笑顔の江川

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無事手術が終わり退院しましたーブログ復活します

2019-02-23 07:45:46 | 日記
無事手術も終わり昨日退院しました。皆様からお見舞いの温かいメッセージを頂き深く感謝申し上げます。
今回の手術は局部麻酔だったので意識のある中手術が進み、何やら執刀医の会話も聞こえ1時間くらいで手術は終わりましたが時間は長く感じました。全身麻酔のほうが気が付いた時には終わっているので手術の違いを感じました。手術室とは大きな部屋で機械がいっぱいあり執刀医をはじめたくさんの医療従事者が真ん中の自分がいる手術台を囲むので意識があるとないとでは大違いです。
入院中感じることは、病院の中でも医療従事者の勤務体制の厳しさを感じます。夜勤の看護師は少ないのにかかわらずのナースコールはよく鳴っているし、交代した看護師も手術の時間で残業は強いられるし、医師は朝早くから病棟の回診をして外来の診察から手術をこなして夕方もまた病棟の回診と医療従事者の労働環境の厳しさをあらためて感じました。
自分の方は入院中、勝海舟の本など読みながら人の生き方死に方を考える日々でした。
がん哲学外来の提唱者で順天堂大学医学部教授の樋野興夫先生は「病気になっても病人にならない」とおっしゃられます。病気になってもその人その人の気持ちの持ちようで人生は変わってくるものと日々感じております。ブログも活動も復活します。今後ともよろしくお願いいたします。
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入院して手術するため今週ブログをお休みします

2019-02-18 19:07:15 | 日記
今週水曜日より病院に入院して手術するため今週末までブログをお休みします。週末には退院予定で退院後再開します。いつもブログを読んでいただきありがとうございます。いろいろお声をいただき良い気づきとなっております。入院して治療をしながら医療や歴史の本などを読んできたいと思います。また日々の活動を通しての新たな気づきを書いていきます。今後ともよろしくお願いいたします。
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勝海舟の親爺・勝小吉の悔悟

2019-02-17 20:39:34 | 日記
「男たるものは決しておれが真似をばしないがいい」(勝小吉「夢酔独言」より)
42になって今までに一生を無法の馬鹿なことをして過ごしたと悔悟して書いた勝海舟の親爺・勝小吉の「夢酔独言」。読んでいくと面白い数々ですが、人間多かれ少なかれ過ちはおかしているものです。勝小吉のように悔悟することが人間らしくなるということでしょう。これに気づかなければ人間らしくないということでしょう。勝小吉に親近感を感じる今日この頃です。
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近代医学の発祥の地・佐倉順天堂を訪ねる

2019-02-16 19:12:25 | 日記
今日は千葉県佐倉市にある佐倉順天堂記念館を訪ねました。幕末から明治にかけて近代医学の発展は西の緒方洪庵、東の佐藤泰然といわれるように東の佐藤泰然は佐倉順天堂を設立して多くの医者を輩出しました。しかしその道のりは険しいものでした。江戸や長崎で蘭学を修得して江戸日本橋で蘭医学塾を開きますが、渡辺崋山や高野長英らの蘭学者が「蛮社の獄」で幕府に捕らえられ佐藤泰然にも目が向けられます。佐藤泰然は蘭癖で知られる老中堀田正睦の佐倉藩を頼り千葉の佐倉に移住します。そこで佐倉順天堂を開きそこから多くの医学生を育て養子に入った佐藤尚中は湯島に現在の順天堂大学の前身を設立します。佐倉順天堂記念館の中に入るとその歴史の重みを感じることが出来ます。あらためて近代医学の流れを学ぶことが出来ました。
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勝海舟・徳川慶喜・渋沢栄一の三角関係

2019-02-15 20:06:48 | 日記
幕末というと坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎と言った人物の名前がよく出てきますが、なんやかんや言っても幕末から明治維新への激動の時期は徳川慶喜を中心に動きもしこの人がいなかったら明治維新ももっと後になっていたかもしれません。その徳川慶喜と最も深い関係を持ったのが勝海舟であり渋沢栄一でした。徳川慶喜と勝海舟の関係と徳川慶喜と渋沢栄一との関係はまた違って複雑でした。勝海舟はもともと旗本御家人の幕臣ですから徳川将軍家を相続した慶喜は主従関係になりますが、その地位の格差は会う機会など無い大変低いものでしたが、この低かった勝海舟を慶喜は自分の都合の良いように使い、最後は幕府の後始末という幕府最高責任者として採用します。一方の渋沢栄一は武士ではなく農家の出でありながら尊王攘夷運動に関わり幕府の追手をかわし京に入ると慶喜の部下との出会いから一橋家に奉公して慶喜が将軍になると幕臣となりました。慶喜に救われた渋沢栄一はその才能をかわれパリ万博に派遣され西欧文明を自ら体験して帰国し慶喜のいる静岡で徳川家を救い明治政府に一時出仕するも野に下って実業家として多くの企業を創業します。渋沢栄一の勝海舟の評価はありまりよくありません。勝海舟も渋沢栄一と徳川慶喜と最も深い関係となり幕臣としての地位が亡くなった明治においても二人とも晩年まで徳川慶喜の事を想い、勝海舟は賊の将軍であった徳川慶喜を明治天皇謁見の労を取り慶喜はそのお礼として息子を勝家に養子にやります。渋沢栄一も徳川家との関係を大切にして晩年に徳川慶喜公伝を記します。この複雑な三角関係の当事者である勝海舟・徳川慶喜・渋沢栄一こそ明治維新の生んだのだと言えるかもしれません。
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