コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

うらおもて人生録

2008-09-21 01:13:01 | ブックオフ本
16歳で博打打ちになった劣等生の不良少年が、「ギャングくずれのサラリーマン」を経て、「堅気もどきの小説書き」となるまで、自伝的に語った若者向けのざっくばらんな人生指南という体裁だが、きわめて優れた教育書になっている。

『うらおもて人生録』(色川武大 新潮文庫)

傑作読み物『麻雀放浪記』の阿佐田哲也という筆名でも知られる著者が、博打から学び人生の途上で確認してきた「姿勢と技術」とは何か。若者はいざしらず、世間をくぐってきた大人なら、どれもどこかで見聞したり、思い当たることばかり。

ただし、俺たちの場合、その種の本を読み、教育や研修を受け、誰かに指導されて、学び知ったのだが、色川武大はたぶん100%近く独学であったはず。たとえば、色川武大の学校時代の思い出とは、小学校なのだから。これには驚かざるを得ない。だからこそ、物事の見方の正確さと認識の深さにも。

劣等生が「どうにか生きていくのを許される」ようになるため、祈るような真摯な気持ちが込められているが、「博打打ちから堅気もどきの小説書きになって、ちょっと成り下がったように思うところがあっておそろしい。ああ、あの頃は、若くて、悪くて、よかったな」という凄みのある感慨もあり、教訓話を突き抜けている。

「凄み」というと、「不良」「劣等生」を自認する著者の露悪的な自慢話の臭みを感じるかもしれないが、けっしてそんなことはない。きわめて真っ当なことをきわめて礼儀正しく説いている。たとえば、こんな箇所。

引用はじめ

 それで、小学校のときなんかを思い出すんだけれども、クラスの中で、一番楽しそうに、楽々と日を送っているのは、成績のよい子なんだな。怠けて遊んでいる子じゃないんだ。
 不思議だね。俺なんか劣等生だったから、身にしみて感じているけれど、怠けて、自分の好きなことばかりやっていて、それはそれなりに面白いんだけれども、なんだか気が晴れないね。晴れ晴れとしている優等生が、どうもうらやましい。それで俺もあんなふうに晴れ晴れしてみたいと思っても、怠けちゃったあとじゃ、追いつくのは大変なんだね。
 チェッ、学校の成績ばかりが尺度じゃねえや、といったって、それは攻めこまれた者のいうことだからね。
 多分、優等生も、最初のところで、勉強しなくちゃ、と自分にいいきかせている間が、ちょっと難儀なんだろうね。ところがそのあとは、スーッとそのペースで行けばいいんだから。
 物事をちゃんとできた、なんていう心持ちは、とてもいいものなんだろうなと思うな。ちょっと足を動かしても、自信にあふれて、すっすっと動くなという気分が、一番楽しいことなんだろうな。
 俺はめったにそんな気持ちになることがないんだけれども、楽しそうに、楽々と生きるというのは、最初のちょっとしたリードの仕方なんだな。
 学校の成績そのものは、ちがう物差しだってあるだろうと俺も思うよ。そうだけれども、学校なり会社なり、そこへ行った以上は、楽しくやらなきゃ損なんだな。

引用終わり

色川武大は、この認識を元気な野良猫と暮らした経験から説き起こしているのが、なんとなく可笑しい(野良猫の兄弟-の章)。

劣等生や不良、挫折してしまった優等生を励まし、元気づける本だが、それだけではない。その先というか、その底もある。「お母さま方へ-の章」を読めば、ちょっと、いや、かなりショックを受けるだろう。なぜ、色川武大は子をなさなかったか。

(敬称略)

MIST

2008-09-18 20:05:41 | レンタルDVD映画
http://eiga.com/movie/53105

人気作家スティーブン・キング原作は数多く映画化されてきたが、成功した作品は少ない。キングファンの動員を当て込んだというならまだしも、たいていは原作権を買いつけて映画の製作資金を出させたところで満足した「映画ビジネス」の残飯のような駄作ばかり、といえば言い過ぎだろうか。言い過ぎではない。初手から、誰もやる気がないわけだ。

「MIST」を監督したフランク・ダラボンはやる気がある。これまで彼が手がけた、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」は、キング作品の映画化としては例外的に出来がよく、興行的には成功を収め、キングファンの間でも評判は悪くない。この「MIST」も期待に違わぬ出来と提灯を持ちたいところだが、残念ながら、やっぱり失敗したなと思った。

「ショーシャンクの空に」や「グリーンマイル」を含めて、実はフランク・ダラボンのキング映画を俺はあまり評価してこなかった。キングファンとしては、原作にとうてい及ばないと思ってきた。もちろん、原作と映画は別物だから、キューブリックの「シャイニング」の例があるように、原作に忠実ではなくとも映画としては秀作という場合もあることは知っている。

キューブリックがキングの代表作のひとつとされる「シャイニング」を「キューブリックの映画」にできたのは、(実際、キングファンからはストーリーの改竄などが批判され、キング自身もラストに不満を抱いたという話を聞いた記憶がある)、誰しもキューブリックの作家性を認めていたからである。

「時計じかけのオレンジ」のバイオレンス、「バリー・リンドン」の歴史物、そして「2001年宇宙の旅」のSFに続く、ホラーへの挑戦であり、キング原作をキューブリックがどう料理するかというキングファンの関心は、キューブリックの眼中にはなかったはずだ。キューブリックは原作と原作のファンを区別した、自立した映画づくりができる大物だった。

