンコン。コンコン。

夢の羅列<駐車場にて・part3・知り合い> 20180922 採取

2018-11-19 19:42:22 | Dreams
夢の羅列<駐車場にて・part3・知り合い> 20180922 採取

夢の中の駐車場で小用を足そうとするも、工事関係者たちが現れ、
彼らの仕事上がりの開放感に後押しされたハンター気分を予測した私は
慌てて半ケツ姿のまま自分の車に乗り込んだ。

車内からウインドー越しに息を詰めて見ていると、危ない展開にはならず、
男たちは何事もなかったようにそれぞれの車に乗り込み、発進させた。

と同時に、なぜか私の車がバックし始め、いやこれは地面が動いたのか、
夢の中のことだから物理的な説明は出来ないが、
とにかく動き、だから驚き「うわーっ」と声が出て、そして急に止まった。

なんだったのか、今のは。

中から回りを見ると、私の車は駐車場の一番奥に止まったようだ。
あの工事の男たちはもうすっかり出払っていなくなっていた。

その時、「コンコン」と音がした。
私は後席の左に座っていたのだが、窓を叩かれたのだった。見ると、
窓越しに男がニヤニヤと笑っていた。背後に女もいた。
中年というより長髪の初老といった感じ。
ミュージシャン崩れ。色白。チョビ髭。メガネ。筋肉ゼロ。そんなイメージ。
夢の中では「私の知り合い」という設定であるらしかった。
現実にはまったく知らないが、夢の中ではよくあることである。

コンコン。「いやー久しぶり。珍しいネ。こんなとこで。なにしてんの?」

私はまだ半ケツだったから、なるべく前屈みになり、それを感づかれないよう窓を少し開けた。

「どうも。人を待ってるんだけど、なかなか来なくてさ」

つづく。

夢の羅列<駐車場にて・part2・工事関係者> 20180922 採取

2018-11-17 06:45:34 | Dreams
夢の羅列<駐車場にて・part2・工事関係者> 20180922 採取


夢の中の駐車場で尻まで出し、小用を足そうとしたら、集団の声が近づいてきた。

低い声が夜の路地に響く。
あれはどうやら工事関係の男たちの様子。
そうか、仕事が終りこの駐車場に皆で戻ってきたのだな。
よく見れば足下には電気工事用の工具や電線のリールなどが雑に置かれていた。

立場を逆にして想像してみれば状況や相手の気持ちの理解は簡単だ。

……施工中のビルの配線工事が暗くなってやっと終わり、
缶コーヒーか何かを飲みながら皆で冗談を言い合いながら駐車場まで戻ってきたら、
怪しいおっさんがオケツを出して○○を垂れようとしているではないか。
しかも自分たちの大事な仕事道具にだ。
赦せねぇ。

場所は人気のない駐車場。
もうすっかりと暗い。
こっちは7人。相手はオケツを出したおっさん1人。
これを見逃すことは、全世界の職人に顔向けが出来ないのだ。
よし猟るゾ。

静かに左右に分かれて回り込め。
獲物を絶対に逃がすな……。

まあ通常ならこういった展開だろう。

瞬時にズボンを上げ、
いや上がらない。上がりきらない。
だから半ケツのまま私は慌ててクルマに乗り込んだ。

つづく。

夢の羅列<駐車場にて・part1・月の尻> 20180922 採取

2018-11-14 17:11:58 | Dreams
夢の羅列<駐車場にて・part1・月の尻> 20180922 採取


私はトイレに行きたかった。夢の中で。
つまり直截にいうと、おしっこがしたかった。
夢の中でも、おそらく現実の布団に眠った身体の生理的にも。

とはいえ、その時、私は夢の中で車を運転していたから、まず車を停めて降り、
夢の暗い駐車場内をウロウロし、簡易でも何でもいいからとトイレを探したのだが、
結局見つからず、もうダメだ。えい、ここでしてしまえ、と、
なぜかズボンとパンツを膝まで降ろし、
柔らかに微笑む月明かりに我が白い臀部を照らされながら、
我慢の限界をさあ今こそ解き放とうとした瞬間、
ガヤガヤと声が近づいてきた。

