しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <勝利は主による>

2024-07-15 | 申命記
「私たちの神、主は彼らを私たちの手に渡された。私たちは彼とその子たちとそのすべての兵を討った。」(申命記2:33新改訳)

ヨルダン川を渡る前、占領戦(せんりょうせん)はすでに始まった。しかしただ無目的(むもくてき)にたたかったのではなく、神が占領(せんりょう)すべき地を定め、それに従ってモーセたちは戦闘(せんとう)を開始したのである。具体的にはアモリ人の土地だけを征服することがゆるされ、エドム人、モアブ人、アンモン人の土地をうばうことは禁じられた。それは彼らがイスラエルと親戚(しんせき)関係にあったからだ。▼もうひとつ大切なのは、モーセが戦いに勝った原因を自分たちの強さに帰(き)していないことである。「主は彼らを私たちの手に渡された」と、どこまでも主のおかげで勝ったと記している。これがたいせつなのだ。▼異邦帝国の戦勝碑文(せんしょうひぶん)が発掘(はっくつ)されるが、そこには王の偉大さについての賛辞(さんじ)が記され、全能の神への賛辞はない。偶像や王をほめたたえてもすべてはむなしいことを過去の歴史は物語る。私たちも人を賛美してはならない。どこまでもすべての栄光を主に帰すべきである。

聖日の朝に <将軍ナアマン>

2024-07-14 | みことば静想
「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(Ⅱ列王5:14新改訳)

アラムの将軍ナアマンがツァラァトを癒された記事は、何度読んでも感動的である。彼はイスラエル人の少女から預言者エリシャのことを聞き、病気を治してもらいたいと、多額の贈り物を携えて訪問した(9)。しかしそっけないエリシャの応対に激怒し、そのまま帰途についたのだった。▼そのとき、一行の中にいた忠義な部下たちの勧めもあったので、思いなおし、ヨルダン川に七回身を浸したところ、ツァラァトはみるみる消え、幼子のからだのようにきれいになったではないか。それを眺めていた家来たちは腰をぬかすほど驚いたにちがいない。▼このできごとは、謙遜になり、神のことばに従うことがいかに大切かを私たちに教える。そもそもナアマンは礼儀正しい人物で無礼な仕打ちを好まなかった。ある意味、それは当然であった。だが人間的な礼節や儀礼は、時として傲慢(ごうまん)の隠れ蓑(かくれみの)になり、神に対する信仰と従順を妨害する。特に立派な人物といわれる人ほどその傾向は顕著である。▼ナアマンは将軍としての肩書をはずし、しもべたちの勧めに従い、衆人環視の中、ツァラァトに冒されたからだをさらし、ヨルダン川に沈んだ。この態度をとれたのは、当時の社会にいた何万もの患者のうち、ナアマン一人だったのである。▼「まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラァトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」(ルカ4:25~27同)

朝の露 <御霊に仕える務め>

2024-07-13 | Ⅱコリント
「石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。」(Ⅱコリント3:7,8新改訳)

モーセがシナイ山から下りて来た時、その顔が光り輝いていたため、人々は怖くて近づけなかった。四十日間にわたり、神と交わっていたため、その栄光がモーセを包んでいたのであろう。▼しかしパウロは言う。だからと言って、モーセは死なない存在になったのではなく、イスラエルの人々も罪から自由にされたのではない。それどころか、出エジプトした民は罪と反逆のため、荒野で死に絶え、モーセも約束の地を目前にして死んだのだ、と。すなわち、モーセの顔がどんなに光り輝き、人々が近づけないほど神々しかったとしても、復活世界とは関係なく、「死に仕える務め」の領域内にあったものだ、とパウロは言うのである。▼十字架にかかったナザレのイエスは、これとはちがい、復活し、死とよみを打ち破り、やがて栄光のうちに再臨したもう。その栄光は旧約のそれとは比較にならない。こうしてパウロは叫ぶ、イスラエルの人々よ、旧約の限界から解放されよ、と。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25,26同)



朝の露 <赦すということ>

2024-07-12 | Ⅱコリント
「あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。」(Ⅱコリント2:10新改訳)

キリスト者がだれかを赦(ゆる)すということは、ひじょうに大きな意味を持っている。パウロは期せずしてその意義をここに記した。つまり私たちが「あなたを赦します」と誰かに言う時、それはイエス・キリストが「あなたの罪は赦された」と宣言しているのと同じ重さを持つということだ。▼主は弟子たちに言われた。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」(マタイ18:18同)と。だから、教会とキリスト者が地上で与えられているゆるしの権威は、じつにおごそか、かつ尊ぶべきものであることをおぼえなければならない。かつてその権威を持つのは法皇であり、一部の聖職階級であると考えられたことがあった。その結果、宗教の暗黒時代が到来して人々を苦しめたが、そうではなく、愛とゆるしの権威は私たちの内にいますご聖霊がお持ちなのである。▼「すると見よ、人々が中風(ちゅうぶ)の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた。すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で『この人は神を冒涜(ぼうとく)している』と言った。イエスは彼らの思いを知って言われた。『なぜ心の中で悪いことを考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために――。』そう言って、それから中風の人に『起きて寝床を担(かつ)ぎ、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。」(マタイ9:2~7同)

朝の露 <主が戦われる>

2024-07-11 | 申命記
「あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。」(申命記1:30新改訳)

申命記は出エジプトから四十年目、モーセが神のみこころを改めてイスラエル人に語った貴重な書である。当時、第一世代の人々(二〇歳以上)は死に、それ以後に生まれた人もふくめた第二世代になっており、彼らに民族の歴史を教える必要もあったからだ。▼主イエスは荒野で四十日間断食し、弱さの極のなかで悪魔の執拗(しつよう)な誘惑をお受けになった。周知のとおり、三回とも神のことばを用いて悪魔を撃退されたのだが、そこで用いられたことばはすべて申命記に記されたものであった。これは注釈家(ちゅうしゃくか)が「イエスは申命記を愛読しておられた」というようなものでなく、申命記が主イエスの心そのものであったからである。そこで私たちも本書を、「あたかもキリストの語りかけを今ここで聞いているように」読むべきである。そうすれば天からのパンにより、霊魂が満ち足りる経験をするであろう。▼「主があなたがたのために戦われる」は、クリスチャン生涯の柱であり、結論である。かつてアラムの大軍勢がエリシャのいた町ドタンを包囲したときがあった。早朝、召使いが起きてみると、見渡す限りアラム軍ではないか。彼は驚愕してエリシャに告げたが、彼は少しも驚かず、「主よ、この若者の目を開き給え」と祈った。すると召使いの目に突然見えたのは、火の戦車と火の馬がドタンを取り巻いている光景であった。▼不信仰と恐怖は天の光景を見えなくしてしまう。私たちもみことばの約束を忘れ、目の前の有様にとらわれるなら、霊的盲目になることをおぼえるべきである。