しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <大きな悲しみと叫び>

2021-02-24 | エステル記

「また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。」(エステル記4:8新改訳)

ひとつの民族を根絶やしにする法令が、何も考えない無思慮の王によって発布される恐ろしさがここに記されるが、同時に帝国内の全ユダヤ人に断食と悲痛な叫び、神への哀願の祈りが巻き起こったことも記される。まことの神を知らないハマンは、ユダヤ民族のため大きな滅びの穴を掘ったつもりでいたが、その実、自分と一族郎党の墓穴を一生けんめい掘っていたにすぎなかった「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石を転がす者は、自分の上にそれを転がす」(箴言26:27同)とあるように。▼この世が、暴君の支配下にあろうと、全体主義であろうと神の前には問題がない。主が立ち上がられるとき、どんな計画も策略も一瞬にして海の藻屑(もくず)になるからである。しかもここで用いられたのは、か弱き一女性であった。神は活きておられる。これから後も、歴史は主の御心どおりに運ばれ、最後の日に至るであろう。◆さてこのとき、緊急事態を変え得る立場にいたのはエステルであった。モルデカイは彼女に言う、「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来た(王妃の位に就いた)のは、もしかすると、このような時のためかもしれない」(エステル記4:14同)と・・・。エステルもひとりの若い女にすぎない。何も言わずに過ごし、自らがユダヤ人であることを秘し、王の寵愛(ちょうあい)を得ることに腐心していれば嵐は過ぎ去り、一生幸福に生きられる、そう考えたとしてもなんらふしぎではなかった。モルデカイはその心理を見透かしたように、彼女に14節の言葉を送ったのであった。◆つまり、ハマンとユダヤ人の戦いは、エステルにとっては自分自身の心との戦いになったのだ。かくて彼女は決意する。「宮廷の規則を破ってでも王の前に出よう。もし寵愛を得られず、死を賜るならそれでもいい。死ななければならないのでしたら、私は死にます」、そしてモルデカイに伝える。「どうぞ私個人のため、スサのユダヤ人すべてが三日間の完全断食をするようにしてください」と。◆人間にとって、最後のたたかいは、自分自身、すなわちわが心とのたたかいであることがわかる。人間はそれがゆえに人間なのである。御使いにはこのたたかいができない。天地宇宙にあるどんな被造物にもできない。人間が神のかたちを持ち、神と愛の交わりができるという理由は、このたたかいができるからだ、といってよい。地に落ちて死ぬことができる麦、それが人の作られた価値にほかならない。それゆえにイエスは仰せられる。だれでも自分のいのちを愛する者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを憎む者はそれを得ることができる、と。◆エステルは歴史上のひな型であり、本当のエステルは、あの夜、暗闇の園でおたたかいになった「ひとりのお方」なのである。

 


朝の露 <ハマンの登用>

2021-02-23 | エステル記

「これらの出来事の後、クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を彼とともにいる首長たちのだれよりも上に置いた。」(エステル記3:1新改訳)

クセルクセスの性格は移り気で思慮浅く、大帝国ペルシャの王にはふさわしくなかった。ハマンを最高位の首長としたのも、興味本位の処遇であったと思われる。ところがそのハマンはアガグ人の出であった。アガグといえばイスラエルに最も激しく敵対したアマレク民族の王であり、サムエルに殺された人物である(Ⅰサムエル15:8同)。おそらくモルデカイはそれを知っていたので、ハマンが高位高官であっても絶対に膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかったのであろう。▼ともあれ、それを聞いたハマンは烈火のごとく怒り、モルデカイどころか、ペルシャ帝国に住む全ユダヤ人を絶滅する計画を立案したのである。無知で愚かなクセルクセスは、だまされているとも知らず、ハマンの計画を承認し、押印した。こうして民族最大の危機が始まった。▼今日なら、王の前で出されたハマンの提案はまず会議にかけられ、十分な審査がされるであろう。そして私的な怨恨による提案だとわかれば否決されるのが落ちである。しかし強力な独裁国家ではそれができない。帝国の全ての権能、権威が王個人に集中していて、その意向が絶対的であれば、いかに無理難題だろうとも実行されるのである。人類史ではこのような王制が数多くの不合理と悲劇を生んだため、民衆や貴族からの反抗により議会制が生まれ、最後に民主主義に至ったわけだ。▼ところが聖書はこの歴史を肯定していないようにみえる。ネブカドネツァルの見た巨像では絶体王制のバビロン帝国が金で、民の力が増したローマ皇帝制は鉄と粘土である。これは何を意味しているのだろうか。じつは来るべき神の国は、イエス・キリストが唯一の王であり、全ての権威と栄光はキリストお一人のものである。神の国は民主主義ではない。御子イエスがすべてのすべてなのだ。だから地上の国家のありようは「朕は国家なり」と言った仏王のごとくあるのが神の国に似ているのである。▼もっとも、その王が罪を持った人間であることが、王制を悪魔的なものにしてしまった原因であることに疑いの余地はない・・・。さらに主イエスを十字架に無理やり追いやったのは、ピラトではなく暴力的「民の声」であった。つまり、王制であれ民主制であれ、人類は心の腐敗性ゆえに闇の支配者に支配操縦され、結局は神に対する反逆に至るしかないことがわかる。完全な国家というものは、キリストが王の王、主の主として再臨し、その座に着かれる時実現する。そしてそれは必ず定められた時がくれば実現するのである。

 

 

 


朝の露 <孤児エステル>

2021-02-22 | エステル記

「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔だちも良かった。モルデカイは、彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。」(エステル記2:7新改訳)