つづく。

モンタージュ・オブ・ヘックについての感想(最終稿)

2018-11-09 21:30:02 | 映画
すっかり忘れていた。何を忘れていたか。
以前、カート・コベインのバイオグラフィ的な映画「モンタージュ・オブ・ヘック」を観ての感想を、
何回かに分けてここに書いていたのだが、サッカーW杯を挟んだりして、
頭がブログに回らず結論がつけられなくなり、しかも暑いし、しばらく放っておいたら、忘れていた。

1994年に自殺したといわれているニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーン、
もしくはカート・コベインは才能溢れるアーティストであったが、
その高い才能と引き換えに、セルフマネージメント能力を欠落していて、
ドラッグに深く浸ってしまい、動機は不明だが自殺をしてしまう。他殺説も残る。

そんな破滅型のカート・コベインに対して私が比較対照にしたのは、
ザ・ローリング・ストーンズの社長、ミック・ジャガーであった。
社長とは形容であって実際ではなく、この形容は彼のバランスのとれた才能に対しての
大きな尊敬の中にほんのわずかな揶揄を含めたものである。

ミック・ジャガーはアーティストとしての資質はもちろん十二分にあり、さらに、
自己及びバンドをプロデュースしマネジメントをする能力に長けていた。
物事を見極める力。見切る判断力。その能力が格段に高いのではないか。

音楽はこんなもんだ。オレたちはこんなもんだ。
客はこんなもんだ。大衆はこんなもんだ。
社会はこんなもんだ。ドラッグはこんなもんだ。

時々の判断に迷いがないように見える。
出来ることを出来る範囲で、そして無理なく、しかし精一杯楽しくやる。
そんなガツガツしていない育ちの良さが彼の足跡にはいつも残っている。

もちろん凡人常人ではないので「無理なく楽しくやる」の前の
基礎努力が並大抵ではないことは明白ではあるが。

単純なロックンロールバンドとしてブレず慌てず、革新はせず、
75歳を越えた現在でも60年代のブルースロックを飛んで跳ねて歌う。
声の衰えも少なく、皺は隠せないが、痩身はデビュー当時のままで、しかも、
実生活では子沢山。資産数百億円。そしてなんと「ひいおじいさん」という驚きの社長である。

一方、カート・コベインは、アーティストとして純粋であるがゆえ、
商業主義を嫌悪し、だから自分たちが世に生み出した作品を疑っている部分もあった。
彼が望んだことはおそらく、もっと純粋に、もっと尖塔へ、ではなかったか。

対してミック・ジャガーは自分や作品に疑いなんか欠片もなく、
楽しいねー。儲かるねー。人生最高。といった感じだろうか。

まあミックがそんな脳みその軽い人ではないことは十分にわかっているが、
そんな彼ミック・ジャガーと、純粋の人カート・コベインの違いを端的にいうなら……、
というところ、ここで前回の感想が途切れたままだった。すっかり忘れていた。

あらためて、二人の違いを端的にいうと、それは何か。

とくに考えていなかったが、今、象徴的にそれを挙げるとすると、

ミック・ジャガーは手帳を持っていそうで、
カート・コベインはあきらかに持っていなさそう。

かな。

カートも創作ノートは持っていたようなのだが、
スケジュール帳はどうだろう。そんな概念がなかったのではないだろうか。
対してミックの方は随時事細かに公私に渡り自己管理をしていそうに見える。

まあ実際はわからないが。

しかし「物をすぐに失くす人」なら手帳なんか危なくて持てないことは明白で、
とはいっても、計画より気分優先の人は、スケジューリングが無意味になるし。
皆さん、手帳持ってますか?
そうか、今はスマートフォンか。
しかしスマートフォンて危ないからね。あらゆる個人情報が集約されている点で。