作家性とは、その人にしか作れない作品を生み出そうとする努力をいう。そうした独自の作品は自立した映画づくりの可能性を刺激し、新たな観客と市場の開拓を結びつけ、映画市場全体を活性化させる。つまり、作家性とその作家性を支える映画づくりとは、市場の新規開拓への野心と言い換えてもいい。

この真逆が、冒頭の「映画ビジネス」である。新しい顧客をつかもうとはしない。既成の市場でシェアを極大化しようとする。いうまでもないが、新しい顧客とは、それまであまり映画を観なかった顧客のことではない。TV局や出版社と映画を組み合わせたメディアミックスという手法で、それまであまり映画を観なかった観客を動員して大ヒット作は生まれた。が、イベントが過ぎれば、元のあまり映画を観ない観客に戻った。

そうではなく、映画ファンではあるが、気取ったキューブリック映画を敬遠していたり、既成の映画に飽きたらなさを抱いている顧客たちこそが、新しい顧客であり市場であるはずだ。円形のパイを自分にだけ多く切り分ける市場シェアの争奪ではなく、パイそのものを厚くするわけだ。

しかし、キューブリックでさえ、遺作となった「アイズ・ワイド・シャット」では、映画のファンと俳優(トム・クルーズとニコール・キッドマン)のファンを区別しない駄作をつくってしまった。まだ見ぬ新しい観客ではなく、すでに見えているトム・クルーズとニコール・キッドマンのファンを当てにしてしまったのではないか。

監督フランク・ダラボン×原作スティーブン・キングという映画づくりなら、どれほど予算をかけ有名俳優を集めようと、傑作は望めない。自分の、この映画のファンを創ろうとしていないからだ。原作のファンや出演俳優のファンを横滑りに獲得しようとするのは、監督が自分の映画のファンであることを止めるに等しい。

何が悲しくて、キング作品の映像化を観せられなくてはならないのか。原作を読めばこと足りる。フランク・ダラボンにも同様な悲しい思いがあったからこそ、キング作品中もっとも映像化が困難と思われ、絶望的な展開で娯楽性に乏しい「MIST(霧)」の「映画化」に挑んだと思えたが、皮肉にも前2作より不出来となってしまった。

原作中編「霧」の怖さにはるかに及ばない。「霧」の怖さは、霧のなかで孤立した人間が感じる怖さであり、恐怖に駆られた人間がほかの人間に及ぼす怖さであり、しかしそこから決して脱出できない怖さであったはず。怖いのは霧の中の怪物ではなく、怪物を招いた軍事研究の暴走ではなく、狂信に走る昨日までの隣人でもなく、霧によって覆われた世界の終わりであり、それをありありと想像してしまうことだろう。

したがって、終わりから逃げたラストの改変は無様だ。これではミストサウナじゃないか。

原稿は長けりゃいいってものじゃない

2008-09-16 01:06:05 | ブックオフ本
『家族の標本』(柳 美里 角川文庫)

「家族の想い出」が近いが、これではタイトルにはならない。すばらしい。
一読、読者手記かと思わせる平明さだが、朝日新聞が日曜日に「大型連載」している「家族」と読み比べれば、どれほど凄いかわかる。「家族」は社会面のほとんどを占める長文にして、手練れの記者がじゅうぶんな時間をかけた取材に基づき書いているはず。『家族の標本』は原稿用紙4枚ほどに過ぎず、周囲から聞きかじった柳美里は執筆時30歳。才能の違いではない。そういうあやふやなことではなく、決定的な差異がある。立って歩いている人と寝転がっている人の違いくらいの。柳美里の書いたものにも、その人にも興味がなかったが、食わず嫌いを反省。ただし、週刊現代連載の柳美里小説はまったくいただけなかった。

(敬称略)


ライフスタイルとは何か

2008-09-13 23:58:09 | ブックオフ本
ライフルタイルを日本語でいうと生活様式というらしいが、これだけでは何のことかよくわからない。

『階級 [平等社会]アメリカのタブー』(ポール・ファッセル 光文社文庫)

著者によると、アメリカには9つの階級があるそうだ。

最上流階級(ケタはずれで見えない)
上流階級
上層中流階級
中流階級
上層労働者階級
中層労働者階級
下層労働者階級
貧困階級
最下層階級(ケタはずれで見えない)

で、「見える」階級のうち、それぞれの衣食住言葉容姿が見えるのがライフスタイルということらしい。俺たちは衣食住に関わる商品の好みや趣味や傾向をライフスタイルといい、自分のセンスで選び取るものと思っているが、アメリカ人にとっては、そこに言葉や容姿が含まれるだけに、生涯脱けることのできない階級(クラス)の檻がライフスタイルのようだ。

皇太子夫妻が狭い2LDKに住み、侘寂などむしろ貧乏を愛してきた伝統を持ち、オタクが一種の知的権威を持つような、黒柳徹子が「ご苦労なさったのね」と成り上がりに感心するほどの階層間移動しかない、「総中流意識」の日本人からすると、正直ピンとこない。

ピンとこないが、ファッション誌の何とかスタイルや何々ルックとか、何々流とか、なんたらテイスト、こだわりの何とかのネタ元は、この階級とそのライフスタイルなのだと納得できる。「総中流意識」を持つがゆえに、抑圧的な階級とライフスタイルも、「お洒落」のさじ加減にして楽しんでしまう日本人を軽薄というなら、けっこうユニークな軽薄文化ではないかと思えたものだ。

(敬称略)