しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <パウロの伝道生涯>

2024-08-10 | Ⅱコリント
「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。」(Ⅱコリント11:24~28新改訳)

パウロの伝道生涯は「言語に絶する困難さ」に満ちていたが、ここにその一端(いったん)が述べられている。これを読んだ人は、だれでも思わず息をのむであろう。パウロは誰からも賞賛されず、誰からも評価されず、その上、誰からも謝礼らしい謝礼も受け取らず、進んでこの困難の渦中に生きた人であった。▼いったい何が彼をこのように走らせたのであろうか。それはたった一つ、キリストのご愛であった。パウロにとり、主の愛はただの観念や机上(きじょう)の空論ではなく、生きた現実であった。教会を破壊し、多くの真面目な信仰者たちを苦しめ、死に至らせた彼は、そのままでは万死(ばんし)に値し、まっすぐ永遠のゲヘナに落ちて当然の悪人だった。ところがその彼をキリストは無条件でおゆるしになったのだ。それどころか福音を伝える全権大使として任命し、世界に派遣されたのである。この信頼を思い、彼は狂わんばかりになった。キリストのために自分を焼き尽くさなければ災いだと。「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」(Ⅰコリント9:16同)

朝の露 <私たちの武器>

2024-08-09 | Ⅱコリント
「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞(ようさい)を打ち倒す力があるものです。」(Ⅱコリント10:4新改訳)

ここから13章までは、パウロを批判するコリント教会への弁明で、彼がどんなに誠実、率直(そっちょく)に行動してきたかをありのまま告白した箇所。▼彼は自分を使徒へと召されたキリストのために、忠実な働きを続けた。その生涯は自分を飾(かざ)らず、人に何を言われようと意に介(かい)さず、ただ聖霊の力によって福音を宣べ伝えて来たのであり、生まれつき持っている「肉の力」などに頼って来たのではない。大体、私が宣教の武器としているのは神から与えられた天来の力であり、要塞すら打ち倒す力を持っている。コリント教会の皆さん、そのことを理解してほしい・・・パウロはそう主張してやまない。▼それから二千年、使徒が伝えた福音はローマ帝国を倒し、続いてヨーロッパからアジア、アフリカ、全米に広がり、まもなく世界に満ちようとしている。要塞どころか全世界が一人の信仰者に打ち倒されようとしているこの歴史の現実を見よ。コリントの信者たちがあなどったひとりの老使徒が、キリストにより世界を制覇(せいは)しつつある。イエス・キリストが天からふたたびおいでになるとき、世界はパウロの言っていたことが正しかったことを知るであろう。▼「主が立ち上がり、地をおびやかすとき、人々は主の恐るべき御顔を、その威光(いこう)のかがやきを避けて、岩のほら穴や土の穴に入る。その日、人は、自分が拝むために造った銀のいつわりの神々と金のいつわりの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。主が立ち上がり、地をおびやかすとき、人々は、主の恐るべき御顔を、その威光(いこう)のかがやきを避けて、岩の割れ目や、巌(いわお)の裂け目に入る。」(イザヤ2:19~21同)

朝の露 <聖絶>

2024-08-08 | 申命記
「あなたは、あなたの神、主があなたに与えるあらゆる民を滅ぼし尽くす。彼らにあわれみをかけてはならない。また彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへの罠となるからだ。」(申命記7:16新改訳)

モーセの命令は、カナン原住民とその偶像をすべてほろぼせというきびしいものであった。そうしなければ、彼らの宗教と生き方に染まってしまい、イスラエル民族自体が神の怒りによってほろぼされるからである。▼この命令は新約時代の今、信仰的、霊的に次のように読みかえることができる。「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父への愛はありません。」(Ⅰヨハネ2:15同)▼今は世界全体がカナンの宗教と文明に染まっているようなもので、それに浸(ひた)って生きていくと、私たちの一生は滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にされてしまう。神の国に入るどころか、永遠の滅びに落ちるしかなくなる。だからキリスト者は罪深い生活を心から憎み、キリストと共に生きるきよい人生を追い求めなければならないのである。▼「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とワナと、また人をほろびと破滅(はめつ)に沈める、おろかで有害な多くの欲望におちいります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦難で自分を刺しつらぬきました。しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。」(Ⅰテモテ7~11同)

朝の露 <三大祭り>

2024-08-07 | 申命記
「あなたの神、主のために、主が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。」(申命記16:15新改訳)

本章はユダヤ三大祭り、過ぎ越し、七週の祭り、仮庵(かりいお)の祭りの規定を記している。ふしぎにも、主イエスは過ぎ越しの祭りのとき十字架で屠(ほふ)られ、七週の祭りのとき御聖霊が降臨、エルサレム教会が作られた。つまりすべての祭りの本体はイエス・キリストにあるといってよい。では仮庵の祭りとは何を表すのか。これは来たるべき神の国において、あがなわれた信仰者たちがイエス・キリストを中心に開く天の祝宴をあらわすのではなかろうか。▼主は一粒の麦として地にまかれ、よみがえって多くの麦が地に芽を出した。それがこの二千年世界中に広がり、実を結び続けている。その大収穫(だいしゅうかく)のときこそ、再臨と神の国出現である。新しい御国に入ることになった膨大(ぼうだい)な人々が天の祝宴(しゅくえん)に集(つど)う時、それは天地万物が喜びでゆれ動き、賛美と感謝が満ちるときとなろう。▼教会は主のはなよめとして、この宴の中心におかれるのだ。ハレルヤ

朝の露 <貧しい人が>

2024-08-06 | 申命記
「貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。『あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。』」(申命記15:11新改訳)

イエスを救い主と仰ぐ信仰者たちは、やがて再臨のとき、それぞれが神の前に進み出る。そのとき主はひとりひとりにおたずねになるであろう。あなたのそばに、わたしが置いた貧しい人に対し、あなたはどのような愛を現したか?と。もしその時、「いえ、私は少しも気づきませんでした」と答えるなら、主はすべての記録映像を天使たちの見ている中、公開されるであろう。▼門前に映(うつ)し出された病者ラザロ、宴会(えんかい)のただなかにいる金持ち、そして衰弱死(すいじゃくし)していくラザロの様子(ルカ16章)、私がその金持ちであったら、もはや言い訳はできない。このような光景はほんとうに起こり得ると思う。だから私たちは小さな善を行うことに飽(あ)いてはならない。小事(しょうじ)に忠実でなければ、だれがその人に天の財産を任(まか)せるであろう、と主は仰(おお)せられたのだから。