しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅰテモテ3章 <監督>

2019-10-18 | Ⅰテモテ

菊の花「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。」(Ⅰテモテ3:5新改訳)

パウロが監督の資格について述べたのが1節~7節で、現在でいえば牧師職にあたる。長老と監督はおなじとみてよい(使徒20:17、24)。▼家庭、特に子供たちを十分な威厳をもって従わせることは至難の業だ。現代社会、中でもわが国をみれば、家庭崩壊と言う造語が一般的になっている事実がそれを立証している。私はやはりソロモンのことばが結論だと思う。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道12:13同)▼キリスト者にとり、神を恐れるとは恐怖ではなく、信仰から来る満ち足れる喜びを表す。すなわち神の臨在が家庭内を包んでいることである。父と母がいつも祈り、聖書に親しみ、喜々として教会に通うなら、子供はそれを見て育ち、神の臨在を「肌から吸収」するであろう。誘惑に負けて一時的に迷い出ることがあっても、最終的にはかならず信仰を全うするにちがいない。▼ところが私たちキリスト者の多くは、喜びどころかむずかしい顔、眉間にたてじわをよせて教会に通っている。説教を聞き、1時間の礼拝をささげても、あふれる喜びがない。家に帰って来ると、あの人この人の批判をする。そのような空気の中で育った子供がどうして信仰をもつだろうか。未信者の夫、または妻もそんな配偶者の信仰をじっと見ている。教会に行くようになるはずがない。▼主はパリサイ人に「おまえたちは、白く塗った墓とおなじだ。外はきれいだが、中は死人のけがれで満ちている」と仰せられた。自分もそれとまったく同じなのだ、との自覚が生じるとき、私たちははじめて主の前に謙遜になることができる。自分が死臭と腐敗そのものであることがわかれば、人はだれをも妬まなくなる。心から喜んで説教を受け止めることができるようになる。教会で最後尾に立つことが自然にできるようになる。なにしろ自分が腐った墓なのだから。そして自分は神の火で焼かれる以外にない者だ、という自覚がおのずと生まれるのである。それがその人のペンテコステにほかならない。神はいやでもそのような人を教会の監督としてお用いになるであろう。