コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

官僚主権でいこう!

2011-09-27 22:00:00 | ノンジャンル
オバマ大統領に広島を訪問させなかった藪中前外務事務次官        
http://www.amakiblog.com/archives/2011/09/27/#002042
     
改革派官僚・古賀茂明氏が退職
http://www.j-cast.com/2011/09/26108193.html


だからさ、いったいいつまで、民主党が、野田が、枝野が、安住が、とまるで見当違いの批判や注文を出しているんだろ。以前からそういわれ、この間、いっそうはっきりしたことは、この国を実際は官僚が動かしているということだ。もうそれをはっきりと認めようよ。外務大臣に外交能力なんて皆無だし、経産大臣に役所の人事権はないのだから、もう政治主導なんて、逆立ちしてもできないことは忘れよう。実質的な権限のある人に、お願いしようよ。外交にしろ、原発にしろ、震災復興にしろ、米軍基地にしろ、円高にしろ、消費税にしろ、権限もないお飾りの国会議員に、「なんとかしろ!」って怒っても無駄だから、官庁の次官や局長、課長に陳情しようじゃないの。いさぎよく国民主権なんて虚構はドブに捨てて、官僚主権を認めて奉ろうじゃないの。えっ、官僚が国を動かしていたなら、これまでダメだったのも官僚のせいになる、それならこれからもダメだろう? いや、そうともいえない。お飾りとはいえ、国会議員が選挙目当てに、いろいろな政策の邪魔をすることはあったろうし、なにより国民が国会議員を使って圧力をかけて、地域や国のことを考えぬエゴ丸出しの要求を押し出して、官僚の仕事をとてもやりにくくしてきたのは間違いない。そういう邪魔がなくなれば、もっと仕事はスムースに進むはず。国民はなにも知らないし、別に知りたくもない。もっと景気がよくなって、給料が上がり、海外旅行や車買ってドライブとか、ちょっとした贅沢ができる生活になれば、それでじゅうぶんなんだから。

(敬称略)



ないない尽くしあるいは揺れるまなざし

2011-09-27 03:19:00 | 新刊本



鈴木清順作品上映会に日活がフィルム貸し出しを拒否し、解雇問題にまで発展したことから、日活抗議デモの先頭を歩く、若き日の蓮實重彦(手前左)http://homepage3.nifty.com/okatae/nenpu.htm

さて、誰も待っていないと思うけれど、お待たせしました『反=日本語論』(蓮實 重彦 ちくま学芸文庫)のつづき。長いですが、引用がほとんどなので、読みやすいはずです。

蓮實が西欧民主主義の「現場」と「瞬間」を経験した、「小事件」のおよその顛末はこうだ。パリの駅で列車の切符を買う長い行列ができていた。そこへ一人の老婆が行列に並ばず窓口に立った。蓮實でさえ一時間以上並んでいるのだから、ほかの乗客は二時間以上も、自分の番が来るのを待っている様子だった。しかるに、窓口の予約係がこの老婆の切符の受付をはじめたものだから、行列していた多勢の客たちは騒ぎはじめた。眼前で老婆に横入りされた観光客らしいアメリカ人老紳士が、「不当だ! 私だって老人で旅で疲れている。これは不当な扱いだ!」と予約係を非難したのがきっかけだった。すると、アメリカ人老紳士の行列だけでなく、ほかの行列の乗客たちも同調して声を上げ、すべての窓口を閉ざすほどの騒動になってしまった。怒って騒ぐ乗客たちの前に、やがて窓口から、老婆に対していた予約係が出てきた。いかにも小役人風の予約係だったが、詰め寄り抗議する乗客たちをにらみつけ、老婆の差し出した書面と窓口業務の手引き書らしいものをかざすと、「なにが不当なものですか! このご婦人には、この通り優先的な権利があるのです」と怒りを露わに抗弁した。騒いでいた乗客たちは不承不承引き下がり、窓口が再開されると、何事もなかったように乗客たちはまた並び、乗車券を入手するまでさらに一時間以上も待たされることになった。

