コタツ評論

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ホットファズ

2009-01-15 17:56:07 | レンタルDVD映画
http://hotfuzz.gyao.jp/

「ハプニング」の口直しにぴったりの傑作!
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映画の終わりの始まり

2009-01-14 22:52:38 | ノンジャンル
よせばいいのに、「ビレッジ」で懲りたはずなのに、また騙されてやがんの。ナント・シマラン監督の「ハプニング~!」のことだ。
http://movies.foxjapan.com/happening/

しかし、不思議な監督だよな。絵はグ~! 演出もグ~! 俳優もグ~!なのだが、ネタはエド・はるみに劣るとも優らないショボさ。企画の段階でどうして潰れなかったのか、それがいちばんの謎、という相変わらずのシマラン映画だった。こういう企画がメジャーな映画会社に通り、配給公開されるということで、どうしてアメリカ人が京都議定書を無視し続けるのか、自然との共生なんてことが理解の外なのか、ハリウッド俳優がパーティ会場にプリウスを乗りつけることが環境問題への真摯な取り組みなのか、よ~くわかるのが最大の収穫といえる。観終わった後、オリガ・モリソブナではないが、「雌豚に乗っかって考えている去勢豚」になった気分が味わえる何重にもショッキング~! な映画である。もろちんお勧め、進め進めパルメザンチーズ! もう映画観るのやめるべきかな。
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オリガ・モリソヴナの反語法 2

2009-01-14 01:27:38 | ノンジャンル
2/3まで読み進んだ。何というか。スターリズムの残虐が凄まじくほとんど呆気にとられている。「人民の人民による人民のための政治」という言葉があるが、これは「女性の女性による女性のための小説」である。「人民の~」には捨象されている内心があり、ドグマ(教条)がある。この小説の「女性の~」には、溢れんばかりの内心があり、ドグマはない。それはそうだ。スターリズムという圧倒的な暴力のドグマに女たちは包囲されている。教条や教義にとらわれない内心とは、内心の自由とはどんなものか、この作品を読んではじめてかいま見た気がする。

20年近く前、俺はモスクワを訪れ、KGB本部前で記念撮影をした。俺たちがプロレスやボクシングの話題に興じていたとき、「私は暴力の話を聞きたくない」と席を立った、小男のユダヤ系ロシア人の通訳氏を少し軽侮した。オリガたちと同じように、モスクワからブレスト経由でポーランドへパリへ抜ける列車に乗り、貧しい「ソ連人」たちやポーランド人たちをただ貧しいとだけ感想した。かなり、恥ずかしくなった。

思えば俺が見かけた人たちのほとんどはスターリズムによって、欠けがえのない肉親や友人を失い、傷ついた人たちであったかもしれない。俺はただただ脳天気なバカ者であった。

「他人の掌中のチンポコはでかく見える」
「雌豚に乗ってから考えている去勢豚」

オリガ・モリソヴナの反語法の由来が解き明かされるにつれ、祖母や母や妻や恋人や姉妹や娘たちの血の涙について思い知らされる。あらゆる情け、いたわりと思いやりについて考えさせられる。自分にそれがあるか、自分以外に用いてきたかについて思う。いや、ことさら女性性を平和の象徴と持ち上げるようなところはない。いわゆるフェミニズムの臭いはない。

それより少女マンガ風である。この人には知的コンプレックスはない。「ロシア文学の森」に親しんだであろうに、文学コンプレックスもない。知性や理性によって、そうしたドグマを克服してきた形跡は見えない。しかし、圧倒的な何かが、読み進めさせる力がある。これは何だろうかと思う。ただ、きわめて強靱で健全な精神がある、それはわかる。

俺はかつてのソ連が日本の新聞や雑誌、TVや映画にソ連のソの字でもあれば洩れなく調査していたことを知っている。著者やコメンテーターとその背景についても調べ、長年に渡って記録していた。そのソ連が崩壊した後も、KGBを筆頭とする諜報部門や暗躍機関は姿を変えて生き残り、現在でも少なからぬ影響力を保持していることを聞いている。

米原万里は殺されたのではないか? ふとそんなことを思ったくらい、痛烈なスターリニズム批判の小説である。非政治的な大衆小説なだけに、読者は観念遊びに逃げ込むことが許されず、わしづかみにされたように心を揺さぶられる。少なくとも、ソ連崩壊以前にこんな小説を書けば、反ソ的な扇情小説として、絶対にただではすまない。

