しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <プリム祭の制定>

2021-03-04 | エステル記

「王は王妃エステルに言った。『ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。それをかなえてやろう。』」(エステル記9:12新改訳) 

あれほどハマンを重用したクセルクセス王がエステルの願いを入れ、おどろくべき許可を与えたのだが、そこには歴史を支配される神の御手があった。もうひとつの理由としては、王がハマンの邪悪さをあらためて悟ったことがあげられよう。▼加えて王のいのちを暗殺計画から守ったモルデカイ、同胞のために自分をささげているエステルの純真な姿、そこにもクセルクセスの態度が変わった原因があった。もしハマンが王に重用され続けていれば、彼はやがてペルシア帝国の王位までねらったであろう。彼の野望はそれほどに悪辣(あくらつ)だった。だからクセルクセスは全土で彼の一族が滅ぼされるのを認め、十人の子の死刑も許可したのだ。まもなく再臨したもうキリストもまた、御自身に敵対する者を完全に取り除かれるであろう。◆ところで本章の規定によって、プリム祭は現代もユダヤ人の間に守られている。これは、神を信じる者にとり、真の絶望というものはないとのメッセージであり、だからこそすべての時代に神から送られたものなのである。まして、私たちキリスト者にとっては、なおさら絶望はない。貴方は今、途方にくれておられるか。心配しないでいい、御霊は言われるのだ。「恐れるな、わたしが指し示す天の光景を見つめよ」と。そこには大祭司イエス・キリストがおられ、貴方のために御父にとりなしておられるではないか。そのとりなしを受ける父はどのようなお方か。父は貴方を愛する愛から、かけがえのないひとり子、ご自分のいのちにひとしい愛子を、ためらわずして十字架にそなえものとして差し出されたおかたである。「これほどに貴方を愛されるお方が、イエス様のとりなしを拒まれることがあろうか」、そして「御子とともにすべての必要を貴方に与えないはずがないではないか」と御霊は貴方に語られる。今夜貴方は涙にくれながら夜を過ごすかもしれぬ。しかし全能の父と全能の御子は、明日の朝、貴方が賛美を高らかに歌い叫ぶように、事態を一変させることができるお方である。エステルがそうだったではないか。ペルシア帝国127州に住む全ユダヤ人がそうだったではないか。だから貴方も私も信じよう。心に凛凛(りんりん)とひびく御霊のお声に従って・・・。


朝の露 <押印文書>

2021-03-03 | エステル記

「あなたがたは、ユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができない。」(エステル記8:8新改訳)

ここで印象深いのは、ペルシャ王の名と印章の持つ絶対的権威である。インドからエチオピアまで一二七州におよぶ大帝国、そこに住む民族と部族はすごい数にちがいないが、それがただ一人の王が作った押印文書に服従するのだ。▼パウロもおなじことを言う。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」(エペソ1:13同)と。いわば約束の聖霊は、万物の創造者にして支配者=神の実印であり、キリスト者とは、永遠に神のものとされた証拠としてこの実印を押された存在である。すなわち、地上帝国の王や支配者などが押す正式印など遠く及ばない永遠の価値と権威を与えられた存在、それがキリスト者なのだ。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。」(雅歌8:6,7同)▼いうまでもなく、御子にとっていかなる宝石よりも尊いのは愛する御父である。御父のご自分に向かう愛と喜びはもじどおり御子のいのちであった。ところが主イエスは、十字架でそれを失った。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。唯一最高の宝石を失うことは自分の持てるすべてを失うことである。じつに、その事実が私たちキリストのはなよめの心に押された押印(焼き印)にほかならない。それを刻んでくださった方こそ、第三位の神、御聖霊である。「約束の聖霊によって証印を押されました」とパウロが述べているのはそのことである。▼涙なくして、この事実を受け取ることはできない。雅歌書に歌っているはなよめのように、ゴルゴタの丘で天の父がご自身のすべてを失い、ひとり子がご自身のすべてを失ったしるし、それが押印のように私たちの胸に与えられた。だれが、このすばらしい愛を私たちから奪えようか。

 


朝の露 <涙の懇願>

2021-03-02 | エステル記

「王妃エステルは答えた。『王様。もしも私があなた様のご好意を受けることができ、また王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。』」(エステル記7:3新改訳)

ここでエステルは、宴会を二回も開き、王とハマンを招待した理由を明らかにする。思えばペルシャ帝国全土のユダヤ人たちが悲しんで泣き、断食して祈っている。特に都スサでは三日三晩すべてのユダヤ人がエステルの直訴(それは文字通り、いのちがけの行為であった)のために、断食して祈っていた。それを背後に受けつつ、エステルはクセルクセス王に事の次第を打ち明け、計画の撤回を懇願した。▼驚いたのはハマンであった。目の前にいる美しい王妃、自分を重んじ、特別に招待してくれたと思っていた彼女が、なんとモルデカイと同じユダヤ人だったとは‼。驚天動地、青天の霹靂(へきれき)、いかなる表現でも足りない真相がとつぜん開かれ、死の縄が彼の首にかけられた。神は侮るべきものにあらず。人の蒔くところは刈るところとならん。▼「こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りは収まった」(エステル記7:10同)。この光景の意味するところは深い。エステルから約500年後、エルサレムにおいて時の祭司長、パリサイ人、議員たちは主イエスを十字架にかけ、呪い殺した。ざまあ見ろ、冒瀆者め、といわんばかりに。が、そこにかけられたのは、人が生まれながらにして持っている罪性(原罪、古き人)というのが真相であった。またそれは、悪魔の頭であった。それが人を罪の奴隷にしている張本人だからだ。ユダヤ人指導者たちは、盲目で見えなかったが、自分たちの詛われた本性そのものが神により十字架に釘付けられていることを知らなかった。▼じつに十字架こそ、神が御計画なさった一大逆転劇の実現成就であった。後に、彼らの仲間だったパリサイ人のひとり、パウロがその真相に目が開かれ、ローマ人への手紙を中心に事実を記した。二千年の教会史において、主に選ばれた信仰者たちがそれを読んで真相を把握し、罪から解放され、キリストのはなよめとされつつ現代に至っている。まさにハレルヤである。「私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(Ⅰコリント7,8同)

