「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。」(Ⅰテモテ4:16新改訳)
パウロはテモテに「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(13)と命じたが、ここではその働きをあくまでも続けなさい、と重ねて命じている。▼私自身半世紀近く講壇に立って、みことばを取り次いできた。主日礼拝の説教だけでも二千五百回ほど休まずに続けたことになるが、夕拝や祈祷会の奨励も加えればその倍以上になるであろう。不思議に、やめたいと思ったことは一度もなく、みことばを取り次ぐ喜びに押し出されるようにして語って来た。▼神に召されて働けることは、感謝この上ない。小さな私も、テモテとおなじように、ゆるされるかぎり「あくまでも働きを続けたい」との強い願いが心にある。やがて天に携え挙げられたとき、私ではなく、私の内におられた方が、実はあらゆることの「動力源」だったことを発見し、神をほめたたえることになるだろう、と思いながら。◆テモテが牧会していたエペソはアジア州の中心、近くには哲学者を輩出したミレトの町もある。教会にはあらゆる年齢、身分の人々がいたであろうし、青年テモテより年配の信徒たちも大勢いたにちがいない。彼の苦労のほどがしのばれる。パウロが「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい」(11)と勧めているのはそのためであった。知識や学問、すぐれた弁舌で対抗しようとしても、それは無理であったと思われる。だからパウロはそれに続いて、「むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい」と言っているのだ。◆牧師にかぎらず、キリスト者は御霊の聖なる臨在のうちを歩んでいるかどうかが生命的なことである。侵しがたい人格、品性、香りの一切は「主がその人と共におられる」という無言のメッセージから発することを忘れてはならない。エゼキエルがまぼろしの中で見た栄光の都・エルサレムは、「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる」(エゼキエル48:35同)であった。これこそが、私たちと私たちの属する教会の本当の名前であるべきではないだろうか。