近代的個人が確立している西欧にあっては、個人は、その権利と義務の意識によって多数決原理を支え、民主主義なるものを理想形態として持っているのだとその返答は口にする。それは、第二次大戦以前の日本で一部の知識人によって口にされ、戦後にあっては、ほとんどすべての人間が、多数決原理なるものを肯定するにせよ否定するにせよ、そのようなものとして西欧を思い描いてきた。

はい、ここから、重やんの「ないない尽くしと出かけよかい~♪」です。

だが、この返答は返答になってはいない。嘘ではないにしても、ありもしない抽象だと思う。だいいち、西欧には、権利と義務の意識に目覚めた近代的個人ばかりがうろうろしているわけではいささかもない。窓口での優先順位で一位を獲得した寡黙な老婆は、実際、近代的個人などよりはむしろ強情な家畜かなんぞに遥かに似ている。また、意志決定の多数決原理が民主的と呼ばれるとするなら、たった一人で多数を敵にまわして優先権を決定した予約係の態度ほど、民主的なるものから遠いものはあるまい。事実、民主国家日本にあってはそんなことは絶対に許されないだろう。そもそも、一部の抽象的な哲学者にそそのかされてかなりの人が信じている近代的個人など、どこにもいはしないのだ、また、一部の抽象的な政治学者にそそのかされてかなりの人が信じている意志決定としての多数決原理なども、どこにもありはしない。民主主義とは、一人でも多くの人間の欲望を充足せしめる装置であったためしはないし、また、それを原理として生まれたものでもない。より多数の人間が幸福だと信ずることが重要なのであれば、二宮尊徳の像でもじっと眺めていた方がはるかにてっとりばやいだろう。ここ一世紀ばかりの西欧が政治的に採用した民主主義と呼ばれる制度は、断じて多数決による意志決定を基盤としてはいない

数えてみると、「ない」は10箇所もある。一見、これらの「ない」は、在るか無いかの場合の「無い」が多いといえる。自分は「ない」と思う考える、という否定の「ない」は少ない。だが、そんなものは無い、と断じる以上の否定もないわけで、だからこそ、胸のすく効果を上げているといえる。さて、ここから先が、「在る」である。

それは、何よりもまず代表の制度と理解さるべきものである。実際、代弁者を欠いた民主主義というものなど誰も想像することはできまい。諸々の声が、ただおのれ自身の声として響きわたる空間には、民主主義は存在しない。声が、いま一つの声にその響きを委託することで初めて機能する制度が民主主義なのだ。事実、老婆の沈黙の声を代弁することになった中年の予約係は、たった一人でありながら多数の声を押し殺し、そのことで民主的な思考を各自に徹底させていたではないか。その男の内部に、近代的個人なるものの意識が権利と義務の自覚を伴って確立されていたか否かを問うことは、さして重要なことがらではない。見落してはならぬのは、老婆の権利を代弁しつつ擁護したとき、自分がより大がかりな代表の機能の中に捕捉されていることを彼が間違いなく自覚していたという点である。つまり、フランス国鉄の予約係として、規則を代表することによって、自分にふさわしい場所で潜在的な「法」を顕在化させていたのである。誰もが彼の弁論を正当なものと聞きとることが可能であったのは、その個人的な声の背後に、不可視の社会的な制度を察知しえたからにほかならぬ。その意味で、彼は近代的個人が享受したと人がいう自由の体現者ではいささかもなく、徹底して不自由な存在としてその不自由を各人に分配してまわったのだ。かかる不自由の分配こそが、老婆を権利の所有者に選定する影の力となっていることはいうまでもない。つまり、老婆は選別され、アメリカの老紳士に加担したすべての人間は排除されたということだ。この排除と選別とをいたるところ、あらゆる瞬間に機能させうる代表の階層的秩序こそが民主主義なのであって、多数決原理なるものはそのとるにたらない脇役にすぎない。

