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三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

カトリック春日部教会

2015年06月20日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック春日部教会(教会堂名:聖テモテ)
創立:1972年 ◇ 住所:埼玉県春日部市中央5-7-15

東武伊勢崎線の春日部(かすかべ)駅で下車。ここへ来る途中、車窓から大規模な団地が見えた。1966年入居開始の公団武里(たけさと)団地である。古い住棟が延々と並ぶ光景は圧巻だ。原武史氏(明治学院大教授)によれば、1960年代の高度成長期、団地は私鉄沿線のイメージを高める役割を果たしていたという。私が育った習志野台団地も千葉の私鉄沿線にあった。いま、そんな「団地の黄金時代は長くは続かなかった」(原氏)状況に直面せざるを得ないのだ。

カトリック春日部教会の沿革をおさらいしよう。「1966年、草加市より北にある春日部市でも宅地開発が進み、武里団地の開設により、公団賃貸住宅の一室でミサ・集会が始まり、この地域を管轄する大宮教会の武里分教会が発足した。信徒が急増し、団地近くの宅地分譲地を確保、篤志家からのプレハブ建物の寄付を受け、1972年に教会堂が完成し、春日部小教区が成立した。1981年、市内中心部に恒久的な新聖堂が建設された」(『北関東のカトリック』から要約)。

春日部教会に着いた。団地の集会所のような聖堂内にパイプ椅子が整然と並んでいる。この教会も「団地で生まれた教会」(『北関東のカトリック』より)と称される。埼玉では草加教会と松原団地、東京では豊田教会と多摩平団地などが、この関係に属すると言えよう。残念ながら、我が故郷の習志野台団地は教会を生み出す原動力とはならなかった。もっとも、そこは子どもの楽園ではあった。広い芝生や公園は団地っ子で溢れ、歓声が絶えなかった日々を懐かしく思い出す。


現聖堂献堂:1981年


カトリック春日部教会のファティマの聖母像

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)
・「僕たちの大好きな団地」 青木俊也・大久保健志・照井啓太・長谷聡・眞形隆之共著(洋泉社・2007年)
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カトリック草加教会

2015年06月12日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック草加教会(教会堂名:聖マルコ)
創立:1981年 ◇ 住所:埼玉県草加市松江1-6-11

東武伊勢崎線の松原団地駅で下車。駅名の公団草加松原団地は「かつて『東洋一のマンモス団地』と呼ばれていたほど規模が大きい。(中略)マンモス団地だけあって、団地内にはミニ商店街や診療所をはじめ、2つの小学校、中学校、さらには汚水処理場などもあり、1つの町を作り上げている」(『僕たちの大好きな団地』より)。現在、松原団地は建て替えが急ピッチで進んでいる。2012年9月に私がここを訪れた時、取り壊しを待つ古い住棟が廃墟のように並んでいた。嗚呼。

カトリック草加教会の沿革をおさらいしよう。「1962年、草加市内に建設された松原団地の一信徒宅を川口教会の草加地区分教会として、毎日曜日にミサ・集会が行われるようになった。やがて団地在住者を中心にして次第に信徒数が増加したため、分教会の本拠は1965年に開設された草加藤幼稚園に移って、本格的な教会活動が開始された。1979年に教会堂が完成し、1981年に小教区として独立した」(『北関東のカトリック』から要約)。教会は市内を流れる綾瀬川沿いにある。

草加教会に着いた。白亜の明るい聖堂内でオルガニストが聖歌の演奏練習中だった。この教会は「団地で生まれた教会」(『北関東のカトリック』より)と称される。埼玉では春日部教会と武里団地、東京では豊田教会と多摩平団地などが、この関係に属すると言えよう。残念ながら、我が故郷の習志野台団地は教会を生み出す原動力とはならなかった。もっとも、そこは旧陸軍演習場の広大な跡地だったので、寺社はおろか、野仏さえもない(と記憶している)無宗教的風土ではあった。


現聖堂献堂:?年


聖堂外観

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)
・「僕たちの大好きな団地」 青木俊也・大久保健志・照井啓太・長谷聡・眞形隆之共著(洋泉社・2007年)
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カトリック飯能教会

2014年07月09日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック飯能教会(教会堂名:聖ヨセフ)
創立:1966年 ◇ 住所:埼玉県飯能市東町23-11

東京の八王子からJR八高線に乗車して、埼玉の東飯能(ひがしはんのう)駅で降りる。駅前では数台のタクシーが所在なげに客待ち中。ここは西武池袋線に接続しており、秩父路への玄関口ともなっている。「飯能」という地名は平安時代末期にこの辺を支配した判乃氏から起こったものらしい。さて、カトリック飯能教会の沿革をおさらい。「パリ外国宣教会によって、上福岡(1962)と飯能(1966)に小教区が設立され、それぞれの地域で宣教と司牧が開始された」。

