しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主の血により>

2024-09-14 | エペソ書
「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」(エペソ2:13新改訳)

ゴルゴタでキリストから流れ出た血潮は、十字架から滴(したた)り落ち、大地を赤く染めた。それが永遠から永遠にいたる人類の罪はもちろん、全宇宙と万物をゆるしきよめ、のろいから解放するものであることを、誰が悟っていただろうか。▼私たちはイスラエルから遠く離れた日本に生まれ、神の存在も知らず、先祖から伝わった偶像を拝み続け、暗黒の中に生き、そのままほろんでいくあわれな民であった。それが、今や十字架の血潮を信じることによって、神の愛子とされ、永遠の嗣業(しぎょう)を受けつぐ者とされたのである。なんという恵みであろうか。▼まもなく天上で開かれる大礼拝、ほふられた子羊は御父から巻物を受け取り、永遠の救いのご計画が幕を切って落とされる。そこで私たちは力のかぎり賛美することになろう。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」(黙示録5:13同)▼そのときが一日も早く到来しますように!

①けがれをきよむる血の泉は その深さ、広さ計りがたし
②罪の性質は全く死にて あらたなるものと造られたり
③罪の世に勝ちて、きよく歩む この身はときわに主のものなり
④主を知りまつりし、この喜び さながら御国にある心地す
    おお ほめよ、たたえよ 十字架の血潮は
    すべての罪より 我をさえ きよむ
                                                              <インマヌエル讃美歌316 詞:P.P.Knapp>

朝の露 <天地創造の前から>

2024-09-13 | エペソ書
「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:5新改訳)

私たちがキリストの救いにあずかったのは、たんなる偶然(ぐうぜん)や一時的な思いつきでなく、世界が創造されるはるか以前から神の愛によるご計画に盛(も)られていたことだ、と使徒パウロは断言する。▼救われる以前、私は自分の生きていることにどれほどの意味があるのか、すべては偶然(ぐうぜん)の産物ではないかと、しらけ切った人生観をもっていた。そこから希望に満ちた生き方など生まれるはずもなく、肉欲の充足(じゅうそく)だけを求める自堕落(じだらく)な毎日が続いたのは当然だったといえよう。▼ところがキリストによる救いにあずかってみると、永遠の昔から神のご計画のうちに予定されていたのが自分の生涯なのだとわかり、あふれる喜びと感謝に、生き方が一変してしまった。永遠の神は、やがて来る神の国に、私を愛する子として迎えようとしておられる、そのためにすべてのことが相働(あいはたら)いて益となるよう導いておられるのだ。このように思うと、あまりの幸せに言葉が出ないほどである。

①罪に満てる世界 そこに住む世人に 命得よと イエスは血潮流しませり
②罪は海のごとく わが心おおえど 神はさらに強き 恵みもて救えり
③誰ぞ我の罪を ことごとく洗うは 見よ血潮は汝を 雪よりも白くせん
④妙に奇しき愛を 限りなき恵みを 今ぞ誰も受けよ ためらわずそのまま
 ああ恵み! 計り知れぬ恵み ああ恵み! 我にさえおよべり
                                                 <新聖歌343 詞:Julia H.Johnston,1849-1919>   

朝の露 <ヨルダン川徒渉>

2024-09-12 | ヨシュア記
「川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰(せき)が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。」(ヨシュア記3:16新改訳)

今日でも一つの川をせき止めようとしたら、巨大なダムを作らねばならない。多くの人々と膨大(ぼうだい)な資材、何か月もの工事期間が必要である。▼しかしヨシュアが神の命に従い、契約の箱が祭司に担(かつ)がれてヨルダン川に入ると、川の水ははるか上流で「立ち上がり」、エリコに面した所で干上(ひあ)がってしまった。そこで、数百万のイスラエル人は「やすやすと」川を渡ることができたのであった。▼たぶんこのとき、カナン原住民の多くは、遠くから近くから、イスラエルのヨルダン渡渉(としょう)を見ていたにちがいない。そして腰をぬかすほどおどろいたであろう。この全能の神が今も世界を支配しておられる。特に教会の頭(かしら)として私たちと共におられるのだ。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ一23) ハレルヤ

①恐れなく近寄れと、主は語りたもう 信仰の手のばしつつ 近づきまつらん
②この身をば奉仕へと、今献げれば 君が旨ひとすじに なさしめたまえ
③み前にて過ごし得る、わが喜びよ へだて無き友のごと 扱いたもう
④み恵みの深きこと、ついに悟り得ん この世にて喜びを 極め得ずとも
     いよいよ汝がそばに われを引き寄せ
     いよいよ主よ、汝が愛の 広さ知らせよ
                                               <新聖歌341 詞:Fanny J.Crosby, 1820-1915> 

朝の露 <赤いひも>

2024-09-11 | ヨシュア記
「あなたの家の戸口から外に出る者がいれば、その人の血はその人自身の頭上に降りかかり、私たちに罪はありません。しかし、あなたと一緒に家の中にいる者のだれにでも手が下されたなら、その人の血は私たちの頭上に降りかかります。」(ヨシュア記2:19新改訳)

いよいよ、エリコの町がイスラエルに攻められ、ほろぼされるときが来た。城壁に住むラハブ一家が滅びないですむたった一つの条件は、窓に赤いひもを結びつけておくことだった。そのひもは二人の偵察員(ていさついん)が渡したものであったが、すでにあきらかなように、これはキリストが十字架に流された血潮を表わす。▼来たるべき世の終わり、すさまじい患難(かんなん)時代から救われる道はイエス・キリストの十字架のあがないによる道だ。出エジプトのとき、全イスラエルが家の戸口に子羊の血を塗(ぬ)って助かったように、大患難の火から救い出されるためには、十字架の血潮を信じ受け入れることが絶対の条件である。ラハブたち一族は「赤いひもを結んだ家」から出なかったが、私たちも全生涯を通してキリストのあがないから離れず、外に出ないようにしたい。▼「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(ヨハネ15:5、6同)

朝の露 <神がともにおられる>

2024-09-10 | ヨシュア記
「私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」(ヨシュア記1:17新改訳)

いよいよカナン突入の時が来た。モーセは死んで全権がヨシュアに与えられた。勇者とはいえ、さすがに彼は心細さをおぼえたであろう。そのためか本章には「強くあれ。雄々しくあれ」という意味の激励が何度も出て来る(6、7、9、18)。神御自身がヨシュアを励ましただけでなく、ルベン、ガド、マナセといった部族からなる兵士たちもヨシュアを勇気づけた。このときほどイスラエル民族が、その士気において一丸となったときはなかったと思われる。▼神はイスラエルに強さの秘密を教えられた。それは「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。・・・そのとき、あなたは自分がすることで繫栄し、そのとき、あなたは栄えるからである」(8同)であった。▼キリスト者にとり、「みおしえの書」とは神のことばなるキリスト御自身のこと。じつに教会の力といのちの源泉は主イエスであることを深くおぼえなければならない。