コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

若者殺しの時代

2007-10-31 23:53:26 | 新刊本
堀井 憲一郎 講談社現代新書

第1章 1989年の一杯のかけそば
第2章 1983年のクリスマス
第3章 1987年のディズニーランド
第4章 1989年のサブカルチャー
第5章 1991年のラブストーリー
第6章 1999年のノストラダムス
終章  2010年の大いなる黄昏
    あるいは2015年の倭国の大乱

目次からその構想を伺うなら、全200頁ではまったく足りない。
記述が駆け足過ぎる。この倍の頁数でようやく80年代日本文化論として成立できただろう。しかし、それでもこれはとても重要な本ではないかと思う。

①ほかに類書がなく、書き手もいそうにない
②著者のそれぞれの事象への読解は適切だと思う
③失われた90年代は別に書かれるべきであり、あくまで分節は80年代だ
④岩波現代史年表や現代用語の基礎知識などでは、高度消費社会の出来事の意味や解釈は抜け落ちてしまう
⑤「すきあらば逃げろ。一緒に沈むな」とあくまでも若者へ呼びかけている

からだ。



村上春樹にご用心

2007-10-31 00:28:25 | ノンジャンル
内田 樹 アルテスパブリッシング

ブログエッセイをまとめたもの。

http://blog.tatsuru.com/

ネット向けのブログエッセイと商業出版、学術研究を分け隔てない書き手が現れた。
まずブログに書く、まとめて書籍化する、研究ノートとしても活用する。ネットがまだうさんくさい三流媒体視されていることを逆手に取った芸当だ。少し前なら、同じ原稿の重複売りと非難されてもしかたがなかった。

逆にいえば、俺のように思いつくままブログに書き散らすのではなく、高水準の思索と練れた文章を惜しげもなくネットに晒してきたからこその「一粒で三度おいしい」なのだろう。誰に頼まれなくとも、書きたいことを書く、書き続けるというのは、口でいうほど易しいことではない。著者は団塊世代のすでに初老といえるが、メディアを等閑視できる新しい書き手なのかもしれない。

さて、本書では、やはり、なぜ村上春樹が日本の文壇や批評から無視され続けているのかに言及したところが読みでがある。ただし、俺はこの黙殺が、著者がいうように批評家たちが世界文学がわからないからだとは思えない。また、村上春樹を正当に評価しているのは著者には加藤典洋以外に見当たらないそうだが、たとえば荒川洋治も「現代最高の作家」と評している。

いささか牽強付会ではないかという疑問は残るが、著者の村上作品の構造分析の手並みは鮮やか。食わず嫌いを反省するきっかけになった。

たしかに、『カラマーゾフの兄弟』は、地球上のどこにでもいる説得力のある人間像が描かれている。ロシアの色や音、匂いは読みはじめる前に想像したより、ずっと希薄だった(新訳だから希釈しているのかもしれないが)。



よせやぃ。

2007-10-28 00:17:45 | 新刊本
吉本 隆明 ウェイツ

よせやぃ。に。を付けたセンスが光る。
モーニング娘。なくしてはこのタイトルは没となったろう。

江戸っ子の吉本らしい口跡に、軽い断念と眉間を広げるような展望を込めた、名タイトルである。

単著のようで、最近の吉本本の例の漏れず聞き書きだが、異例なことに聞き手は研究者や学者ではなく市井の生活者たちだ。

隠居した恩師に不惑になったが惑いつつ生きているかつての学生が、これだけは聞いておこうというようなまっすぐな姿勢に好感が持てる。吉本も平易に明快に、そして親切に応えている。

ある世代にとって、やがて吉本が老人の指標となるだろう。爺さんといえば笠智衆を想い出すように、下町の長屋に座っているような吉本の職人顔を懐かしく脳裏に映すことになるだろう。

それは誰にとっても幸福なことだろうと思う。
(敬称略)

カラマーゾフの兄弟2-2

2007-10-27 23:45:31 | 新刊本
スネギリョフ元大尉のあばら家を訪ねるアリョーシャ。父スネギリョフを愛するイリューシャとの再会。なるほど、この小説は、アリョーシャの地獄巡りの物語なのか。悪人輩が蝟集するのが地獄ではない。善人が悲惨な生活を強いられている場所を地獄という。

赤福よ、お前もか

2007-10-27 23:21:27 | ノンジャンル
雪印の黄箱バターには絶大な信頼を置いていた。不二家のホームパイは夜食の友だった。西へ行く新幹線に乗ったら、帰りは必ず赤福を2箱携えていた。コージーコーナーのジャンボシューや天乃屋の歌舞伎揚げ、でん六の豆ピーは大丈夫だろうか。