多数決原理は民主主義の脇役にすぎない、だけが印象に残るのは、それが日本における民主主義の誤解を指示しているからだ。あるいは、多数決原理などをありがたがる日本本そのものが西欧世界からすれば、とるにたらない脇役にすぎない、といっているからだ。しかし、蓮實はそういうことをいいたいわけではない。

だからわれわれは、民主主義なるものを、多くの人の不自由の源泉として憎悪する正当な権利を持っていると思う。だが、それを語ることが当面の問題ではない。また、シルバーシートなるものの発想が、最も民主主義とは遠いものである点を力説したいわけでもない。そうではなく、無人のバスの車内でたがいに譲りあって坐りましょうのスローガンに接した唯一の乗客に逸ってきた記憶の情景が、西欧の言語理論の今日的な相貌と民主主義なるものとの恐るべく類似した関係にあることをふと想起させたまでのことなのだ。排除と選別のメカニスムを始動せしめる代表の階層的秩序。そしてその内部で、現実に一つの排除と選別とが実践されるその場所、その瞬間に、

西欧の民主主義と言語理論の恐るべき類似については、「ふと想起」したくらいなので、ここから先、言語論が展開されるわけではなく、簡単に触れられるに過ぎない。俺がおもしろいと思ったのは、あちらこちらに棹さしながらすすんでいく、舟のような蓮實の「意識の流れ」である。思考という川に意識の小舟が流れていく様子を、岸に立ち眺めているような、ちょっとスリリングな気持ちが起きる。

はじまりは、夫婦ひさしぶりの映画鑑賞だった。小難しい映画ではない。メーテルリンク原作ジョージ・キューカー監督「青い鳥」だ。その映画に、夫はむやみに感激し、妻は冷淡な反応をみせた。観終わって二人は口論になり、そんなときは、帰宅の経路を別々にすることが、夫婦の暗黙の習わしになっていた。妻は電車に乗り、夫はバスを利用した。

家のある町に向かうバスに揺られる「唯一の乗客」となった夫は、シルバーシート(1970年代ですから。いまは優先席と表記されています)に気づき、さきほど観た映画「(幸福の)青い鳥」を反芻するだけでなく、パリの駅で起きた民主主義をめぐる「小事件」を想起する。やがて、バスが家のある町に着けば、妻が必ず立ち寄るカフェに先回りして夫が待つのが、やはり二人の習わしになっている。

そのカフェで何をどう話そうか、和解の対話について夫は考えている。それが、蓮實の「その内部で、現実に一つの排除と選別とが実践されるその場所、その瞬間」なのである。民主主義や言語にとって、「排除と選別」という内容が本質的にどうかかわるのかということより、「排除と選別」が実践され、機能する、その場所とその瞬間に、蓮實の「揺れるまなざし」こそ、この本が提示するものだろうと思った。つまり、民主議論は関係ないというむちゃくちゃな目に遭わされているのだのだ。

したがって、パリの駅の予約係は法治を体現していただの、西欧からみれば日本は周縁なのは当たり前だの、といった突っ込みは、先に紹介したクイズのごとき先走った回答になるわけで、「ないない尽くし」も「在る」をめざしたものではないことがわかる。

しかし、そうなると、いったい何がいいたいのかよくわからないが、「揺れるまなざし」の「揺れ」だけは感じられるという、きわめて非西欧的な文芸ということにもなる。西欧の視点から、所見や所論を明快に述べているようにみえて、実はそうでもなく、私小説的ですら在る。蓮實は本書の刊行に気が進まなかったそうだが、文芸的に過ぎると思ったからだろう。読みはじめてと、読みすすめてと、読み終わっての感想が、やはり「揺れる」のもこの本のおもしろさのひとつか。

伊丹十三が女優の岸恵子に、蓮實重彦を紹介した弁(『映画狂人、語る。』蓮實重彦 河出書房新社 232頁)

