しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <火の池>

2022-11-26 | 黙示録
「それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:14,15新改訳)
ここでゲヘナがはっきり姿を現わす。最終的には、よみも死もゲヘナに投げ込まれるのである。思えば、人間にはいかに恐ろしい永遠が待ち受けていることか。そう考えると、あらゆる人々はイエス・キリストのもとに駆け寄るのが当然なのに、そうしない。罪と欲望に目が見えなくなっているからである。むろん欺瞞者(ぎまんしゃ)は悪魔である。▼主イエスは、人のからだを殺せても、たましいを殺せない者など恐れる必要はない、両者をゲヘナに投げ込む権威を持っている方(すなわち御父と御子)を恐れなさい、と仰せられた。また次のようにも言っておられる。「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。」(マタイ18:8同)▼そこで私たちは、たとえどのような犠牲を払うことになっても、また信仰のゆえにいかなる迫害を受けることになっても、永遠のゲヘナに落ちることだけは避けなければならない。この世は心の目を見えなくされているから、ゲヘナの恐怖にまったく無関心である。しかしそこに落ちれば、永遠に助かることはない。その恐怖に身震いし、どのようなことがあっても救いの生涯を全う(まっとう)すべきである。

感謝なことに、どのような人にも、地上に生きているかぎり救いの機会は与えられている。あの十字架上の犯罪者のひとりは、重罪を犯して極刑に至ったが、死ぬ間際にイエスに祈った、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください」(ルカ23:42同)と・・。そのとき主は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(42)とお答えになったのであった。▼つまり、生きていて、くちびるが動き、自分で言葉を発することができる間は機会が残っている。ああ神は臨終の瞬間まで、すべての人の悔い改めを待ち受けておられる。ぎりぎりまで待っておられる。永遠のゲヘナに落ちるというのがどのようなことかをご存じだからである。▼誰も人生をもてあそんではならない。時間を鴻毛(こうもう)のように見なしてはならない。永遠に後悔しないために。