「またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイ27:30,31新改訳)
私はこの50年間に四福音書を計440回通読し、そのたびにゴルゴタの光景に接した(読んだ回数を聖書に記している)。十字架の個所は(そこだけ特別に読んでいるので)500回は下らないと思う。どうしてこんなにイエスの死に引き寄せられるのか、我ながら不思議というしかない。▼おそらく、これは私でなく、御聖霊が十字架に私を引き寄せてくださったからである。「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」(ヨハネ12:32同)とある通りだ。そして読むたびに感じることは、人間とは何とかぎりなく罪深い存在なのか、ということである。▼万物の本源であられる方、それも自分自身の創始者である神をからかい、唾をかけ、葦の棒で叩き、侮辱してやまないのだ。そして同時に実感するのは、私たち現代人もこれと変わらないではないかということ。なぜなら、自分がウイルスのように小さい生物にすぎないのに、造り主を馬鹿にし、救い主を嘲笑してやめないからである。▼私は幾度となく十字架の光景を読んでいるうち、それがパノラマとなって目の前に浮かんで来るようになった。ふしぎなもので、イエスをののしり、罵詈讒謗する指導者たちの声、女性たちがすすり泣く姿、笑いながら十字架に釘を打ち込むローマ兵士の殺意と軽蔑に満ちたまなざし、興奮する群衆たちの怒号と息遣いまで伝わって来る気がする。▼そしてあるとき、私は一種言いようのない気持ちになった。ナザレの一青年として見下げ、あなどっている自分自身の存在に突然気が付いたのである。イエスには神としての栄光、尊厳の片鱗さえなかった。完全に死に行く罪人の姿が100%であった。その時なぜか私は、私のとてつもない罪深さを感じたのである。そして私はその場に膝まづき、泣きぬれた。涙があとからあとから出て来て止まらない。ただひとこと、「ゆるしてください」と言うのが精いっぱいであった。▼私たちが生きているうちか、死んでからかわからないが、やがて主は復活された栄光のおからだで、雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。そして世界中、すべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむであろう。かの日そうならないためにゴルゴタの丘へ行こう。今。