でも、スマートフォンでしか多くの接続が困難になってきたことも事実。

すると「接続と非接続」という二つの選択があり、
それは「現実と非現実」という二つに似ていなくもなく、
なんというか、その違う世界を明確に混同しないことがやはりスマートなのか。
いや、それら二つの世界だけではなく、日常に於いての全てで、
意識と行動に区切りをつけられることがスマート、頭イイ、ということだろうか。
簡単にいうと、引き摺らない。ダラダラしない。そういうことだと思うが、しかし、
混沌から産まれる圧倒的な光が稀にあることは皆知っている。
そこが難しい。

おわり。

ゲイシャのレベル

2018-11-06 18:13:08 | コーヒー
今日はなんでこんなに本格的に雨が降っているんだろう。
たしかに朝から湿度の高さを感じてはいたが。

少し湿っぽくて寒くはない日には、少し酸味の立ったコーヒーが飲みたい。
逆に寒くて乾いた日は極深の焙煎の豆を低温でじっくり抽出した濃厚なのが欲しい。

それで今日は酸味を希望していたのだが、
朝に何を飲んだか忘れてしまって、
昼すぎにコロンビア、夕方つい先ほどニカラグア、を飲んだことはなんとか憶えている。

今日の出来はコロンビアが突出して美味かった。
さすがにパナマでなくてもゲイシャの名に恥じない高みを感じさせてくれた。

あ、思い出した。朝はマンデリンだ。

マンデリンはドトールのミディアムローストのあの独特な味がけっこう好きなのだが、
今朝のはそれとは違って、フルシティローストによるしっかりとしたコクの一杯だった。
2杯分を淹れて、最初はそのコクを味わい、2杯目は湯を足してまた違った味を楽しんだ。

それでゲイシャはというと、ドリップが上手く出来て、
口の中で酸味がピカピカ輝くというか、弾けるというか、
酸味の質の良さではティピカに次ぐレベルかもしれないと思えた。

ニカラグア(javanica)は、そんなゲイシャの後に飲んだからか、
可もなく不可もなくという感じだったが、
甘みは強く、それもすぐに消えない甘みで、舌に優しさがしばらく残った。
おわり。

首を締めるCoffee

2018-10-30 18:32:20 | コーヒー
今、ニカラグアのジャバニカ種(javanica)を淹れて飲んだのだが、これが美味い。
シティローストだが、焙煎の熱にも柑橘系の酸味を失わず、しかし
コクは増して、甘みが口に残り、後味もクリーンである。

焙煎日は一ヶ月以上前だが、真空パックで、今日封切りした。やはり、
良い焙煎だと2ヶ月は美味しく飲めるというものだ。

もちろん私が焙煎したわけではなく買ったものだが、
他にその時に一緒に買ったゲイシャ種もあり、それも楽しみだ。

2パック買ったゲイシャは値段の高いパナマではなく、コロンビアなのだが、
最初のパックを飲んだ感想からすると、時間の経った味の変化にも期待ができる。

とはいうものの、コーヒーは本当に難しい。
飲む度に痛感している。
飲めば飲むほど、その難しさが新しい壁となって立ち塞がるのだ。

私はそれほど味覚に才能がなかったらしく、
コーヒーにしても結局のところ「美味いか不味いか」で判断しているにすぎないが、
それでも長年けっこうな量を飲み重ねてくると、さすがに不味さには敏感になってきて、
それが「コーヒーという種類の飲料」であっても飲めないものが増えてくる。すると、

私はべつにコーヒーに関する仕事を将来やりたいわけではないから、
そんなに味にうるさくなっても、自分で自分の首を絞めているだけではないだろうか、
と最近ふと思うようになってきた。

理由の一つは、まず外でコーヒーを注文できなくなりつつある。
知らない店だと、どんなコーヒーが出てくるのかわからず、それが怖い。
もし不味かったら飲みきる自信がないし、そこが専門店であったら、
カップにたっぷりと残す心の強さもないのだ。

