「王は王妃エステルに言った。『ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。それをかなえてやろう。』」(エステル記9:12新改訳)
あれほどハマンを重用したクセルクセス王がエステルの願いを入れ、おどろくべき許可を与えたのだが、そこには歴史を支配される神の御手があった。もうひとつの理由としては、王がハマンの邪悪さをあらためて悟ったことがあげられよう。▼加えて王のいのちを暗殺計画から守ったモルデカイ、同胞のために自分をささげているエステルの純真な姿、そこにもクセルクセスの態度が変わった原因があった。もしハマンが王に重用され続けていれば、彼はやがてペルシア帝国の王位までねらったであろう。彼の野望はそれほどに悪辣(あくらつ)だった。だからクセルクセスは全土で彼の一族が滅ぼされるのを認め、十人の子の死刑も許可したのだ。まもなく再臨したもうキリストもまた、御自身に敵対する者を完全に取り除かれるであろう。◆ところで本章の規定によって、プリム祭は現代もユダヤ人の間に守られている。これは、神を信じる者にとり、真の絶望というものはないとのメッセージであり、だからこそすべての時代に神から送られたものなのである。まして、私たちキリスト者にとっては、なおさら絶望はない。貴方は今、途方にくれておられるか。心配しないでいい、御霊は言われるのだ。「恐れるな、わたしが指し示す天の光景を見つめよ」と。そこには大祭司イエス・キリストがおられ、貴方のために御父にとりなしておられるではないか。そのとりなしを受ける父はどのようなお方か。父は貴方を愛する愛から、かけがえのないひとり子、ご自分のいのちにひとしい愛子を、ためらわずして十字架にそなえものとして差し出されたおかたである。「これほどに貴方を愛されるお方が、イエス様のとりなしを拒まれることがあろうか」、そして「御子とともにすべての必要を貴方に与えないはずがないではないか」と御霊は貴方に語られる。今夜貴方は涙にくれながら夜を過ごすかもしれぬ。しかし全能の父と全能の御子は、明日の朝、貴方が賛美を高らかに歌い叫ぶように、事態を一変させることができるお方である。エステルがそうだったではないか。ペルシア帝国127州に住む全ユダヤ人がそうだったではないか。だから貴方も私も信じよう。心に凛凛(りんりん)とひびく御霊のお声に従って・・・。