コタツ評論

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今夜はダニーボーイ

2015-06-28 00:32:00 | 音楽
私がはじめて、「ダニーボーイ」を聴いたのは、ハリー・ベラフォンテのハート・ウォーミングな歌唱だった。先日、この女性の「ダニーボーイ」を聴いて、へえっと思ったのでした。

Danny Boy - Sinead O Connor


最近では、セルティック・ウーマンの視聴回数が最多です。アンデイ・ウイリアムズ、ロイ・オービソン、ジョニー・キャッシュあたりも視聴回数の上位に並んでいますが、今夜は、アイリッシュ中心でお贈りします。

Danny Boy - Irish folk song (popular Irish songs)


Kelly Family - Danny Boy


太田裕美の「木綿のハンカチーフ」のような歌ではないかと、昔は思っていました。故郷を出て都会にいる幼なじみの彼(ダニーボーイ)に、恋人の娘が話しかけるように歌っている。

訳詞を読んでみると、家を出た息子を想う母の歌に思えます。「お前が帰ってきたとき、私はたぶん死んでいるだろうから、墓参りして祈っておくれ」という歌詞があるからです。ダニー坊やと田舎のママ。これは納得できます。

しかし、ならばなぜ、冒頭のシニーはあんな風に素っ気なく空しく歌ったのでしょう? Youtube がすべてではないが、まるでダニーボーイが死んだ弔い歌のように、痛ましい歌にしているのは彼女だけです。

検索してみると、どうも母親ではなく、この歌の語り手は父親説が有力でした。なるほど、それなら、いろいろな疑問やつじつまにも合点がいきます。

歌の背景を知ってみると、「ダニーボーイ」はどこまでもアメリカの歌であることがわかります。初期の移民を構成したアイルランド人の民謡が原曲だそうですが、アメリカでもっとも多く歌われ口ずさまれてきた歌のひとつとして、世界的なポピュラーソングになりました。

ハリー・ベラフォンテが世界各国でコンサートを開き絶大な人気を博していたとき、イスラエルのエルサレムでは、「ハバナギラ」を歌い、東京では「サクラ サクラ」を歌ったように、アメリカを代表する歌として、ベラフォンテは「ダニーボーイ」を歌いました。

イギリスの植民地から独立戦争に勝利して建国したアメリカには、「建国の父」はいても母はいません。「ダニーボーイ」の歌い手の多くが男性歌手によって占められているのも、父と息子の歌だからでしょう。それはすなわち、男たちのアメリカの歌ともいえます。

それを端的に示すのが、第一行目の「ザ・パイプスパイプス・アー・コーリング」でしょう。このパイプスの意味がずっとわからなかったのですが、パイプとは、バグパイプの音色のことでした。スコットランドだけでなくアイルランドでも、軍隊の徴兵や召集の際には、バグパイプを鳴らして戦意を高揚させ、志気を高めたそうです。

谷々から山々へ谺するバグパイプの音に耳をそばだてる、牧場や農場や荒地に汗して働く屈強な男たち。その傍らで彼らの仕事を手伝う少年たち。羊飼いや牛追いで牧草地や森や川を歩く犬を連れた青年たち。そんなアメリカンカントリーの情景を思い浮かべて下さい。

雨音や雷鳴、風の声や川の水音、鳥の声か家畜の鳴き声、たまに森の獣の声くらいしか聞こえない。そんな故郷の山間や谷深くから、遠く近く高く低く、巡り来るバグパイプの音を彼らは聞くのです。雄大な故郷の自然と開拓を賛美した、この一行にアメリカへの誇りを込めているのです。

極端にいえば、この第一行目は軍歌であり、それ以降は「銃後の父」を歌っているといえます。それをうがち過ぎといえないのは、何よりもこの歌が、惨鼻を極めたといわれる南北戦争の内戦を経て、第二次大戦から朝鮮戦争、最近のイラク戦争まで、20世紀をほとんど休むことなく戦争を続けてきたアメリカで歌い継がれてきたという歴史的事実に拠るからです。

西部開拓以来、アメリカは「女のいない男」たちの国であり、ミソジニー(女性嫌悪)の色濃い父系社会という社会心理分析は有名です。「ダニーボーイ」が父と息子の歌ならば、そこに母親はおろか女性の影形もなく、まったく男だけの世界であることも不思議ではありません。

さて、なぜ、丸坊主の彼女があんな風に歌ったのかは、自ずと明らかではないでしょうか。反戦の思いを込めて、「父と息子のアメリカ」への反歌なのです。「死んじまえ! くそったれの男ども!」というフェミニズムの憤りを胸に、しかし、そんな男たちの恋人や妻、母、姉、妹である悲苦を訴えているのです。

では、以上を勘案して、コタツ超訳「ダニーボーイ」(じつのところ、いくつかの訳詞のパクリです。ご容赦)を。

Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen, and down the mountain side
The summer's gone, and all the roses falling
'Tis you, 'tis you must go and I must bide.