席の近くに植木でもあれば鉢に流してしまうのだが、いや、
植木もかわいそうだしなあ。

つい先日、ある店のブレンドコーヒーが劇的に美味かったことを思い出し、
久しぶりに行ったが、その日はクリーンさに大きく欠けた印象を受けた。
コクとしつこさは性格の違う兄弟なので、
コクがあって、なおかつクリーンである、というのはかなり難しいと思う。
ここで言いたいことは、以前と今回と飲んだコーヒーは同じはずなのだが、
感想がまったく違ったことは、味が変わったのか、それとも舌が変わったのか、
そのどちらかしかなく、もし味が変わったのならそれでもいいが、しかし、
舌、私の味覚が変わったということなら、これはこれでやっかいなことである。

上にクリーンと表現したが、これは何かというと、つまり濁りのない味を指すのだが、
しかしクリーンならそれでいいのかというと、私はそれを求めるが、
クリーンさは「あっさり」に似ていることもあり、だから、
そんな味気ないものは飲んだ気がしない、という人もきっと多くいるはずだ。

例えば高速のSAによくある自販機のコーヒー、あのコーヒールンバの鳴るやつだが、
私はとてもじゃないが、あれは飲めない。飲めなかった。先日ひと口で捨てた。
しかし、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むことを想定するなら、
あのマディな味がかえってしっかりとしたコクになって、きっとそれを好きな人はいるだろう。
まったくそのことを否定しない。
長距離のトラックドライバーなんかが、ああいった味を好むとすれば、わかるような気がする。
私が同じ立場で、500キロをノンストップで走ってきたら、美味いときっと唸るだろう。

ニュアンスの似ているものに、千葉の漁師たちが好きなマックスコーヒー(缶)があり、
あの甘いだけの缶飲料をやはり私は飲めないが、まったく否定をしない。
海に出て身体も軋む労働をしてみれば、クリーンもアシディティもへったくれも、ないと思う。

……何を書きたかったのか。

あそうか。
これほど金と努力と時間と集中を使ってやがて手に入るものは何かというと、
けっこうなレベルの不便ではないか、ということを最近になって考えている、ことか。

まったくその通りだ。
インスタントで満足できたなら、こんなに便利なことはない。
時間も金もスリフトである。
たまに外で飲むコーヒーがきっと十分にトリートになりうるだろう。
しかし、まあコーヒーのことくらいだったらどうにでもなるが、
他にも、どうしても知りたがったが、やはり知らない方がよかった、ということはよくある。

おわり。

Diary 20181020 見る

2018-10-20 21:12:07 | Diary
昨日の夕方、まだ暗くはない道を歩いていたら、先で何かの作業をやっているのが見えた。
そのまま進むと、それは寺の塀から大きく飛び出した枝を伐採していたのだった。
それもけっこうな量で、警備員を2人、道の上手下手につけての作業だった。

道は寺の長い塀に沿った一通の裏道なので広くはない。
そこにバサバサと枝をエンジンカッターで切り落としているのだ。
近づきながら視線を枝から道に移すと、
小学校2年生くらいの女の子が警備員に話しかけているのが目に入った。
「何をしているんですかぁ」
まだ私は少し離れていたから聞こえなかったが、そんなことを言ったに違いない。

「伸びすぎた枝を切り落としているんですよ」
と警備員が答えたのはさらに近づいた私にも聞こえた。
「ふーん」と女の子。
そして数秒、黙ったまま感心したように切られる枝を見てから、そしてひと言。
「がんばってくださいね。」と小さな手を小さく目の前の警備員に振った。