 


朝の露 <大逆転劇>

2021-03-01 | エステル記

「そこでハマンは王に言った。『王が栄誉を与えたいと思われる人のためには、王が着ておられた王服を持って来て、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来るようにしてください。』」(エステル記6:7,8新改訳)

ここはモルデカイとハマン両者にとり、あっという間に天国と地獄が入れ替わった瞬間を描いている。「劇的」という言葉は本章のためにある、そんな場面だ。▼王はその夜、なぜか眠れず(神がお働きになっていた証拠)、年代記を読ませている中でモルデカイの功績を知った。自分の命を救ってくれた恩人に報いよう、そう思ったところにハマンが入って来た。彼はそのモルデカイの死刑を上奏するためにやって来たのである。神のみわざと御計画、そして時間の設定は、驚きを越えて厳粛さに満ちている。▼悪魔は神の子に茨の冠を被せ、紫の外套を着せた上、葦の棒で頭をたたき、散々にはずかしめた。しかし実は、栄光の冠、永遠の義の衣と支配の杖を捧げていたのである。その真相がやがての日に明らかにされる。▼そもそも、美の極みとして造られた天使は高ぶって神の座をねらい、天から追放され、悪魔になった。そのときから彼の居場所はなくなった。なぜなら神は霊にして天地に満ちておられるお方だからである。彼が棲息できるところはただ一か所、罪人の心である。しかし御子イエスが神の国を宣べ伝え、人々の心から罪が追い出されるときが来ると、御子を殺すしかなくなったので、悪魔はすべてを動員してイエスをねらった。その果てが十字架である。▼十字架につけよ、十字架につけよ、と狂い叫ぶ群衆。もちろんの背後には悪魔がいた。ところが、主イエスは世の罪を負う神のこひつじとしておいでになったから、イエスを屠ることは罪が抹消されることになる。人の心から罪が完全になくなれば、悪魔の居場所は天にも地にも皆無になってしまう。御子イエスを生かしても悪魔の絶命、殺しても悪魔の絶命なのである。このように見れば、十字架はイエス・キリストの敗北に思えるが、実際は真逆で神の御知恵の栄光の顕現以外のなにものでもないことがわかる。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。・・・この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33~36同)▼今や御子の十字架上の死により、世と世の罪は完全に死に至らしめられた。悪魔の「息ができる場所」はなくなり、窒息死が彼を待ち受ける。だから彼は、人が十字架の真相を発見し、罪の力から自由にされないよう、ありとあらゆる手段をつくし、おおいをかけ、見えないようにしている。教会が直面する宣教の戦いとはまさにこれを指している。

 


朝の露 <王国の半分でも>

2021-02-25 | エステル記

「その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。『あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。』」(エステル記5:6新改訳) 

エステルが自分のいのちをかけて玉座に近づいたときの真剣さは、いくら鈍いクセルクセスでも気がついたにちがいない。彼女は心の中で何を考えているのだろう。それで、「あなたは何を願っているのか。何を望んでいるのか」と、しきりに尋ねたのである。▼しかしエステルはまだ時が来ていないことを察知していた。もちろんモルデカイの指示が背後にあったのかもしれない。頃合いを見計らって行動することの大切さ、彼女は賢さと思慮深さを持っていた。「明日すべてを明かしますから、もういちど宴会にお越しください」との返事に、王はますます彼女の心を知りたい、との思いに駆られたであろう。▼そして王はその夜眠れず、記録の書を読みながら朝を迎える。ここからは、およそいかなる人であっても、神の摂理の御手をまざまざと感じざるを得ない場面が展開していく。周知のようにエステル書には神という語が一回も出て来ない。そこで昔から本書を正典として認めるかどうかで議論があった、と聞いている。しかしそれはあやまりである。神という語がまったく出て来ないで事実が淡々と進んで行くことに、かえって摂理を支配する全能の神の存在がこの上ない説得力をもって迫って来るのを、誰しも覚えざるを得ない。ふしぎでみごとな構成というほかはない。これこそ霊感の証拠というべきであろう。「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。話もせず 語りもせず その声も聞こえない。しかし その光芒は全地に そのことばは世界の果てまで届いた。」(詩篇19:1~4同)▼この大自然、天地宇宙、そして世界の歴史が全能者を直接語らないからといって、存在を否定したりぼやかしたりすることほど愚かな行為はない。歴史の最後の日、神の前に立ったとき、「私は聖書を知らず、読んだこともなかった。だからあなたを知らなかったのです」と弁解するのは不可能である。そのことは、使徒パウロもローマ書ではっきり断定している(ローマ書1:20,21)。知らなかったのではなく、知っていながら信ぜず、感謝もせず、あえて罪の道を選び、その欲望にふけっている、というのが万人の心の真相である。一刻も早くそこから引き返し、神の前に跪くことがこの上なく大切である。