三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

大斎節第1主日の聖餐式

2015年02月27日 | 聖公会の礼拝
冬空に映える立教大学モリス館
(住所:東京都豊島区西池袋3-34-1)

醜悪な極右のための三流紙『産経新聞』(2月11日付)に掲載された曽野綾子の「アパルトヘイト称賛」コラムが、海外メディア(AP、ロイターなど)の厳しい批判を浴びている。この曽野綾子という超右翼の俗物は「敬虔なカトリック信者」だが、御聖体を拝領したその口で「日本軍は沖縄戦の集団自決強制に関与せず」などの品性下劣な暴言を吐き続けている。もっとも、曽野は日本のカトリック教会を蝕む「あなたはもうすでに、救われている」宣言が虚構であることの「証し人」にはなっている。

2月22日(日)、立教大学チャペル(日本聖公会)で大斎節第1主日の聖餐式に参列した。教会は先週の水曜日から大斎節(四旬節)を迎えた。午前10時、司祭団が入堂。福音朗読は「荒れ野の四十日間」(マルコ1・9-13)。宮崎光チャプレンは「過去や現在に無関心であることも『誘惑』です。先月、ワイツゼッカー元ドイツ大統領が逝去されました。30年前、『荒れ野の40年』と題した戦後40周年の演説の中で、『過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる』と発言された有名な方です」と話された。

「今の日本は良心を麻痺させ、過去や現在に目を閉ざしているように見えます。私たちは平和の恵みに気付きながら、それを『誘惑』から守る力、そして『誘惑』に打ち勝つ力を、人との交わりの中で養わなければならないのです」。宮崎チャプレンの説教は示唆に富んでいた。現在、「昭和のテレビ中毒世代」は安倍晋三の「誘惑」に取り憑かれているが、私はその姿にマルティン・ニーメラー牧師がナチス独裁の恐怖を詠った詩を連想せずにはいられない。“ Vade retro satana!(退け、サタン) ”


チャペル内観(1918年竣工)
“ 「退けサタン」 主は叫ばれる・・・(聖歌130) ”

◆聖餐式で歌われた聖歌:
ミサ曲譜3(キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイ)、入堂聖歌:129「四十日(よそか)経るまで」、続唱聖歌:130「霊に送られ」、奉献聖歌:131「荒野に送られ」、陪餐聖歌:261「神のみ子なる救いの主」、派遣聖歌:365「地にひれふして」。(番号は「日本聖公会聖歌集」による)
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6 コメント

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或る政治勢力? (カナリア)
2015-02-28 00:23:23
こんばんは、エゥティコさん。

荻上チキさんという若手の評論家が、インターネット上で、問題のコラムについて、曾野さんにインタヴューしていました。動画サイトでSession22というタイトルになっています。映像はなく声だけでした。

聴いていて、曾野さんというのは対他意識の未成熟な人ではないかと思えました。「自分はこういうつもりだった」ということばかりを言い、立場や状況の違う人びとにとって、それが何であるかということには考えが及ばないようでした。

問題のコラムについては、色々な人がブログ等でも取り上げています。そのなかで、「曾野綾子のような考え方をする人間はカトリックにはたくさんいる。カトリックのなかの或る政治勢力の影響だろう」という主旨のことを言っている人がいました。

”或る政治勢力”とはいったい何なのか気になりました。本当に、そんなものがあるのでしょうか?



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「私たちの曽野先生」 (エウティコ)
2015-03-02 12:02:55
カナリアさん、こんにちは。

曽野綾子、山谷えり子、麻生太郎の三氏は「敬虔なカトリック信者」にもかかわらず、いそいそとヤスクニの「神々」を拝み、また社会的弱者や隣国への暴言を(執拗に)吐き続けています。これらの人々に共通するのは、極めて「品性下劣、かつ幼稚」ということです。「政治的な」視点で捉えることが不可能なほど、「品性下劣、かつ幼稚」でありながら、「すでに救われている」極右クリスチャンたちです。

相変わらず、四ツ谷界隈のカトリック系書店では、「私たちカトリック信者の誇り、曽野綾子先生」のおびただしい「御著書」が店頭で平然と「平積み」になっているのでしょうね。
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聖書の読み方 (カナリア)
2015-03-02 21:36:49
須賀敦子さんの著書を読んで、カトリック左派というものがあり、労働司祭という存在もあるのだと知りました。少しも意外な感じはしませんでした。でも、右翼クリスチャンというのは、聖書のどこを読めば、そんな人たちが出現するのか、理解できません。