伊丹 エートね、岸さん、蓮寒さんはですね、ンー、日本で初めての映画理論家、でもあり、また日本で初めて、映画を語るための言葉というものを見つけてくれた人でもあるわけなんです。つまりね、いままで、人は映画を見ると、その映画の運んでくるメッセージなり、イデオロギーなり、思想なりについて語っていたわけです。あるいは、その映画に託して作者が措こうとした人情の機微であるとか、人生観といったものについて語っていた。あたかも、映画というものが、思想や人生観を運ぶ、単なる容れ物ででもあるかの如くね。つまりね、他愛ない表面の裏側には、なにか深遠なる作者の意図というものが隠されていて、その隠された意図を読みとることこそが、正しい映画の見方である、という見方に、われわれ縛りつけられてたわけですよ。ところが、そこへ蓮賓さんが現れて、われわれを内容主義の呪縛から解放してくださった。そして、以来、われわれは映画の表面について語る言葉を持つようになったわけですね。現にスクリーンに映っているところのもの。スクリーンの上で事件として起こつているところのもの、それについて語ることができるようになったわけです。

黒沢清と周防正行対談「われらライバルどうし」(「キネマ旬報」第1110号)

黒沢 蓮實さんが「この映画を見てきて下さい。スピルバーグの『未知との遭遇』を、次週までに」と言うんです。次の週行きますと生徒たち一人一人に「何が見えましたか」って当てていくんですよ。で、授業の要領をわかっていない人はですね、「円盤の特撮が凄かった」なんて言うわけですね。するといきなり蓮實が「特撮というのはどこに映ってたんですか」「でもあの特撮はやっぱり凄かったですよ」「特撮か特撮でないかはどうしてわかるんですか。本当の円盤かもしれないじゃないですか」とか言って、突っ込んでいくわけですよ。「でもパンフレットに特撮って書いてありましたから」「それはパンフレットに書いてあったんでしょ。映画には映ってないはずですよね」とかですね。こういう授業なわけですよ。で、僕なんか大体要領がわかってくるとですね、「この映画、何が見えましたか」「ドアが十五回見えました」「はい、そうでしたね」とかね。ほとんどこういう問答が続くわけですよ。禅問答のような。そういうのはやっぱり強烈でしたね。映画というものをそのような角度で捉えられうるのだというね。単に面白い、つまらない、作者はこれを言いたかったのだと、そういう言い方も勿論できるんですけど、何が映っていたかっていう見方もまたできるんだなっていう。あまりにも当たり前であり、あまりにも誰も言わなかったものですから驚きましたね。

俺は蓮實重彦をほとんど読んだことがなかった。ところが、この『反=日本語論』の紹介のしかたが、気がつけば、ほとんど蓮實重彦の方法論を踏襲しているのにちょっと驚く。それは直接的には、『反=日本語論』を読んだ効果だから当たり前のようだが、それ以上に、それ以前から蓮實の方法論に、知らず知らず影響されてきたためでもあろう。まさしく、

あなたが観なくても映画は上映され、あなたが読まなくても本は出版され、あなたが聴かなくても音楽は演奏され 、ダイアローグは続いている

のである(自分で書いて、自分で感心してりゃ世話ないが)。

(敬称略)



日米安保は兄弟分の盃

2011-09-20 00:58:00 | ブックオフ本


最近では、山口組系暴力団の組長が「板の間稼ぎをするほど、ヤクザと呼ばれる「反社会勢力」への締めつけが厳しくなっている。そのきっかけをつくった一人ともいえる後藤忠政の本である(本人が書いたわけではなく、聞き書きだが)。とにかく、バブル期以降、後藤組と後藤忠政の動きは派手だった。創価学会、伊丹十三襲撃、渡米肝移植、その間、数々の経済事件にその名が取りざたされ、最近では紳助引退で騒がれている芸能界への食い込みも、この後藤組が突出していたといわれている。

憚りながら』(元後藤組組長 後藤忠政 得度名・忠叡 宝島社文庫)

