三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

聖心女子大学聖堂

2011年07月15日 | 東京のカトリック教会
聖心女子大学聖堂
(住所:東京都渋谷区広尾4-3-1)

東京メトロ日比谷線の広尾駅で降りる。セレブな広尾の町は、庶民的な商店や寺院も混在しており、不思議な雰囲気が漂う。聖心女子大学に到着。「深窓のお嬢様」という言葉が実感できるような緑豊かなキャンパスだ。ここは、1948年に創立されたカトリック系の名門。 「聖心女子大学は、聖心会という教育修道会を設立母体としています。聖心会は、1800年にマグダレナ・ソフィア・バラという一人の若い修道女を中心として、フランスのアミアンに誕生しました」。

「聖堂は入学式、卒業式などの公式行事、学生ミサ、聖心祭(文化祭)における聖歌隊の発表会、折々のチャペル・アワーを始め、クリスマス・コンサート、宗教音楽会など多様な目的で集まる場となっています。また、毎日の早朝ミサもここで行われています」、「聖堂はグレイのシンプルな石造り風外観で、緩やかなドームの内部には中央部に700人が収容でき、祭壇と両側の広い回廊および聖歌隊用の2階ギャラリーがあります」(聖心女子大学サイトより)。

聖堂を辞して、広いキャンパスを散策する。旧久邇宮(くにのみや)邸の遺構である正門は、ぜひ見ておきたい。マリアンホール前で、車イスの童貞様(修道女)を、老シスターが介護されている姿を見かけた。何だか胸を打たれる光景だ。構内には、聖心会の修道院がある。 ところで、今後、私は清泉女子大学、及び星美学園短期大学を訪ねると、都内のカトリック系女子大の「おみどう」を全て巡礼したことになる。別に「前人未到の大記録」ではないけれども。


現聖堂献堂:1959年
<欧米の学園チャペルのような厳かで美しい聖堂>

<関連記事>
・白百合女子大学聖堂: チャペル・コンサート
・東京純心女子大学聖堂: 無原罪の聖マリアのミサ
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年間第15主日のミサ

2011年07月11日 | ミサ聖祭
年間第15主日を迎えたカトリック神田教会
(住所:東京都千代田区西神田1-1-12)

東日本大震災から4ヶ月が経過した。死者は1万5千人を超え、今なお5千人もの人々が行方不明であり、9万人以上が避難生活を強いられている。原発事故は全く収束せず、福島の子どもたちに体内被曝などの深刻な影響が表れ始めた。政・官・財界のエリートたち(笑)は、「政権延命」「大増税」「原発推進」を画策し、それを有識者たち(笑)が扇動している。 だが、九電の「やらせメール事件」が象徴するように、これらの「汚れた霊」も相当に焦っているらしい。

7月10日(日)、神田教会で年間第15主日のミサに与った。今回の大震災によって、神田教会は聖堂入口の階段や香部屋が損傷し、祭壇脇の使徒聖ヨハネ像が落下するなどの被害が生じた。 それ以来、主日ミサ以外の日は聖堂見学を見合わせているという。私は神田教会聖堂の厳かな雰囲気が好きで、大震災前はよく独りで祈りに訪れていた。また、ここの教会堂名である聖フランシスコ・ザビエルは、カトリック信徒だった祖父の霊名でもあり、個人的な思いもあった。

ミサ開祭。古き良きカトリック的雰囲気に圧倒され、私は歓喜のあまり、司祭の説教が思い出せないほどの体たらくとなった。聖体拝領前、「洗礼を受けていない方にも祝福を授けます。また、聖書のことばの紙片をお渡しします」との案内を聞く。司祭の隣りにいた小さな女の子から渡された巻物には、こう記してあった。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(注)。大震災の苦しみを乗り越え、「大地の尊い実り」が来る日も遠くないだろう。共におられる神に感謝。


カトリック神田教会聖堂の損傷した階段

(注):全文は次の通り。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙 5章7節)」。この日の福音朗読は、イエスのたとえ話「種まく人」(マタイ13・1-9)であったが、偶然にも「大地の実り」という言葉が関連している。
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カトリック八王子教会丸山墓地

2011年07月09日 | 東京のカトリック教会
年間第15主日を迎えたカトリック八王子教会
(住所:東京都八王子市本町16-3)

7月9日(土)、京王高尾線の京王片倉駅で降りる。国道16号線から別れ、台地上の小道を歩く。この辺りは宅地化が進んでいるが、随所に農地が残されている。やがて緑町公園の森が見えてきた。その小高い丘の上に、八王子教会の丸山墓地がある。カトリックの信仰を八王子に伝えた山上卓樹や、戦前の八王子教会の主任司祭を長く務めたメイラン神父が永久の眠りについている。この墓地の歴史は古く、緑町が由井村と称されていた明治時代に遡る。

丸山墓地の由来を伝えるメイラン神父の手記を見てみよう。「1898年3月、八王子の南、由井村永作の小高い丘の上に六坪の特殊な墓地を持つことができた。でも将来の可能性を予測して、隣りの畑も買った」「六坪の墓地は久しい以前から空地がなくなり、同時に入手した隣りの畑の一角にまで埋葬されていた。1921年5月、私は東京府役所に墓地拡張の申請をした。役所もその必然性を認め、12月許可した」。墓地は今も「小高い丘の上」の面影が残っている。

