コタツ評論

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小沢一郎こと小澤一郎

2010-04-28 19:12:00 | ノンジャンル
検察審査会の「起訴相当」の結論文を読んでいたら、「小沢一郎こと小澤一郎」と記してあった。小澤一郎が戸籍上の正しい名前で、小沢一郎が選挙用なのであろう。沢には澤だけのようだが、齋藤や渡邊などには幾通りもの旧字があり、電話口などで旧字を説明するのはかなり難しいわけで、新字で妥協している斉藤さんや渡辺さんも多いはずだ。いや、そうじゃないな。ワープロやパソコンが普及したIT社会化の過程で、旧字がフォント化されなくて、役所からの通知や請求書の宛名が、強制的に新字で記入されたという影響が大きいだろう。

つい本来の旧字で記入したり返信すると、「お名前が間違っています」とつき返されたり、本人確認の電話が入ったりして、憤慨した濱田さんや櫻井さんもいたろうなと思う。役所や企業の都合に合わせて新字を使わされてきたのに、戸籍や住民票と照合される裁判資料などでは、まるで通名や偽名を使っていたかのように、「~こと」と書かれるわけだ。すると、かの東京裁判でも、「広田弘毅こと廣田弘毅」と検事調書には書かれたのだろうか。



ただし、小沢一郎の場合は、新字か旧字かというだけの問題ではない。上記のような、「小澤一郎」から「小沢一郎」へ不動産を売却した確認書が、ほかならぬ当人から、政治資金規制法に違反はしていない「証拠」として提示されて、論議を呼んだことがある。いや、これも違うな。論議などは呼ばなかった。同一人物間の不動産売買が、「インチキ」や「不正」ではないかと疑惑視されただけなのだが、これは健全な市民感覚が発動されたものだろうか。

当時の陸山会は、法人格を持たない、つまり何ら権利なき民間団体に過ぎず、法的な権利がなければ、不動産売買や賃貸契約はもちろん、銀行口座や電話契約も陸山会名では開設できなかった。そうした、権利なき民間団体を公に認め、その非営利活動を促進しようと制定されたのが、平成10年にできた特定非営利活動促進法であり、会社のように法人格を持つ、いわゆるNPO法人が生まれたわけだ。

したがって、NPO法制定以前は、マンション住民の管理組合や廃品を回収してリサイクル活動をする消費者団体などは、理事長や代表の個人名で、事務所を借りたり、電話を引いたりしなければならなかった。当然、管理費を滞る住民が増えたり、家賃や電話料金の支払いが迫れば、最終的には理事長や代表個人に支払い責任が問われ、個人の財布から立て替えねばならないこともあるわけだ。

小澤一郎が個人所有の不動産を陸山会に売却する場合、その売買契約の甲乙を小澤一郎と陸山会にはできないから、「便宜上」陸山会代表の小沢一郎と個人小澤一郎を甲乙とする、この確認書にはそう記載されている。ほかに甲乙の書きようはなく、権利を持つ法人か個人を明記しなければ、売買契約を結ぶことはできない。言い換えれば、無権利の陸山会を縛るために、小澤が小沢の確認書を必要としたわけだ。

これを疑惑視するのが「市民感覚」なら、たとえば、団地自治会の懇親会の席に供するために、自治会理事長が自分名義の自治会銀行口座から2000円を引き出し、さらに自分の財布から2000円を出して、計4000円で柿の種などを買い込んできた場合にも、住民は疑惑の眼を向けるべきだろう。実は理事長個人の嗜好から、柿の種を買ってきたのではないか、その柿の種を貪り食ったのは自治会費の流用に当たらないか。

自治会理事長は、「いや、柿の種だけに4000円を費やしたわけではありません。イカクンやチーズクラッカーも買いました」と懇親会に参加しなかった住民にも説明するべきだし、さらに、銀行口座から引き出した2000円と自分の財布から出した2000円に対して、同一人物間であっても、それぞれ受け取りを書いた上に、懇親会が催されたその日のうちに、自治会収支報告書に記載しなければならないことになる。

「そんなことなら、まっぴらごめん」といまだにNPO法人を取得しない団体や組織は少なくない。もちろん、政権与党民主党の幹事長と団地自治会の理事長を同列視はできない。権力の座にある者は、厳しく適法性や透明性を問われるべきだろう。しかし、自分ができないこと、していないことを、自分以外の人に求めることは、少なからず自覚から離れることになる。自覚から離れた市民感覚などに、はたして信頼が置けるものだろうか。

