しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅱ列王記22章 <ヨシヤ王>

2020-09-10 | Ⅱ列王記

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」(Ⅱ列王記22:13新改訳) 

ユダ最後の善王ヨシヤは、神殿で見つかった律法の書が読み上げられた時、大きな衝撃を受け、悲しみのため自分の衣を引き裂いた。神の怒りが、もはや避けられないところまで来ていると悟ったからである。当時の人々が、モーセ律法からどんなに離れていたかわかる。だいいち、国王ヨシヤでさえ位について18年間、律法(いわゆるモーセ五書)を読んでいなかったのだ。ほんとうは、王たる者は毎日律法のことばを読み、そこから歩むべき道を示され、おそれおののいて国政に当たるべきであった。モーセがそう命じているからだ。それすらしていなかったとは、おどろきというしかない。▼しかし現代はどうか。これと変わらないのではないだろうか。新約聖書が告げる神のさばき、終末の大審判はモーセ律法の比ではない。黙示録はその最たるものである。悲しむべきことに、世界の人々の大部分はヨシヤ王のように、神の前で泣くこともなく、衣を引き裂いて悔い改めることもない。かってに作り出した科学理論という上着を着こみ、宇宙は何百万年も続くのだと安心しきっている。◆それにしてもヨシヤはなんと心やわらかにして、純真な王であったことか。神はそれを良く見ておられ、女預言者フルダを通じてヨシヤに語られた。「あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。そのとき、あなたは心を痛めて主の前にへりくだり(humbled yourself before the LORD:自分を神の前に卑しめた)、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。」(Ⅱ列王記22:19同)◆私たちにとり、神の前における正しい霊的姿勢とは、みことばを純真に受け取り、幼子のように、ありのまま反応することである。理屈をこね、弁解し、自己の都合に合わせて解釈するようなことは厳につつしまなければならない。