ちょうどその時、私は女の子と警備員の間を通っていたから、
女の子の声も聞こえたし、顔もちらっと見えた。
のんびりとした顔である。
間延びした声である。

まるで時間の感覚が他の人の3倍も遅いかのような目の光。
「いえ、あ、はい。どうもありがとうございます」
恐縮というか、変に狼狽している警備員。

昨今の、なんでも速いことが有用で、遅いことは価値がない、というような風潮の中、
ああ、こんな子まだいるんだなあ、と私は思った。
きっとなんの警戒心も持っていないのだろう。
帰り道を急ぐということを知らないのだろう。
その佇まいがどうにも無垢すぎるのだ。
二人を少し過ぎてから軽く振り返って見ると、まだ彼女は立ち止まったまま話かけていた。

ああいった子は遺伝じゃなく、突然この世に現れるのではないか。
私の知識というか、経験というか、感覚というか、勘というか、適当というか、
まあそんな思いがある。
「誰にでも陽気に多弁に話しかける」性質が顕著にみられるウイリアムズ症候群という
先天性の特性が知られているが、それを思い出した。

その特性は、まるで人懐こい犬のようだとも称されるというが、
人との壁をまるで作らない、とも、現代の妖精である、とも知られているらしい。

あの彼女がそうだとは言っていないが、しかし、あの小さい女の子の目を一瞬だけ見た時、
と同時に、「がんばってくださいね」という警備員への声を聞いた時、
私まで優しさに包まれたような気がした。
なにか浄化されてしまった気がした。
幸い私を見てはいなかったが、目の光には一切の屈折がなかった。
その光は「人の心を見通す」というような意識の高さも全くなかった。
ただ純粋に「見る」だった。

「見る」以外には何もなく、そして彼女はきっと無力だった。
しかし区別なく、目をそらさず「見る」。
ただ「見る」だけ。見続けるだけ。
直接的には誰をも助けない。救わない。そんな意識もない。
しかしあの時、第三者の私でさえ少し心が軽くなった気がした。

Diary 20181014 Never Let Me Go

2018-10-14 14:42:38 | 映画
先日、CS放送で映画「Never let me go(邦題-私を離さないで)」を途中から観た。

これは、日系イギリス人のカズオ・イシグロの著作を原作にしている作品だが、
主題は重く、ここに書くのも憂鬱になるのだが、概略を無理に三行で言うと、

臓器提供のために作られたクローン人間たちのある男女3人に焦点を当て、
その短い生涯においての希望や、それを打ち砕く真実や、絶望や、普遍的な疑問などを、
クローンではない普通の人間の葛藤と現実とに相対させ、静かに、重く描いた作品。

というところだろうか。

こんな説明では著者の思いや、作品の核にはまったく届かないわけだし、
私も途中からの視聴につき、ここで語れるほどよくわかってもいないことは承知している。

映画をなんとなく観ながら、主役のキャシーを演じた女優に見覚えを感じていた。
いつも含み笑いをしているような、はにかんだような顔立ち。
最近の俳優をほとんど知らないが、しかしこの女優は見たことがある、と思った。
後で検索してみると、女優はキャリー・マリガン。
検索を進めると、ああ、これか、「ドライブ」。

「ドライブ」はやはりCS放送で観た映画だった。

謎めいた過去を持つ寡黙な主人公は、特異に備えた運転の才能により、
犯罪者の逃亡を助けるという裏仕事を請け負っていた。
ある日、自分の部屋の隣に幼い子供と住む人妻と知り合い、やがて惹かれ合う。
しかし刑務所を出所してきたその人妻の夫を助けるために手を貸したことが発端で、
マフィアおよびその下部組織からの粛清の対象になってしまうが、
夫を殺された人妻を守るために男は独り暗闇を疾走するのだった……。

という内容だった記憶があるが、その人妻がキャリー・マリガンだった。

話を「私を離さないで」に戻すと、先にも書いたが、
これは昨年、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの小説を原作としていて、
クローン人間が登場するといっても未来の話ではなく、
設定は1960年から1990年くらいであり、もしも世界が私たちの知っている設定と違っていたら、
という創作世界を舞台にしている。

などと語り始めた私はカズオの著作をひとつも読んでいないので、
話の内容についてこれ以上は何にも書くことをしないが、
話の設計方法を考えたとき、SF作家のフィリップ・K・ディックを少し思い出した。

