しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <十字架のことば>

2023-08-27 | みことば静想
「十字架のことばは、滅びる者たち<破滅の途上にある人々>には愚か<まったく愚かなばかばかしいもの>であっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18新改訳、<>内は詳訳)

パウロは殉教前、愛弟子テモテに「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感(息吹)によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:15~17同)と書き送った。「神の息吹」とは神のいのちそのもの、永遠のいのちであるから、聖書を読み、その聖言を糧としていただくなら、だれでも神の前に十分に整えられた者となることができる。これが私の生涯にわたる信仰姿勢となって来た。▼しかしこの世に生きる人から見れば、世界に何億冊もある書物、知識と情報の海を顧みず、ただ一冊の本にすべてをかけることは、あまりにも偏頗(へんぱ)・偏屈(へんくつ)な姿勢ではないか、といわれたことがある。その人に言わせると、私のような生き方をする人を「専門ばか」というのだそうだ。つまり、二千年前パウロがいみじくも記したように、「破滅の途上にあり、しかもそのことに気づかない人たち」にとっては、聖書と聖書が証しするイエス・キリストの使信は「まったく愚かなばかばかしいもの」でしかないのである。▼聖書は全体が神のいのちでできた「酸素ボンベ」であり、これを吸っている限り人は安全に生きることができる。人間はみな罪の腐敗性のため死んでいくひん死の状態にあり、神の酸素を呼吸する緊急措置を必要としているというのが真相だ。この現実を悟らず、有毒の海に泳ぐ魚のような自分を意識しない状態こそ「専門ばか」と反対の意味で、愚かの極ではないだろうか。詩篇が言っていることに耳を傾けたい。「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ 滅び失せる獣に等しい」(詩篇49:20同)