コタツ評論

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素敵な人生のはじめ方

2008-10-30 00:30:53 | レンタルDVD映画
素敵な人生のはじめ方(10 ITEMS OR LESS)
http://www.cinemacafe.net/movies/cgi/21840/

名乗る場面はないが、モーガン・フリーマンがモーガン・フリーマンを楽しげに演じるモーガン・フリーマンのプロデュース映画。モーガンがスーパーの店長役を演じるために見学にきたヒスパニック相手のスーパーで、優秀なレジ係のスペイン移民・スカーレット(パス・ベガ)と知り合い、一緒に過ごす一日を描いたもの。

原題の10 ITEMS OR LESSとは、スカーレットが担当する「10品目以下」専用のレジのこと。巨大なカートを押して一週間分の食料を買い込アメリカのスーパーでは、「10品目以下」しか買えない貧乏人専用レジなのかもしれない。貧乏人専用という用途ではなく、日本のスーパーにもほしいレジだ。電池と牛乳を買うだけなのに、長く伸びた列に並ぶのはうんざりする。

スーパーの安売りビデオのコーナーに陳列してある、モーガンとアシュレイ・ジャッドと共演した「ツィステッド」のタイトルジャケットを見て眉を上げたり、「ファッションハウス・シマムラ」のような店で、Tシャツが8ドルという安さに興奮し、自分のブランドTシャツが100ドルすることにあらためて驚いたりする世間知らずのモーガン。

誰にでも陽気に話しかけ楽しそうに笑う有名俳優モーガンに、結婚に失敗しレジ係に甘んじている不機嫌顔のスカーレットは、なかなか心を開かない。家まで送り届ければ2度と会うこともない別世界の人間なのだ。しかし、モーガンにも屈託はあった。映画界の熾烈な競争に気後れして、4年間も出演作がない。スーパーの店長役にも実は迷っているのだ。

その日、スカーレットがスーパーのレジ係から建設会社の正社員へ転職するための面接日であることを知ったモーガンは、オーデションならお手のものと、スカーレットの服装のアドバイスから模擬面接までお節介にはりきる。その万人を魅了してきた朗々たる語りと笑顔に、徐々にスカーレットの表情は和らぎ、笑顔を浮かべるようになる。

「マイフェアレディ」のヒギンズ教授役をモーガンは演じるわけだが、スカーレットが自信を取り戻し、また人生を歩みはじめることに自分を重ねてもいる。老いと若さ、男と女、有名と無名、金持ちと貧乏人、人種や言葉の違い、そうした差異を越えて、人生を見失いそうな二人が手を取り合って助けあう、対等な友情の物語である。

モーガンはスカーレットに尋ねる。「君の嫌いなもの、好きなものをそれぞれ10数え上げてくれ」と。スカーレットは嫌いなものはたちどころに10並べたが、好きなものは7つしか思い浮かべられない。焦り惨めな気持ちになっているスカーレットを痛ましげに見つめるモーガン。「10 ITEMS OR LESS」の意味はここにある。

「マイフェバリット・シングス」の歌のように、お互いに好きなものを数え上げるこの場面に、この映画の主題がある。つまり、嫌いなものに囚われるのではなく、好きなものを見つけ大事にしていこう。それは自分だけの喜びであっていいが、好きなものが他の人と重なれば喜び合える。面接を終えて、「いま、この瞬間が好き」と笑顔で見やるスカーレット。

たぶん同工異曲のモーガン・フリーマン、ジャック・ニコルソン「最高の人生の見つけ方」http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id329594/より、74分の小品、この「素敵な人生のはじめ方」のほうがお勧めだと思う。どちらが先の企画か知らないが、「最高の人生の見つけ方」より、「素敵な人生のはじめ方」が後だとすれば、モーガン・フリーマンも人が悪い。

(敬称略)

愚か者死すべし

2008-10-26 01:21:39 | ブックオフ本
『愚か者死すべし』(原 寮 早川書房)

冒頭、探偵が事務所に戻ってくる。ドアを開ける。

「どこかに挟んであった二つ折りの薄茶色のメモ用紙が、翅(はね)を動かすのも面倒くさくなった厭世主義の蛾のように落ちてきた」(5ページ2行目)

こうした比喩を楽しめる人と楽しめない人がいるが、残念ながら俺は後者だ。

心象を書かず行動のみ記述するという、いわゆるハードボイルド小説のスタイルを取りながら、どうして蛾を擬人化して、その人生観(?)まで言及しなければならないか、はなはだ理解に苦しむ。

あるいは、書き出しにそれを持ってくるのは、これから始まるのは、「厭世主義の蛾」が登場するような人を食った話ですよ、という著者の執筆への姿勢を明らかにしたものなのかとも思ったが、その後こうした比喩はまったく出てこない。

とここまで書いてきて、嫌になってきた。誰の何のためにもならない。こんな「ハードボイルド小説」を読むと、いかに大沢在昌が優れているか、よくわかる。

(敬称略)


嫌なジジイ

2008-10-23 23:55:08 | ブックオフ本
『冷暖房ナシ』(山本夏彦 文春文庫)