フィリップ・K・ディックは、ご存知の通り映画「ブレード・ランナー」の原作者だが、
原作はもちろん「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」で、
しかしこの小説は相当に集中して読まないと理解が難しい。
全編まるで深い霧の中を彷徨っているような感触で、
主人公の記憶と思考とが混乱混線していくことにつき合わなければならず、
読み易くはない。といっても、私はもうほとんど内容を忘れているのだが。

読みにくいといえば、話はまた飛ぶが、
先日、図書館のリサイクル処分本の棚に、アンドレ・マルローの「王道」を見つけ、
それは以前からきっかけがあれば読んでみたいと思っていた小説だったから、
しかも返す面倒のない処分本ということで、
同じ棚のもう一冊、ミラン・クンデラの「生は彼方に」と合わせて2冊をもらって帰った。

しかし、もうこの2冊とも読み難いことこの上なく、
何が書いてあるのか頭にぜんぜん入ってこない。
苦痛が先に立ち、読解する気にもならず、どちらも諦めて、
次に図書館に行ったときに、元の棚に置いてきた。

私はどうも訳ものに弱い。
少し読んで文体や言葉使いが自分に合わないとすぐに諦めてしまう。
句読点の付け方が気に入らないだけで読み進めるのを考えてしまう。
逆に、純日本文学の宮尾登美子なんか、いくらでも読めるのだが。

結局のところ、何を書いているのかわからなくなってきた。

カズオ・イシグロを読んでからまた書いてみようかな。

Diary 20181007

2018-10-07 16:03:11 | Diary


「♪リハビリはノーノーノー。」

なぜか急に思い出した。

Diary 20180925 Thai traditional 3

2018-09-28 18:58:21 | Diary


この動画こそが、
私にとって今のところタイ歌謡ナンバーワンであることを発表しておきたい。
この歌、この声、この丸顔。
清々しいまでのカントリー娘。
この曲ももちろんのこと━━それがオリジナルかどうかは不明だが━━
プロの歌手がレコーディングをしたトラックが他にいくつもある。しかし、
やはり前回にも書いた理由と同じで、
私の耳と心には圧倒的にこの素朴な歌い手の声が沁み込んでくるのだ。

「太陽が沈むとき、鳥は巣へと飛び戻る」
歌はこのように始まり、
「しかし私はもう帰ることはできない」
というような意味で終わる(らしい)。

生のラテンバラードを聴きながら泥酔というのが長年の第一希望だったが、
こういったタイ歌謡(おそらくルークトゥン)でドロドロというのも僅差である。

Diary 20180922 Thai traditional 2

2018-09-22 19:02:21 | Diary






(加筆ではないが、後から動画を貼った)

ここ東京は秋の気配も濃厚ですが、
どうです。うら寂しい虫の音と、そしてタイのメロディに酔い痴れていますか。
上の固定ページの動画の歌を最後まで聴かない人とはトモダチにはなれませんよ。
しかし、ここ数日、閲覧数が極端に減ってるのはどういうことなのか。

ところでこの動画の曲。このちょっと力の強そうな娘が歌っている歌。
これは調べると原曲は、いや原曲かどうかはわからないが、
とにかくレコーディングされたトラックがあって、それから推測すると、
どうやらタイの歌謡曲だと思われる。

タイの伝統的な音階と歌唱法を使って、かつ分かり易く馴染み易く作曲したようだが、
例えば日本のでいうとなんだろう。
今、ふっと頭に浮かんだのは田端義夫の「島育ち」か。
これは近いと思う。少なくとも遠くはない。
古すぎて誰もわからないだろうが、私にしても知ったのはYoutube以降である。
「島育ち」は、奄美地方の叙情を歌った曲だが、これに加え沖縄の「19の春」
そして「安里屋ユンタ(新版)」の3曲を「島唄ベスト3」と呼んでいる。私が。勝手に。