いうまでもなく、「市民感覚」に実体はない。本来は、市民それぞれが持つセンサーのようなものであり、「市民意識」や「社会常識」といった、それなりに形があり、まとまったものではないはずだ。にもかかわらず、「市民感覚」に訴え、それを「民意」として代弁するものは、歴史上、たいていが煽動者であり、人々を誤導して破滅の道へ歩ませた。わが国では、かつてマスコミがその役割をつとめ、いまも同じ役割を続けている、と私は思う。

(敬称略)



ヒュー・グラント賛江

2010-04-23 01:47:00 | レンタルDVD映画
先日、BSで放映されていた「ラブソングができるまで」を観てしまった。なかなか心地よい映画だった。ご贔屓ドリュー・バリモアの温かな笑顔に惹かれた、だけではない。子役上がりで、ドラッグ、セックス、タトゥーと、ハリウッドきっての不良少女だったドリュー・バリモアが、日本でいえば、すっかり、「癒し系」女優になっていたのだが、そんな過去も癖もあるハリウッド女優の引き立て役に徹する「草食系」男優のヒュー・グラント君の「やれやれ」顔が心地よいことに気づいたのである。




かつて80年代にポップスターとして活躍したアレックス(ヒュー・グラント)だが、中年となったいまは落ち目の坂道を下るばかり。TV番組「あの人はいま」に出演依頼されて腐るが、仕事といえば同窓会や遊園地に呼ばれて、同じように中年になった女性ファンのために、腰を振りながら懐かしのヒット曲を歌う毎日。ふつうなら、ヤケ酒あおって誰彼なく八つ当たりするところだが、ヒュー・グラント君は不本意な毎日を右から左へ流して過ごしている。

ピンチヒッターで部屋の観葉植物の世話にやって来たソフィー(ドリュー・バリモア)を誘う言葉も、「今夜、僕のショーがあるんだが、来ないか? ホント、笑えるよ、ハハハ」と自嘲気味。眉毛と口角を下げた「やれやれ」顔と、この「ブツブツ」一人突っ込みが、ヒュー・グラント君の独壇場。気弱で間抜けな二枚目という役どころは、ハリウッド・シチュエーションコメディの類型だが、ヒュー・グラント君ほどのハンサムはいなかったし、軽口叩いてやり過ごす、「なんちゃって」反応を彼ほど好ましくできる人はいない。

そんなアレックスに奇蹟のような幸運が舞い込む。幼児の頃、アレックスのファンだったという人気絶頂のセクシーアイドル・コーラが、新曲の制作を依頼してきたのだ。期限は一週間。なかなか曲ができず焦るアレックスは、鉢植えに水をやるソフィーに作詞の才能があることに気づく。しかし、「天然」に見えたソフィーには、深い心の傷があって・・・。すったもんだのあげく、はたして「ラブソング」はできるのか。はたまた、アレックスはカムバックできるのか。二人は結ばれるのか。ま、全部できるのですがね。

で、ソフィーの心を傷つけた「サイテーの男」と二人が対決する場面がある。高級レストランで、有名作家の男は取り巻きを連れている。アレックスに「ケリをつけろ」と励まされて、おずおずと男の前に出るソフィーだが、裏切られたとはいえ、かつて惚れた男の前で、積年の恨みをいうどころか、追従笑いを浮かべ賛辞を述べてしまう有様。見かねたアレックスが加勢するが、こちらも暴力に訴えながら、返り討ちにあってしまう始末。部屋に戻って、アレックスの傷の手当をするソフィー。

惨めな二人は、何と慰め合うか。「ありがとう。男らしかったわ」とソフィ。「少しは気が晴れたか」とアレックス。氷でアレックスの頬を冷やしながら、にっこり微笑むソフィ。「腫れているのは反対側なんだが」とアレックス。お決まりのギャグだが、心ここにあらずのソフィー。ビシッというつもりが、ガツンとやっつけるつもりが、恥辱をそそぐつもりが、さらに恥の上塗りになってしまった。それでも、悔し涙にくれず、歯噛みしないのは、二人がとりあえず、相手を気遣っているからだ。