帯の惹句には、「真の常識 深い教養 巧まざるユーモア! 激辛エッセイの粋」とある。文芸春秋や新潮社には文芸編集の手練れがいるにもかかわらず、こんな陳腐な文句しか思い浮かばなかったところからして、山本夏彦の毒気に当てられている。随筆やエッセイ、時評と呼ばれるジャンルに入る文集だが、いずれにもやや規格外、ただ山本夏彦の文章だ。

立川談志の口跡で、「嫌なジジイだねえ」と語尾を上げたくなる。読めば腹が立つからめったに読まない。と、こういう言い回しからしてジジイに影響されているのがまた口惜しい。たとえば、俺は戦後民主主義を評価している。すると、ジジイの声が聴こえる。「評価するとはおこがましい。それきり知らないだけだろう」と嘲笑も浮かぶ。

しかし、解説の徳岡孝夫も書いている、ガン死した妻の闘病記である「丸山ワクチン」。真情迫ってめったに読めない一編だ。いや、いわゆる「闘病記」ではない。ああ、ややこしいジジイだ。お涙頂戴ではもちろんないが、その裏返しの淡々とつきはなしたという修飾でもなく、静かな憤りと沸き立つような悲しみが、行間にある。

左翼や民主主義や人権などの言葉を字義通り使うことは金輪際なく、いわゆる保守系の雑誌にしか書かないジジイだが、反動には頷いても何かを保守するなど児戯に等しいと冷笑しかねないところに、文春は困ってあんな惹句をつけるしかなかったとも思える。激辛は消費されるが、このジジイはそんな玉じゃないのである。

(敬称略)

降参した歌 2

2008-10-10 03:14:25 | ノンジャンル
中森明菜 「DESIRE」
この頃の明菜てえものは。
http://jp.youtube.com/watch?v=QIDRD5auPx4

中森明菜 「飾りじゃないのよ涙は」
陽水と玉置が圧倒されてやがんの。
http://jp.youtube.com/watch?v=AJwQprMq_Oc&feature=related

中森明菜 「駅」
ビリー・ホリディの最後の頃のような凄絶。
http://jp.youtube.com/watch?v=wuZFhj-t50U

山崎ハコ 「心だけ愛して」
この歌を聴いて心中した男女がいるのではないかと。
http://jp.youtube.com/watch?v=cycVF0lb8lo

ノーベル賞4人

2008-10-09 15:46:12 | ノンジャンル
物理学で3人、化学で1人。うち2人は80歳代。70年代の研究が評価されたという。祝賀ムードに水を差すつもりはないが、では80年代90年代00年代の研究も同様に、後世に評価されるのだろうかと疑問。バブル期の80年代から、高校生の理科離れや工学部卒の畑違いの就職は顕著な傾向だった。自然に触れずに理科に眼を開かれることは稀なはず。工学部出身者が畑違いの金融機関や証券会社に就職の列をなしたはず。研究を志す学生の厚みは、かつてよりはるかに薄くなったと思われるからだ。

かつて、というのはいつか? 彼らが若き日に、湯川秀樹や朝永振一郎のノーベル賞受賞に刺激され、研究者を志したのは戦後まもなくのことである。「日本人受賞」というが、彼らは戦前の生まれか、戦前世代の薫陶を受けた人たちなのだ。「勉学に励む」と「功利に走る」ことが真逆であるか、まったく別次元のことだと考えられていた、少なくともそう考えようとしていた時代の話なのである。

現代では、「勉学に励む」ことがすなわち「功利に走る」ことを意味しているから、勉学を忌避することが青少年にとって通俗への抵抗のひとつであり、あながちそうした考えを否定できない事例にも事欠かない。たとえば、「日本は単一民族」「成田空港の農民はゴネ得」「日教組をぶっ壊せ」などの「失言」で辞任した中山成彬前国交大臣。鹿児島ラサール高から東大法学部へ進み、大蔵省入省までには相当勉学に励んだだろうに、この程度なのである。

勉学に励んでも中山成前大臣がせいぜいならば、ノーベル賞を受賞した名古屋大出身の物理学者2人と同じく還暦をとうに過ぎても、教員組合が諸悪の根元であるかのような世界観と教育からの精神的外傷性しか残らないような「功利に走るための勉学」をとりあえず拒否するのは、むしろ理に適っているとさえ思えてしまう。受賞者の一人が、「(ノーベル賞を受賞は)学問とは無関係な社会現象」と困惑顔でいったのと比べると、同じ日本人といっても、そのエートスはまるで違う。

もちろん俺たちは、どちらかといえば中山成彬前国交大臣に近い「この程度」の日本人である。「勉学に励む」ことを「功利に走る」手段と考え、成田の農民のように異議申し立てはせず、組合活動は白眼視し、日本の同質性を信じて、中流の功利を求めたが得られず、いま「格差社会」に怯え傷ついている。「ノーベル賞という社会現象」は、そんな傷ついた俺たちと俺たちの社会に気づかせてくれる効用はある。