話をタイに戻すと、
上に貼ってあるのではないレコーディングトラックの方は
タイでは有名だと思われる歌手が歌っているわけだが、
たしかに歌もこの太めの彼女より上手いし、一般的な美人度は上かもしれない。
しかし、私の好みは断然、この太めの娘の歌である。
とにかくリアリティがある。
声も歌も何もかもに質量を感じる。
そして醸し出される圧倒的に健全な雰囲気が素晴らしい。
何度聴いても、つい微笑まずにはいられない。
一瞬で心を掴まれ、目の前に実り豊かな農村の風景が広がって見えるのだ。

「瀬戸の花嫁」にも似たほのぼのとしたイントロから彼女の明るい歌が始まると、
自分の中からダークなサイドがすぅーっと消えていく感覚が明確にある。

Diary 20180918 Thai-traditional

2018-09-18 19:07:11 | Diary
上の固定ページに貼った動画は、タイのオーディション番組だと思うが、
この歌い手を見て思うことは、「丈夫そう。よく働きそう。」である。

この他にも同じオーディションの動画にブックマークをいくつかしてあり、
たまに「独りアジアン・ナイト」を開催し、続けて聴く。

こういった歌が向こうの民謡なのか歌謡なのかはわからないが、
まあトラディショナルであることは間違いなく、
現地の酒場で、こんな生歌を聴きながらドロドロに酔っ払いたい気もする。

タイに行ったことはないが、飲むならなんだろう。
やっぱりビールか。シンハーとかの。
いや、タイも米どころだから醸造酒があるはずだ。

しかし、この動画の曲も、そして他のもそうだが、やけに転調が多い。
転調というよりも、もともと調性という概念がなかったのかもしれない。
そこを詳しく掘り下げて語れるほどの音楽素養は私になく、悔しいが、
あの転調のとこがかっこいい。好きだ。
また後日、同系列で今のところこれがナンバーワンという動画を貼りたい。
もう心の底まで沁みること間違いなし。

夢の羅列<猿面> 20171031採取

2018-09-15 17:25:40 | Dreams



夢の羅列<猿面> 20171031採取


長年、仕事としてやってきた金属加工やシルクスクリーンなどについて、
私はどこまでもアナログ的なアプローチで自らの道を進む所存であったが、
昨今におけるIT化の大波にとうとう押し流され始めた感を覚え、
それならばいっそのこと芸術という道にこの齢ながら向かってしまえと、
いや、むしろ多くの経験と腐敗寸前まで熟成発酵した創造への直感をもってすれば、
今だから、私だからこそやらねばならぬのだと結論に達した。あくまでも夢の中で。

何をするか。

まずは紙で猿の版画を作ってみた。もちろん夢の中で。

夢の時系列を書くと、

先に芸術家への転身を無謀にも宣言した。
その処女作として猿の版画を作ると発表した。
すると、
奇特な方々から注文がいくつか入った。
しつこいようだが、もちろん夢の中で

それから私は版画の制作に入った。
彫刻刀は持っていた。
以前、「よし、時代は能面だ。」と一瞬思った時に、その熱に浮かれた勢いで買い、
そのまま使わず、キレイに置いてあるのだった。
ちなみに、能面は「彫る」のではなく、「打つ」のである。
能書きは一流なのである。

さて今回は、いや今回も木彫りは面倒なので、パーツに切った紙を重ねる手法をとった。
彫刻刀は使わず、全行程をハサミに頼った。
面倒という時点ですでに芸術の魂は失われているわけだが、まあいいだろう。

この作り方は私が小学生の時分に覚えたのである。
なにせ紙だから小1時間もすれば出来上がった。
摺り上がったばかりの作品を見て私は即座にこう思った。

「酷いな。」
いくら芸術と言い張っても、これはまずい。
小学生の図画工作でもこれよりレベルは高いのではないか。

人に見せていいものではないな。
だいたい、猿の版画が売れると思ったオレが間違っていたかもしれない。
いや、売れるかどうかを考えている時点でそれはすでに商業的だな。
さてどうするか。
よし、まずはこの面を被ってみよう。