なかなか現実には勝てない。でも、まだ負けたわけではない。あなたは私のために闘ってくれた。だから、私もまたがんばれる気がする。だから、泣きたいけれど、あなたに向けて笑っているの。ありがとう。僕は人と争うのが苦手なのに、君のためとはいえ、あんな乱暴なことができたんでびっくりだ。でも、やつには勝てなくて、すまない。そうだよ、まだ負けたわけではない。ていうか、やつに勝つなんてどうでもいいじゃないか。僕たちは、挫けそうな自分に勝って、勇気を奮い起こすことができたんだ。

黙った二人は、たぶん、そんなことを心中で語り合っていたのだろう。ではないのだ。これも実はアレックスの妄想一人突っ込みなのである。ソフィの本当の気持ちはわからない。ただ、アレックスは、ゴールデンレトリバーのように飼い主を心配して、こんな応答を心中で繰り返しているのだ。間抜けなことをして笑わせてくれて、気弱に見えるほど優しくて、でも敵の前面に出て吠えてくれ、いつも気遣わしげに自分を見つめている。そんなゴールデンレトリバーに紛して、ヒュー・グラント君の右に出る者はいない。

つまり、女性にとって、本当に男らしい男とは、ゴールデンレトリバーなのである、たぶん。そして、男にとっても、ヒュー・グラント君のような男こそ、本当に男らしいのかもしれないと学ばせてくれるところが、女のための恋愛映画を観る男の醍醐味なのだ。

(敬称略)

降参した歌 番外

2010-04-20 22:20:00 | 音楽
行く手に広げた黒い傘が落ちていた。近づくと、くるりと傘が回り、5歳くらいの女の子が肩に担いでいたのがわかった。私を見上げて呆然としている。私は犬とか幼児の視線をくぎづけにする存在らしい。ときどきこんな風に見上げられる。女の子は、小さな口をまるくして、「こんにちわ」とぎこちなくいった。「うん、こんにちは」と私も挨拶を返した。見送っている気配を感じながら、歩き過ぎた。このBill Evansのピアノは、雨音のようだ。

Bill Evans - Waltz For Debby

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証拠

2010-04-20 01:24:00 | 新刊本


『日本産業社会の「神話」-経済自虐史観をただす』(小池和男 日本経済新聞出版社)

帯文
「日本は集団主義の国」「日本人は会社人間」「長時間労働が競争力を強化」「成長は政府のお陰」-。日本を惑わす迷信を、労働経済学の第一人者が一刀両断。

目次
第1章 激しい個人間競争
第2章 日本の働く人は会社が好きか
    -意識調査の国際比較
第3章 「年功賃金」は日本の社会文化の産物か
    -戦前の日本の軍のサラリー
第4章 日本は長く働くことで競争力を保ってきたか
第5章 日本は企業別組合か
第6章 政府のお陰か
    -綿紡績業の展開


小池和男という人はよく知らないが、「はじめに」を読むと、最初の著作は、『日本の賃金交渉』(産業別レベルにおける賃金決定機構 東京大学出版会 1962)であり、その第1章は日本の繊維産業の賃金交渉を分析したものらしい。ほかにも、ゼロ戦や三井三池の労働争議についての論文もあるそうだから、とても古い人だ。今年78歳。自らを「老残」といいながら、本書では、日本の仕事や職場について、はじめて恣意にまかせて語ったような、失礼ながら「遺言」のような解放感がある。

 この本は、いままでのわたくしの本とは、やや違いがある。これまでわたくしは、すくなくとも本人の主観では、かなり証拠を集めたとおもわないかぎり、書かないように努めてきた。とりわけ職場で事情をよく知る人の話を聞き、それを一次資料として本を書いてきた。だが、すでに体力が衰え、職場への訪問を控えざるを得ない。しかもなお、年来わたくしが世にいいたいことが心にのこっている。それを書いた。つまり、やや証拠が足りないにもかかわらず、なおいいたい議論を集めている。そして証拠とはとてもいえないけれど、さまざまな国の職場での個人的な見聞も活用している。-(はじめに)。

なるほど、主観は証拠足り得ない。ただし、誰の主観でも、証拠足り得ない、わけではない。なるほど、あの人がいうなら、傾聴に値する。その人がいうのだから、裏づけはあるのだろう。そういうことは、ある。逆に、同じことをいっても、人によっては、まるで傾聴に値しない、どうせ、聞きかじりの知ったかぶりに過ぎないだろう、と判断される。そういうことも、ある。小池和男という人は、たぶん半世紀以上になろうとする研究者生活を賭けて、「わたくしの主観」を「証拠」のひとつと認めてくれないだろうか、といっている。

