しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <ペテロの涙>

2021-02-14 | みことば静想

「ペテロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行ってはげしく泣いた。」(マタイ26:75新改訳)

ゲッセマネで捕縛された主イエスは、時の大祭司カヤパの家に連行され、裁判を受け、「神を冒瀆する者」として死刑の判決を受けた(マタイ26章)。そのとき中庭から一部始終を見ていたペテロに周囲の人たちが、「あなたはイエスの仲間だ」と三度話しかけ、ペテロは三度とも否定した。▼しかも三度目は、「そんな人は知らない」とのろいをかけて誓いながら否定したのだった。のろいをかけて誓えば、その内容は聖なる神の御前において絶対とみなされ、それ以上は追求されなかった。すなわちペテロは、聖なる絶対者の名において、ナザレのイエスを拒否し、捨てたのであった。間接的にせよ、彼は、「神を冒瀆する者として死刑に値する」と決定をくだした大祭司たちの側に立ったことになる。心ならずもそうしてしまったペテロが庭の外に出て泣き崩れたのは当然であった。▼私たちが父母から受け継いだ人間性、生まれながらの本性は、神に従うことができない。一時的な情熱や決心で、あるところまでは行けるかもしれないが、最後は神を否定するのである。理由は、いかにあがいてもサタンの呪縛から解放されることはないからだ。ペテロは主イエスを信じ、愛し慕い、どこまでもついて行こうと決心していたが、最後の土壇場になり、その冷厳な事実に突き当たって悔いくずおれざるをえなかったのであった。▼ダビデもそうであった。神に選ばれ愛され、イスラエルの王として旭日昇天の勢いにあった上、その子孫からメシアが生まれるとまで祝福をいただき、成功と名誉の絶頂にあったとき、一瞬のすきから罪に乗ぜられ、姦淫、殺人、偽証などの見るも無残な犯罪を犯し、奈落の底に落下したのである。そのとき彼は自分の内に、どうすることもできない罪の腐敗性を受け継いでしまっている事実を知って泣き叫んだ(詩篇51:5)。▼私たちキリスト者は、この不動の霊的事実を自分自身に認めなければならない。もちろんそれはペテロやダビデのように罪を犯せということではない。そうではなく、自らがその霊的本質において、ナザレのイエスを呪い殺した実行犯その者であると認め、心から受け入れることである。そのときこそ、「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(ヨハネ6:57同)がその人に実現するであろう。キリスト者とは、日々、このような食事にあずかりながら天の御国を目指して生きる人々を指すのである。なぜなら、そこにこそ復活の世界がとびらを開いて私たちを待ち受けているからである。▼「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」(ヨハネ6:53~55同)