今回は、そうした事件的な興味は脇におき(もちろん、真相はけっして語られないわけだし、たとえ語られようとそれが真相だとは判断できないわけだが)、後藤忠政の政治家評がなかなかおもしろかった。 政治家の仕種や振る舞いからわかるヤクザの「日本属国論」かな。

小泉 純一郎
小泉がアメリカに着いて、飛行機を降りてきたら、ブッシュは握手しながら肩をポンポンと叩いたわけだ。あのポンポンってのは、目下の者にやる仕種であって、兄弟分にはやらないよ。ところが、小泉は(ブッシュから)そんなマネされても、まだプレスリーの物真似なんかやっていたんだから度し難いよな。

安倍 晋三
その小泉の後の安倍(晋三)さん、俺はあの人の「美しい国」という考え方は好きだったし、いい政治家だと思っていたんだが、(政権の)途中で「腹痛い」って辞めちゃあ、ダメだろ。学校で級長やっている子供だって、「腹痛い」なんていう理由では辞めんぞ。

麻生 太郎
「オバマが大統領になった後、最初に会ったのが日本の(麻生)首相だ」ってまたテレビが騒いでいたな。あれは「会った」じゃないよ。「呼びつけられた」んだ。一国の宰相が、昼食のテーブルも用意されないまま帰されるんだから。兄弟分の扱いじゃなくて、子分の扱いだよ(要約)。

鳩山 由起夫
「対等な日米関係」を掲げて、普天間(基地移設問題)を見直すといった鳩山さんのほうが、まだマシだった。まがりなりにも、アメリカさんに居直ったんだから。実際のところ、日米関係は到底「対等」じゃないよ。五分と五分の関係じゃない。けど四分六だろうが、七三であろうが、二分八であろうが、「あんたんちとウチとは兄弟分ですもんで、親分子分じゃないもんで」と、たまには突っ張るのもいいんじゃないか。

小沢 一郎
(小沢さんが)自分の子分を600人も引き連れて中国に行って、力を誇示してな。あれじゃまるでチンピラだよ。おまけに子分を胡錦濤(国家主席)の前に並ばせて、ひとりひとりに握手させて、記念写真撮らせて。民主党がアメリカに突っ張るのは結構な話だけど、だからといって、中国の舎弟になるのは勘弁してもらいたいわ。ありゃ、完全に舎弟の振る舞いなもんで。


(敬称略)

蓮實の「み」が書けない

2011-09-13 01:27:00 | 新刊本



「目白雑録(ひびのあれこれ)」の金井美恵子が、文芸評論家のなかでは唯一といってよいくらい評価していたので、文庫本の新刊コーナーに積んであったのを手にとってみた。

『反=日本語論』(蓮實 重彦 ちくま学芸文庫)

例によって、担当編集者による表紙カバーの紹介文を読んでみる。変な書き方だなと思う。それで読んでみたくなった。どこが変なのか、当ててみてください。

フランス文学者の著者、フランス語を母国語とする
夫人、日仏両国語で育つ令息。そして三人が出会う言
語的摩擦と葛藤のかずかず。著者はそこに、西欧と
日本との比較文明論や、適度な均衡点などを見出そう
するのではない。言葉とともに生きることの息苦しさと
苛立ちに対峙し、言語学理論を援用しつつ、神遠なる
言葉の限界領域に直接的な眼差しを向ける。それは、
「正しく美しい日本語」といった抽象的虚構を追い求める
従来の「日本語論」に対して、根源的な異議申し立てを行う
ことでもある。
              解説 シャンタル蓮實


まず、「夫人」「令息」にひっかかるはず。「妻」「息子」と書くのがふつう。編集者が著者に恐縮遠慮している。次に気づくのが、わずか10行の紹介文のほとんどが否定によって埋められている。

西欧と日本との比較文明論や、適度な均衡点などを見出そうする、従来の「日本語論」

が、「根源的」に否定されている。その否定の発端は、日仏語がとびかう蓮實家の「言語的摩擦と葛藤のかずかず」であり、その依拠するところは、「言葉とともに生きることの息苦しさと苛立ち」であり、その根拠は、「言語学理論を援用しつつ」、言葉に「直接的な眼差しを向ける」ことだ。