労働経済学という学問分野や小池和男の業績に不案内な読者にとっては、無理な注文である。しかし、困ることはない。本書を一読すれば、「証拠」が吟味されていることがただちにわかる。読了せずとも、第1章第2章を読めば、仕事への満足度や人事査定に関する調査データがきわめて少ないことが繰り返し述べられている。たしかに人事査定資料などは、どこの会社にとっても極秘だろうし、ましてや他国の企業のそれと比較するなど、調査設計から困難を極めるのは想像に難くない。仕事への取り組みや会社への忠誠心など、労働者の意識調査であっても、比較対照するには多国間に及ぶ大規模な調査事業が必要となる。

つまり、信頼に値するデータ(証拠)はきわめて少ないらしい。したがって、「日本は集団主義の国」「日本人は会社人間」「長時間労働が競争力を強化」「成長は政府のお陰」には、当然、「証拠」がないのである。また、そんな日本の反対として、よく引き合いに出される、アメリカの企業についても、そんな「証拠」はないのである。「証拠」がないということが、すなわち、「集団主義」「会社人間」「長時間労働による競争力」「政府のお陰」などが、「神話」や「迷信」にすぎないことの証拠となるわけだ。そして、きわめて数少ない、信頼に値する日米の調査資料という「証拠」に基づけば、むしろ、それら通念や通説を裏切る分析が成り立つという。

「日本企業はアメリカ企業より、むしろ個人間競争は激しい」「日本人はアメリカ人より、会社に醒めている」「長時間労働ではなく、創意と工夫が競争力を強化した」「経済成長は政府や官僚のお陰ではなく、民間企業の活力と技術革新によるものだ」と小池和男は結論する。ありもしない集団主義を克服しよう、あるいは、ありもしない集団主義を踏襲しよう、そうした誤解に基づいて、経済政策や企業方針が立てられることによる甚大な損害は、今日の格差社会の到来をみても明らかだろう。また、日本の労働者・会社員が、自らの仕事や会社について、はっきり「ハピーでない」と回答しながら、よい働きぶりをするのはなぜなのか。残された疑問や課題も大きい。

データ分析を主とするため、率直にいって読みづらいところもある。たとえば、第6章から読みはじめてもよいだろう。かつて紡績業は、現在の自動車や家電製品以上の輸出産業であった。国策会社がすべて潰れた後に、東洋紡のような民間会社が、低価格製品で追い上げる中国やインドの紡績業に、品質向上を対抗して生き残った技術革新の背景は、これらの「神話」や「迷信」に反する事実があった、などは、いま就職活動の真っ最中である大学3年生にぜひ読んでほしいものだ。また、労働組合丸抱え候補が少なくない民主党政権の問題を考えるには、第5章は必読だろう。

なるべく読みやすくしようとする工夫から、集団主義は「日本文化」という思い込みを否定するために、新古今集の撰者たちが選考に合議制をとらなかった例を挙げたり、日英のプロサッカーの席次を解説したり、自らの趣味に走った「証拠」を提示しているのも、好奇心旺盛な「老残」の日常を伺わせ、微笑ましく楽しい。

(敬称略)

 



カイジ

2010-04-14 01:04:00 | レンタルDVD映画
カイジ」はレンタル中ばかり。やっと、1本返ってきたところを借りることができた。累計1300万部売ったという福本伸行の原作マンガの人気だろう。観終わった。とくに言うことなし。



藤原竜也はたしか深作欣二の「バトルロワイヤル」にも主演していたはず。深作欣二映画に出た俳優は、以前にも書いた荻野目慶子もそうだが、どうして大仰な熱演になるのだろう。B級映画専門の深作作品にはスターは出てくれず、たしかに端役や脇役が目立とうとするエネルギーを集団劇の躍動感に転じていたが、いまでは悪影響に思える。

ただ、久しぶりに佐藤慶を見たのは嬉しかった。メークで隠しているが、だいぶ顔が変わったようだ。蛇のような眼光と冷笑的に歪む唇。かつてこの人を特徴づけていた表情の豊かさは失われていたが、声の張りは昔どおり。小さな役でも、仕事を続けてほしいものだ。ドラマ「不毛地帯」を観ながら、佐藤慶がいればなあ、と幾度となく思った。

(敬称略)