暗殺説はうがちすぎだとしても、ロシア語通訳者として、ロシアのおかげで生計を立てていた身でよくぞここまで書けたものだと思う。もうすぐ読み終えるのが残念だ。(続く)

(敬称略)

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オリガ・モリソヴナの反語法1

2009-01-09 01:30:57 | 新刊本
『ロシア 闇と魂の国家』で佐藤優と亀山郁夫が絶賛していたので探していたら、文庫に入っていました。小説とは意外でした。言葉についての論文やかための紀行文を念頭にしていました。例によって、裏表紙の要約は以下の通り。

引用はじめ

1960年、チェコのプラハ・ソビエト学校に入った志摩は、舞踊教師オリガ・モリソヴナに魅了された。老女だが、踊りは天才的。彼女が濁声で「美の極致!」と叫んだら、それは強烈な罵倒。だが、その行動には謎も多かった。あれから、30数年、翻訳者となった志摩はモスクワに赴きオリガの半生を辿る。過酷なスターリン時代を、伝説の踊り子はどう生き抜いたか、感動の長編小説、待望の文庫化。

引用終わり

志摩=万里。自伝的な作品である。志摩はオリガ・モリソヴナによって踊りに眼を開かせられ、日本に帰国してからダンサーをめざすが挫折して、翻訳者になる。なるほど、TVにコメンテーターとして出演していた米原万里さんは、アイシャドウの濃さが目立つ女性でした。外国暮らしが長い日本女性の例に漏れないなと思っていましたが、ダンサー志望に納得。そう、あれは舞台メイクに近い。まだ、1/3しか読んでいないが、自伝的な作品といい切れるのは、たとえば以下のような箇所があるからだ。

引用はじめ

亜紀バレエ団で、藻刈富代が凡庸な才能とバレエには全く不向きな股関節の持ち主にも拘わらずプリンシパルの座を射止めたのは、藻刈の父親が団長の亜紀雅美に都内一等地のリハーサルスタジオをプレゼントした見返りだというのは、すでに日本のバレエ界の常識になっていた。団を維持するための必要悪として団員たちも諦めている。(148頁)

引用終わり

ほとんど実名に近い。ダンスの専門家か、プロのダンサーを志した者以外にはこうは書けないし、書いちゃいけません。ボリショイバレエ団で明らかに才能と技術に劣る日本のバレエダンサーが「金の力」で主役に近い役柄を獲得し、「ブラボー屋」を動員し、喝采を浴びて踊る姿を「同胞として恥ずかしい」と歯噛みする場面描写で、ダメ押しのように出てくるエピソードです。こんな暴露をしては、日本の文芸業界ではうまくありません。ついでに、中村紘子のピアノがどれほど「凡庸」かも書いてくれたら嬉しかったが。

まだ、佐藤優たちが絶賛するほどの小説とは思えない。軽躁気味に流れるところがあるし、「どハンサム」など、受け入れがたい表現もある。ただ、『赤毛のアン』のように、光り輝く少女時代とその友情の交歓には心弾みます。チェコのプラハ・ソビエト学校に集った少年少女たちの背景や個性についてもっと知りたくなりました。また、ガガーリンが初の宇宙飛行に成功し、キューバ危機によって核戦争への恐怖をつのらせた1960年代の時代性についても、もっと書き込んでよかったと思えます。ただそうなると、大長編になってしまうから、分際を知り、営業上の視点から、編集者が許さなかったかもしれません。

クラスメイトの父親が自殺するような、ソ連とその衛星国の恐怖政治の下でも、生徒それぞれの個性を伸ばす教育に奮闘する見識豊かな教師たちがいたのに対して、帰国した志摩はプラハやモスクワよりはるかに政治的な自由がある東京で、個性を圧殺する教師やそれに何の疑問も感じない級友に囲まれて絶望する記述があります。

これが欧米やソ連などの野心ある編集者なら、存分に書き込んだ大長編を許したかもしれません。後で書き直しや削除箇所を指定したとしても。初恋のレオニードの青い瞳の冷たさについて、恋のライバルであるジーナの肢体の美について、カーチャの聡明さについて、シーマチカ(志摩)が何を感じ考えたのか、そうした所感小説の魅力にもっと触れていたい気にさせます。