エステルは孤児であったが、いとこであるモルデカイに引き取られ、法律上の娘となっていた。二人の一族は七〇年ほど前、バビロン捕囚で連れて来られた人々に含まれていた。ユダヤ名はハダサだったが、ペルシア名でエステルといった。偶像神の名から来ているともいわれる。現地語の名前を持たなければならなかった背景に、捕囚民つまり奴隷としての悲しみがあったと思われる。その上、ペルシャ王が側室を民の中から捜した時に、エステルは評判の美しさから否応なしに王宮に連れて行かれたのであった。現代から見ると、人権も何もあったものでなく、横暴そのものの王権制度といえよう。だが、神の御手は異邦世界におかれたユダヤ人、しかも貧しい孤児であるひとりの女性の上にも、確実に伸べられていた。▼現代の人権意識からみると、当時の女性の地位はきわめて非人間的に映るが、ユダヤ民族はペルシアにおいて「捕虜奴隷」にすぎなかったことを考慮に入れなければならない。今日の難民キャンプのような状態だったかもしれないのである。そこで育ったエステルが美貌ゆえに王宮に召されたことの是非を、簡単に論じることはできないであろう。重要な事実、それは人の社会制度のすべてを凌駕して、神の栄光が輝くことのすばらしさである。口角泡を飛ばして国家、民族、主義主張を議論するよりも、すべてを支配し、すべてをご自身の御稜威が現れるためにお用いくださる神をほめたたえることが、何にも勝って価値あることではなかろうか。▼聖書は天地宇宙の主なるお方が、社会のもっとも弱き者、価値の低い者、幼子、乳飲み子、孤児、寡婦などを用いて歴史上の大事件や苦難、悲劇、破局と思える事態を解決し、国家の進む道すら変えたことを証ししている。神は強い者、世ですぐれた者、尊い階級の者などを辱しめ、神がすべてであることを示すため、そうされるのだ。エステル記はまさにその典型といえよう。21世紀もこの原則は不変である。すなわち、「神は高ぶる者を防ぎ、へりくだる者に恵みを与え、ご自身の栄光を現わす」という原則である。

 

 


朝の露 <クセルクセス王の宴会>

2021-02-18 | エステル記

「王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、百八十日に及んだ。」(エステル記1:4新改訳) 

エステル記には、神という語が一回も出て来ない。にもかかわらず、この世界には唯一の神が存在し、異邦諸国の支配者から一般人に至るまで、その御手のもとにあって生かされており、悪を行えばかならず報いを受けるという事実が淡々と、しかし力強く語られる。また、今から二千五百年前に栄えた最大の帝国、ペルシャ王宮に生きた人々の姿を伝える文書としても、ひじょうに興味深い。▼本書の主題は捕囚民として異国に生きていたユダヤ人たちが、民族殲滅(せんめつ)の危機に落ちた時、神に選ばれたひとりの若い女性が、みごとに形勢をくつがえし、逆に民族の敵を滅ぼしたという大事件の経緯である。この頃すでに聖地には、帰還した人々によって神殿が再建され、約四十年が過ぎていた。もしユダヤ人を滅ぼせとの命令が帝国全域に出されていれば、エルサレムも危なかったにちがいない。しかし全能の神はエステルによって歴史を守られたのである。◆ところでわが国はキリスト教から見れば「異教の国、日本」である。キリスト者の数はとても少なく、宣教学上からすると未伝道地なのだ。が、そこに生きる私たちにとり、エステル記は勇気を与えてくれる書である。つまり、いかなる偶像と異教の国にあっても、天地の主なる神は厳然と活きて、その国を支配統御しておられる方だという事実の証明、それが本書だからである。極東の島国・日本はそれこそ神々にあふれ、偶像のオンパレードと言ってもいい国、さながらパウロ時代のアテネの町とそっくりだ。しかしキリスト者は縮こまる必要はない。全能の神はたったひとりの女性を用いて、大帝国の運命をまたたくまに変えてしまわれたのである。天の父と救い主イエス・キリストご自身が私たちの後ろ盾になっておられる。だから、同胞が滅びの運命から救い出され、永遠のいのちにあずかるべく神に祈り、愛と宣教のみわざに励みたいものである。

 


朝の露 エルテル記10章 <エステル記と女性>

2016-08-17 | エステル記

白花「後に、アハシュエロス王は、本土と海の島々に苦役を課した。」(エルテル記10:1新改訳)

海の島々とは地中海の諸国を指す。2千年も前からヨーロッパ(日の沈む方)とアジア(日の上る方)がエーゲ海をはさんで互いに戦争を続け、征服したりされたりをくりかえしていたとは興味深い。それも結局は支配者の富と権力に対する欲望から発していたわけで、現代はその延長線上にある。▼さて、無慈悲で移り気な専制君主のアハシュエロス王、その后となったエステルの生涯がどのように終わったかは明らかでない。一説によれば、王は十数年後、暗殺されたといわれる。世界最大の帝国の頂点に座っていた王も、常にいのちをねらわれていたのだから、安閑としていられなかったわけである。いずれにせよ、当時の女性は人権や地位といった観点からすれば、決して幸福とはいえなかった。エステル記を読むと、むしろ非常に低いものであったことが明らかだ。しかしそのような中でも、全能者の栄光は少しも妨げられることなく現されていく。罪ある人が作った社会制度などは、神の働きを止めることができないことを知る。▼女性を大切にし、その人格を真に尊ばれたのはイエス・キリストであった。福音書に出てくる数々の女性たちは、主によって初めて正しく評価され、男性と同じように大切な存在として受け入れられた。つまり人は信仰によってイエスと共に歩むとき、はじめて男女の区別なく神に喜ばれる存在になるのである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6同)とあるように。