しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <新しい天と新しい地>

2022-02-13 | みことば静想

「また私は、新しい天と新しい地を見た。・・・見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1~4新改訳)

人間にとり、最大の苦しみは労、病、死、苦であり、最大の幸福はそれから自由になることだと、ある宗教者は述べた。いうまでもなく多くの人たちはその解決を求めながら生涯を生きる。煩悶、模索、求道、探求その他の苦闘がそれである。またある人は、その中で得られる悟りが解決の方法だともいう。一方、そのような生き方をやめ、楽しみや情熱、快楽などに全身全霊を傾倒し、我を忘れることによって幸せを得ようとする人もいる。これも一種、没我の境地と呼べるかもしれない。▼だが聖書は、やがて来る神の国がその真の答えだと宣言する。ヨハネは人類の代表としてその国を神から見せられ、ヨハネの黙示録として私たちに書き残してくれたのである。むろんその意味での神の国はまだ到来しておらず、未来に属している。だが、ご聖霊は私たちの心に働いて、それを現実に起きることと確信させてくださるお方である。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1同)とあるとおりに・・・。▼ヨハネが見ていると、私たちの住む天地が完全に過ぎ去り、まったく新しい天地が姿を現した。彼はどれほど息を飲み、おどろいて見つめたことであろう。「天地」とあるから、それは観念や空想、霊の世界ではなく、物質である。しかも死や消滅がないのだから永遠の新しい物質である。そこには、今の世界に存在する涙、死、悲しみ、叫び声、苦しみがない。しかも神ご自身が私たちとともに、永遠におられるのである。彼が我を忘れてその光景を見ていると、声が聞こえた。それは全ての世界を創造される神のお声であった。「すると、御座に座っておられる方が言われた。『見よ、わたしはすべてを新しくする。』また言われた。『書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。』」(黙示録21:5同)▼ヨハネは言うのだ。私たち人間に幸福があるとすれば、それは私が目撃したこの新しい神の国に入ることができる、という希望と信仰を胸に抱いて現在の生を送ることであると。パウロもおなじことを記した。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント13:13~同)と・・。なぜなら、神の国の出現はたしかに未来に属しているが、その支配者であり、創造者にています三位一体の神はすでに(この今の世界に生きる)私たちとともにおられるからである。そして毎日のように、「これらのことばは真実であり、信頼できるものなのだ」と私たちに語り続けておられるのである。▼そこで、21世紀の今、世界に何が起き、いかなる嵐が吹きすぶとも、御国への希望とあこがれを胸にしっかり抱いて、毎日を生きようではないか。