あるいは、日本共産党幹部でありチェコに赴任した父を中心にした志摩の家庭とその党生活を描けば、国際コミンテルンの理想とスターリニズムの影とが日常というユニークな家庭小説でもあり得たわけです。たった4年間の海外生活に過ぎないのに、それほどに米原さんの感受性を刺激したのは何だったのか、読み進むのが楽しく惜しい。この先に、なぜそんなに筆を急ぐのか、その答えが用意されていればいいのですが。(続く)


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映画監督カツシン

2009-01-07 02:31:07 | レンタルDVD映画
CATVで放映されていた『座頭市』を観てしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%A0%AD%E5%B8%82

1989年の勝新太郎監督作品である。息子の奥村雄大が真剣で死体役の俳優を刺し殺してしまう事故でケチがついた。「役者バカ」の勝新が凝りに凝った映画づくりをするために起きたような報じかたをしたメディアもあったと記憶する。

「影武者」の撮影現場で「世界のクロサワ」と衝突して武田信玄(と影武者)役を降りて以来、勝新の映画や芸能に関する持論は正当には評価されず、映画を芸術と持ち上げるインテリたちからは失笑されている向きがあった。

この作品への見方も、インテリがすべき映画監督を高校もろくに出ていない役者風情がという侮りと、製作と監督を兼ねているのをよいことに、俳優としてのキャリアもろくにない息子を抜擢した親バカが招いた不祥事というものが大半だった。

ところが、勝新太郎監督『座頭市』がなかなかいいのである。バラエティ豊かな絵づくりは文句なしに楽しめ、構図や流れが見事に決まっているのだ。場面場面の完成度は非常に高く、アクションシーンはすばらしい出来である。そして、奥村雄大がいい。

勝新より叔父の若山富三郎に似ているが、俳優ではなく「役者」の、それも時代劇の役者の顔をしている。声も凄みがある。歌舞伎俳優と同じ、伝統が造った顔と声だ。「ブラックレイン」で松田優作が演じた役柄と同じだが、金しか信じない冷酷な若者像を表現して優るとも劣らない。事故で消えてしまったのは、惜しい。

俳優が監督すると、映画としては失敗しても俳優陣が生き生きしている作品になる場合が少なくないが、この映画でも女親分を演じた樋口可南子にびっくり。あの扁平顔と凹凸なき肢体を艶やかに撮っているのだ。樋口可南子の代表作だろう。

もちろん、「映画芸術」ではない。つじつまは合わない。ご都合主義が多々ある。でも楽しい。この反対に、最後まで観ると理屈とつじつまには納得するが場面場面はちっとも楽しくない映画がある。それなら映画でなくとも小説やTVやゲームやマンガで、ちっともかまわなかったというような作品がある。

それらに比べて、勝新の優れた「芸能映画」が貶められるいわれはまったくない。少なくとも、山田洋次より勝新のほうが映画監督としては上等である。映画評論家や映画通の通念とは逆に。それが証拠に、勝新太郎とは分野は違えど比肩する大物役者だった渥美清の演技は、「男はつらいよ」を重ねるごとに楽しい輝きを失っているではないか。

山田洋次監督は、理屈やつじつま合わせを優先させて、場面や役者をストーリーに奉仕させるからだ。たとえば、渥美清が『座頭市』に客演して、滑稽ながら非道なヤクザの親分、あるいは凄腕ながら助平な渡世人、醜女な妻と子沢山を抱えた元師範代の浪人を演じて、勝新との対決を想像してご覧なさい。もうワクワクするほど楽しいではないか。

あるいは、まったく無力な道化や白痴として、つまり寅さんのまま座頭市にからみ悩ませるという役柄でもよい。溌剌とした渥美清が見えるようだ。勝新と渥美清の二人なら、体技という意味で、本当のアクションシーンを見せてくれただろう。もし、山田洋次が「座頭市」を監督したらどうなるか。必ず「水戸黄門」になるはずだ。

つまり、勝新は映画のなかで、オリジナルな人物を造型できる。座頭市はそれまでもそれ以後もいないキャラクターだ。樋口可南子の菩薩の貸元。奥村雄大の五右衛門もそうだ。山田洋次は寅さんを造型したか。いや、寅さんはどうみても渥美清の造型である。笠智衆の御前様は小津安二郎の造型である。山田洋次は商店主や零細企業社長や零細企業労働者とその家族という類型を提出しているに過ぎない。

しかし、映画表現としては人類型などプロパガンダ以外に使いようがないのだ。映画ファンが観たいのは新しい人物造型なのだ。ま、両方やるのが映画監督なのだが、主従はあるのだ。醤油は野田なのだ。

(敬称略)




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