「飯能での宣教活動は、1932年、未亡人が二児を伴って、入間郡精明村(現・飯能市双柳)に東京から移り住み、自宅で聖書の集いを始めたことに始まる。飯能は、川越教会の広域司牧地域の一つであったが、1955年に宮寺教会と共に、所沢に設立された小教区の管轄地域となった。1962年、飯能教会が所沢小教区の巡回教会として発足、1966年、飯能市の区画整理に伴い、現在地に移転すると共に、飯能小教区として独立した」(『北関東のカトリック』より)。

線路沿いに飯能教会が現れた。私が訪ねた時(2012年8月)、ここは司祭が常駐していなかったが、現在はポーランド出身の神父が司牧されているという。聖堂内で小さな念祷を捧げた後、再びJR八高線の東飯能駅に戻る。「東京のローカル線」の代表格(?)八高線は、十数年前まで非電化路線だった。現在も高麗川(こまがわ)から高崎の区間は、むかし懐かしい気動車(下写真)が走っている。これに揺られながら、次は群馬のカトリック藤岡教会を訪ねよう。


現聖堂献堂:?年


JR八高線のキハ110系気動車
(埼玉県日高市・JR高麗川駅にて)

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)
・「滅びゆく武蔵野」 桜井正信、岡田沢治共著(有峰書店・1971年)
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カトリック本庄教会

2013年04月26日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック本庄教会(教会堂名:聖マリアの訪問)
創立:1956年 ◇ 住所:埼玉県本庄市千代田1-3-28

JR高崎線の本庄(ほんじょう)駅で下車。市内北部を流れる利根川の向こうは群馬県の伊勢崎(いせさき)市だ。高崎沿線のカトリック教会巡りも、埼玉県内は今回で最後となる。真夏の炎天下、本庄教会を目指して歩いた。その途中、煉瓦造りの古い商家の脇を通った。本庄は中山道の宿場町だから、その面影が市内の随所に残されている。しかし、本庄の名を一躍「全国区」にしたのは、早稲田大学の本庄キャンパスに違いない。さて、本庄教会の沿革をおさらいしよう。

「明治以来、隣接する群馬県新町には宇都宮と前橋から、熊谷や深谷には川越から布教が行われていたが、本庄は空白地帯になっていた。1956年にフランシスコ会宣教師が赴任してきたとき、本庄には他の教会で洗礼を受けて移り住んだ人が二・三名の状態であった。同年六月、土砂降りの雨の中を高崎教会に向かう米人司祭の車から、ひとりの仏人宣教師が中山道・埼玉銀行本庄支店前で降ろされたことから、本庄での宣教が始まった」(『北関東のカトリック』より)。

本庄教会に着いた。玄関前で聖書を手にされたイエス像がお出迎え。木造の三角天井を戴く聖堂は、和洋折衷の落ち着いた雰囲気だ。その横に併設された小聖堂(下写真)に入る。美しいステンドグラスの原画は、『聖書と典礼』の表紙絵などでお馴染みのアルベルト・カルペンティール神父(1918年生。ドミニコ会)の作品だろうか。「持仏堂」のような空間の中で、私は祈りつつ涼を取った。さて、再びJR高崎線の本庄駅へ。次は群馬県の新町(しんまち)教会を訪ねよう。


現聖堂献堂:?年


カトリック本庄教会の小聖堂

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)
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カトリック深谷教会

2013年03月16日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック深谷教会(教会堂名:聖ヨセフ)
創立:1955年 ◇ 住所:埼玉県深谷市栄町1-48

JR高崎線の深谷駅で下車。東京駅を模した派手な駅舎に驚く。駅前には当地出身の渋沢栄一の銅像がある。真夏の炎天下、深谷教会を目指して歩いた。深谷に於けるカトリックの歴史は古い。1924年、埼玉を巡回宣教していた東京・八王子教会のメイラン神父は、深谷の信徒宅で初ミサを捧げた。1935年頃になると、深谷の「布教所」に周辺の信徒が集まり始め、メイラン師が三ヶ月に一回のミサを捧げていたという。その後、深谷教会に発展した沿革をおさらいしよう。

「1955年、フランシスコ会宣教師が、深谷市西島の元医院の空き家を借り、ミサを捧げるようになった。翌年、深谷に主任司祭が着任、1958年に栄町の旭工業会社の敷地の一部400坪を購入し、教会を借家から移転した。土地購入費は、フランシスコ会アクイタニア管区に積み立ててあったフランス人信徒の献金寄付金の中から充当し、移転後間もなく建築を始め、仮聖堂が完成した」(『北関東のカトリック』より)。1963年、聖堂と司祭館を新築。仮聖堂を信徒会館に改装。

深谷教会に着いた。天を衝くような十字架が立っている。聖堂に入ると、あまりにもキュートな聖水盤(下写真)がお出迎え。その隣りには洗礼盤が置かれていた。正面祭壇を見ると、左側に中南米風(?)のタペストリー(イエスの聖心像)が掲げられていた。毎月第3日曜日はスペイン語ミサが捧げられているという。豊かな思いに囲まれた聖堂の中で、私は祈りつつ涼を取った。さて、メイラン神父の足跡を偲びながら、再び深谷駅へ。次は本庄(ほんじょう)教会を訪ねよう。


現聖堂献堂:1963年


カトリック深谷教会の聖水盤

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)
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