もっとも、イスラム教の人びとも、コーランのどこを読んだらISISが出てくるのだろう、と思っているでしょうね。

著名なカトリック信者というのは、教会にとって、いわゆる広告塔なのでしょうか?そうだとしたら、著名であることを尊んでいるわけですから、聖書の教えに反していませんか。信者もまた、自分たちのなかから著名人が出ることを喜ぶとしたら、その心理に問題があるとは考えないのでしょうか。著名であること自体が悪いとは思いませんが。

それが教会の現実、信徒の現実ですと言われたら、「そうですか」と受け止めるしかないのでしょうか。
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不思議な「神理解」 (エウティコ)
2015-03-06 13:07:02
カナリアさん、こんにちは。

むかし、メル・ギブソンが主演した映画「パトリオット」(2000年・米国)を観たことがあります。アメリカ独立戦争を描いた「愛国心高揚ドラマ」ですが、その中で田舎牧師が「羊飼いは羊を守るために、狼(英軍)と戦うこともある」と絶叫しながら、教会を捨てて武器を取る場面がありました。この何ともいえないチープな演出に、私はアメリカ人の乱暴狼藉な「神理解」を垣間見たような気がします。

曽野綾子、山谷えり子、麻生太郎の三氏は「敬虔なカトリック信者」でありながら、極めて「品性下劣、かつ幼稚」な暴言を社会的弱者や隣国の人々に浴びせ続けることによって、イエス・キリストの御名、及びカトリックの信仰を貶めています。これらの極めて「品性下劣、かつ幼稚」な人間が信じる「宗教」を、一体どこの誰が(「すでに救われている」と)信じるのでしょうか。結局、日本での福音宣教に「妙案」のようなものはなく、ただ個々のキリスト者が「地の塩、世の光」の真理を心に留めておくことに尽きると思います。

「差別」を称える曽野氏とは異なり、1984年にノーベル平和賞を受賞された南アフリカ聖公会のデズモンド・ツツ大主教は「地の塩、世の光」のお一人と言えるでしょう。ツツ大主教は故ネルソン・マンデラ氏と共に反アパルトヘイトで活躍された方です。しかし、日本の教会の現実は礼拝後に派遣されて「地の塩、世の光」となることを忘れ、何となく信徒会館内での「飲み食い、楽しいおしゃべり」に留まっているように映ります。もっとも、私がこれを「そうですか」と受け止めるには、まだまだ「修行」が必要ですが(?)。
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あれも、これも (カナリア)
2015-03-06 15:33:13
エウティコさん、おいそがしそうなのに、返信ありがとうございます。

むかし、ある詩人の作品に「あれか、これか、ではなくて、あれも、これも」という一節を読んだことがあります。思わず楽しく笑ってしまいました。

プロテスタント教会に行っていたころ、厳しい牧師さんから「今のキリスト教会はキリスト教同好会のようになってしまっている」と聞いたことがあります。佐藤優さんも「日本の教会には神がいない」と言っていましたね。

わたしも「飲み食い、楽しいおしゃべり」だけではいけないと思いますが、純粋さが不毛性にいきつく危険を避けるには、「あれも、これも」で精神のバランスを取る必要があるのではないかと、考えるようになりました。

「飲み食い、楽しいおしゃべり」に加われ、と言っているのではありません。「俺、そういうの苦手なんだ、ごめん」で帰ればいいのです。周りの人たちは、そういうエウティコさんを好意的に見てくれると思いますよ。

楽しそうに見えても、内心に満たされない思いや疑問を抱えている人たちは、たくさんいます。そういう人たちの少なくとも一部は、「あれか、これか」と考えを深めて、それを言語化したり、行動に移せる人たちを、実は、求めているのだと思います。
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「心霊上の孤児院」 (エウティコ)
2015-03-12 10:38:33
カナリアさん、こんにちは。

お返事が遅れまして申し訳ありません。私はブラック企業に勤めているわけではないのですが、年度末の今月は自由時間を充分に確保することができず、教会へ行くことも難しくなってきています。
井の頭公園に近いカトリック教会の邦人司祭は「ここ数年、(趣味の)釣りに行く機会が全くありませんので、だいぶストレスも溜まってきている」と公言していますが(呆)、私は「ここ最近、教会に行く機会が全くありませんので、だいぶストレスも溜まってきている」状態です。それにしても、M神父様。聖書の御言葉よりも「釣り」ですか・・・。

厳しい牧師さんの「今のキリスト教会はキリスト教同好会のようになってしまっている」というご指摘は、まさに「言い得て妙」ですね。かつて内村鑑三先生が「無教会」を唱えたとき、それを「家の無い者の合宿所、即ち心霊上の養育院か孤児院のようなもの」と説明しました。私も「日本の教会には神がいないのでは?」と感じることがあります。そうであれば、改めて「心霊上の養育院か孤児院のようなもの」が必要となってくるのかもしれません。

・参考文献:鈴木範久著『内村鑑三』(岩波新書・1984年)
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