しかし、「神遠なる言葉の限界領域」とは、持ち上げたものだ。そんな編集者の畏怖が伝わってくるから、「蓮實重彦ってのは、いったい何様なのか」という反発が起きるのはしかたがない。だが、本書を一読すると、たしかにこの紹介文のとおりの内容に間違いない。編集者が真似したか、影響されたか、否定を重ねる書き方も同じ。ぎくしゃくして、とても巧みとはいえない紹介文だが、よく内容を表しているといえる。蓮實重彦が何様扱いされているのを知るおまけ付きだから、じゅうぶん以上かもしれない。

それほど難しい本ではない。フランス人の、それもインテリの嫁さんを持つとどんなに苦労するか、日仏ハーフの息子の教育にどれほど頭を悩ますか、そういう覗き見的な興味もそれなりに満たされる。夫人の解説を読むと、シャンタル夫人とフランス語で対話するとき、蓮實は夫人の顔を見ず、「やや瞳を伏せ、身を傾ける」姿勢をするそうで、夫人はそれを「聞く視線」と呼んでいる。そんな夫や父のほろ苦いエッセイとしても読める。もちろん、そんな読み方は本書中で繰り返し否定されているのだが。

さて、帰納的に否定を重ねながら、演繹的に「言葉に直接的な眼差し」を提出しようとする、蓮實重彦の文芸の力については、次回のお楽しみ。印象としては、マッチョではなくタフネス。執拗なほど繰り返し変奏していくなかで、主題を次第に顕わしていく、その「日本人離れした」タフな文章に、たぶん編集者は圧倒されたのだろう。

たとえば、次回の例文に取りあげようと思っている「シルバーシートの青い鳥」でいうと、40字17行23頁という長文のなかで、「民主主義において、多数決はとるにたりない脇役に過ぎない」という蓮實の考察は、中盤のほんの枝葉に過ぎない。たしかに、西欧と日本の民主主義の比較に止まらない。均衡など測らない。そこから、いくつもの通説や妥当と思える考察が、痛快に否定されていく。

それは同時に、「外人離れした」、一日本人としての思考と葛藤が積み重ねられていく姿でもある。つまり、妻や息子や家庭生活を描いて見せたからエッセイなのではなく、自分という個の思想を語ろうとすることにおいて、エッセイなのだろうと本書を読んで気づかされた。家族と自分の関係性の生々しい叙述を避けたのは、それが下品だということでもなく、家族が読むだろうことを想定して控えたのでもなく、個の思想を語らんがためだと思えた(いやはや、俺もさっそく影響されて否定を重ねているよ)。

つまり、思想エッセイということです。どこかの誰かの借りもの思想ではなく、自分の思想について語っている。その困難さを考えるとき、シャンタル夫人と対話するときの蓮實を思い出す。身をはすにして瞳を伏せ、フランス語に聴き入るその姿を。そんな日本の一知識人の肖像という読後感もある。やっぱり難しげになってしまったが、蓮實がこの本を書いたのは、1970年代の40歳に満たないときだ。けっして若くはなく、若書きではまったくないが、家族との関係性についても、まだ初々しい感性と視線がうかがわれる。

次回の予告として、こんなクイズを。

「ローマ帝国の将軍といえば・・・」
「シーザー!」
「そう、シーザーですが、そのときのエジプトの女王といえば・・・」
「クレオパトラ!」
「はい、ではハリウッドでクレオパトラを演じた女優といえば・・・」
「エリザベス・テーラー!」
「ですが、相手役のアントニーを演じた・・・」
「リチャード・バートン!」
「ですが、なぜリチャード・バートンはシーザー役ではなかったのでしょうか?」
「・・・」

これらの質問がすべて、否定で続けられると思ってください。おもしろそうでしょ。

(敬称略)