丸山墓地はよく整備され、公園のような広場もある。十字架の墓石が多く、卒塔婆を見かけないのが、この墓地の特徴と言えようか。山上卓樹の墓は霊園内の高台にある。八王子で伝道士として活躍し、泉町に教会を建てた卓樹。その同じ区画内にメイラン神父の墓がある(注)。八王子教会の歴史を築いた両先人の墓前で、小さな祈りを捧げた。その後、私は本町の八王子教会で土曜日の主日ミサに与った。間もなく、東日本大震災の発生から4ヶ月を迎える。


メイラン神父(1866-1949年)の墓


山上卓樹(1855-1931年)の墓

(注):メイラン神父の墓は、カトリック府中墓地(東京都府中市)の合葬墓にも分骨されている。

◆主な参考文献など:
・「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
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ふたたび、「朝ミサ」へ

2011年07月07日 | ミサ聖祭
清澄な朝を迎えたカトリック八王子教会
(住所:東京都八王子市本町16-3)

7月6日(水)、今週も八王子教会で「朝ミサ」に与った。前回と同じく、「毎日のミサ」と「カトリック聖歌集」を持って着席。八王子教会の朝ミサは、オルガンの伴奏がないので、賛歌やアレルヤ唱などは読誦し、閉祭の歌のみ「カトリック聖歌」をアカペラで歌う。私は「カトリック聖歌」の懐かしく優しい調べが好きだ。幼い頃、カトリック信徒の祖父が子守唄代わりに歌ってくれた影響だろうか。「くしきぶどうの木」や「うるわしくも」を聴くと、遠い昔のカトリック教会の記憶が甦る。

突然、祭壇脇の香部屋から手だけが現れ、開祭を告げる鈴が鳴らされた。神の御手だろうか。いや、主任司祭の稲川圭三神父だった。八王子教会では、朝ミサの読誦が早口ではなく、落ち着いて祈りや賛歌を唱えている。未信者の私でも、慌てずに唱和できるのが嬉しい。朝ミサは「ことば」中心の祭儀だが、主日の「歌ミサ」とは別の喜びがあると思う。平日のミサは初めてではなかったが、私は「八王子テンポ」によって「心とことばを合わせること」に気がついた。

福音書朗読は、イエスが十二使徒を選び、汚れた霊に対する権能を授ける場面(マタイ10・1-7)。稲川神父は、「汚れた霊は神を見せまいとしますが、そんな苦しい時でも神は共におられます」と話された。この日、会衆席に一人の聴覚障害の方がいた。手話で祈りを唱えられていたのだ。稲川神父も自ら手話で説教をされている。何という尊い光景だろう。そこに「神が共におられる」としか思えない。今回の朝ミサで、私は本当に多くのお恵みをいただいた。神に感謝。


カトリック八王子教会聖堂
<涼風が吹きこむ大きな窓>
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カトリック習志野教会

2011年07月05日 | 千葉のカトリック教会
カトリック習志野教会(教会堂名:復活のキリスト)
創立:2000年 ◇ 住所:千葉県千葉市花見川区長作町1385-2

京成本線の実籾(みもみ)駅で降りる。 かつて、この辺りは「習志野原」と呼ばれ、旧陸軍の広大な演習場があった。その周辺は騎兵連隊、鉄道連隊などの軍事施設も多く、戦前の習志野原は「軍郷」だったと言える。「一望千里」と謳われた習志野原には、「演習に訪れる各陸軍部隊や、軍事教練にやって来る首都圏の学生の宿舎として使われた木造兵舎が立ち並んでいた」。実籾街道を北へ歩き、三叉路を右に曲がると、この木造兵舎の跡地が見えてくる。

その粗末な木造兵舎の集まりを、土地の人々は「実籾のバラック」と呼んでいた。戦後、それらは解体されて、現在は小・中学校の校舎や市営住宅などが建っている。第一次大戦時、青島(チンタオ)の戦い(日独戦争)で敗れたドイツ兵捕虜を収容する建物が、この習志野原に開設された。それは、習志野教会前の道路の西側一帯に広がり、収容所棟や運動場などの施設があった。捕虜たちはオーケストラを結成し、円舞曲「美しく青きドナウ」などを演奏したという。

習志野教会を巡礼する前に、私はドイツ兵の捕虜収容所跡を訪ねてみた。すっかり市街地化されているが、唯一の遺構である「将校用厨房」の建物があった。戦後は個人宅に転用されたが、当時はジャガイモ中心のドイツ料理が作られていたのだろう。将校用バラックがあった辺りは市営住宅となっているが、公園内の一角に捕虜収容所跡を示す記念碑がある。習志野教会に到着。聖堂内で遠い歴史に思いを巡らせた。ここ「習志野原」は、私の故郷でもある。


現聖堂献堂:2000年
<この教会は、1968年創立の船橋教会の歴史を継承している>


聖堂内のサント・ニーニョ(聖なる幼きイエス)像

◆主な参考文献など:
・「佐倉の軍隊」 国立歴史民俗博物館友の会「軍隊と地域」学習会編(歴史民俗博物館振興会・2006年)
・「展示品図録・ドイツ兵士の見たNARASHINO」 習志野市教育委員会編(習志野市教育委員会・1999年)
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