鏡を見ると、薄暗い部屋にマヌケな猿が座っていた。

悲しかった。

おわり。

Diary 20180912 BAT

2018-09-12 19:08:16 | Diary
先ほど、ブラジルのイエローブルボン・フレンチを濃いめに淹れて飲んだ。

フレンチは、
温度と抽出量に注意すれば「これぞコーヒー」という美味さになりえる。
それで、濃いコーヒーを飲みながら思ったことは、
やはりこんな美味いコーヒーには葉巻だよなあ。だった。
もちろん、今ここに葉巻はないのだが。

私は煙草を吸わない。
もう15,6年ほど前にやめた。

当時、吸うなら両切りだった。
ショートピースかゴールデンバット。
それ以外は吸った気がしなかった。

ピースは高級な香りと味が楽しめたが、バットは安くてもしっかりとした味があった。
ゴールデンバットは私が止めた頃、たしか110円だったかなあ。
しかし近所で、なかなか売ってなくてね。

それから、煙草を止めてずいぶん経ってから、やはりコーヒーには葉巻だな、と思い、
けっこう高い葉巻を買って、独り当時の工房の地下室で吸っていたのだが、
いや、あのね、味は美味いよ。コーヒーにも最高に合う。しかし、
もうあの後味が受け付けなかった。舌にいつまでも残るニコチンとタールが。

結局、自然消滅的に葉巻も吸わなくなったのだが、気がついたことがひとつあった。
葉巻にインスタントのコーヒーは絶対に合わないということ。
今は製法もよくなって、インスタントでも慣れればけっこうそれなりに飲めるのだけど、
葉巻に合わせることは無理。なにしろ不味さが際立つ。

やはり、レギュラーをフレンチかイタリアンのローストで、濃く甘く淹れて楽しみたい。
昨今流行りの浅煎りではあの煙をしっかりと受け止めきれないだろう。

濃いコーヒーというと、それならスターバックスなどのエスプレッソかと思われるが、
いや、あれは味の変化が早いから、あまりお勧めできない。

葉巻はサイズによるが、1時間くらいは楽しめるわけで、
それに合わせるとなると、やはり、
ネルドリップ、点滴抽出、30グラムで120ml、3分以内。そんなところではないか。

この方法なら味は長持ちするし、冷めても美味い。
濃さに飽きたら熱湯を注げば、また違った風味が立ち上がるのだ。

……何を書いているのかわからなくなってきた。

書きたいのは葉巻の話ではなく、煙草の話だった。いや、ゴールデンバットの話だった。
いや、そうではなく、バットの話だった。

これを今書いているのは私の部屋なのだが、右の手が届くところに窓がある。

それでね。以前から窓というか雨戸というか、そのへんからキーキーキーキーと、
何かが擦れる音がすることがあって、それはアルミを擦ったような音だったから、
私はおそらく雨戸ではなく、サッシが風で微振動して鳴っているとずっと思っていた。

そういうことは少なからずあるから。

建物とか何かのオブジェクトとか、その構造が風とかの周波数にぴったり合ってしまって、
共鳴してしまうという現象。

音がする度に窓を開けてみたり、触ってみたり、揺らしてみたり、すると音は止むので、
まあそんなこともあるよ、とあまり深刻に考えないで今日まで過ごしてきた。

まあ、もうだいたい予想はついてきたと思うが、
今日、先ほど、またキーキーキーキーと音がするので、
窓を開けて、ふと戸袋の奥を見たら、
バットがいた。コウモリが2匹、戸袋の暗さに潜んで鳴いていた。

小さい。
手のひらに乗るくらい。
これは迂闊に雨戸を動かしたりできないな。

こいつら、暗くなったら出動するのかね。
まあ適当にやってくれとも思うが、しかし、
戸袋の中を汚すからなあ。
ゆっくり考えよう。

おわり。


画像はうちではありません。