('Tis you,は、Its you 、'ye,は、you のことです)

おお 我が息子ダニーよ 
谷から谷へ 山から山へ
召集のバグパイプの音が お前を呼んでいる
夏は過ぎ バラの花も枯れ落ちた
お前は戦場へ行き 俺はここにとどまらねばならない

But come ye back when summer's in the meadow
Or when the valley's hushed and white with snow
'Tis I'll be here in sunshine or in shadow
O Danny boy, O Danny boy, I love you so.


生きて帰ってこい 夏の牧草が輝くときでもいい
谷が雪で静かに白く染まるときでもいい
陽射しの日にも 曇りの日にも 俺はここにいる
愛する息子ダニー お前を心から愛している

But if ye come and all the flowers are dying
If I am dead, as dead I well may be,
You'll come and find the place where I am lying
And kneel and say an Ave there for me.

お前が帰ってきたとき
花がすべて枯れ落ちていて、
俺がすでに死んでいたとしても
お前は俺が眠る場所を見つけて
ひざまづき 祈りの言葉をかけることだろう

And I shall hear, though soft, your tread above me
And all my grave shall warmer, sweeter be
For you will bend and tell me that you love me
And I will sleep in peace until you come to me.


お前が柔らかく 俺の上の土を踏む音を
俺はきっと聞いている
そのとき墓の中で冷たくなった俺は 
子どもだった頃のお前の甘い匂いを思い出し
すこし暖められるだろう
きっとお前は ずっと父さんを愛してるといってくれる
お前が帰って来るそのときまで
俺は安らかに眠り続けるだろう

ビル・エバンスはアイリッシュではありませんが、心に沁み入ります。

BILL EVANS "Danny Boy" (Londonderry Air) Piano solo.


(敬称略)

今夜のピックアップ

2015-06-23 23:17:00 | 音楽
ちょっ、まて、おっさん、爪楊枝で指揮するのかよ! しかし、何度見てもおもしろい顔です。私が映画プロデュ-サーなら、即、起用しますね。ゲルギエフという名前も性格俳優っぽいし。

Bolero (Gergiev)


korea じゃなくて Corea ! chink じゃなくて Chick っ。やんなっちゃうなあ、最近は。チック・コレアも紹介できなくて。冒頭は、ご存じ、アランフェス協奏曲です。しかし、カエルみたいな顔だなあ。

Chick Corea - Spain - Live At Montreux 2004


まあ、コンビニの店員かと思ったら、凄い女の子がいたもんです。ジョン・リー・フッカーとこの曲は映画「Blues Brothers 」でも紹介していました。

【Rei】PLAYS... John Lee Hooker / BOOM BOOM


最近、気に入ってるんだ、これ。ヒッキーは官能的な声だが、ミリヤは歌いかたが官能的です。名曲 COLORS も歌ってほしい。

【フル】For You / 加藤ミリヤ 『宇多田ヒカルのうた』より


(敬称略)



私は眉を顰める

2015-06-22 00:51:00 | 政治
安倍首相をバカだアホだという批判が多い。首相の無知・無教養を執拗に挙げつらう背景には、安倍首相の成蹊大学卒という学校歴へ優越感がうかがえる。



自分は優秀だから東大をはじめとする一流大学に入ることができた。あるいは子どもの頃から一生懸命努力を重ねたから、一流大学に入ることができ、大手上場企業や官庁に就職できて、今日、階層上位にいる。

ひきかえ、岸信介につながる名家に生まれ育ち、受験期には衆院議員となった平沢勝栄を家庭教師につけられるほど環境に恵まれていたのに、傍流私立大にしか入れなかったと嘲笑しているわけだ。



高学校歴とは有形無形の家庭環境によって与えられたものに過ぎない、という今日の常識を踏まえない無知・無教養、ならびに受験学力と仕事の能力を直結する世間知らず。たしかに、そんな考えはまだまだ世間には罷り通っている。

しかし、いわゆるリベラル派にこれほど多く残っているとは思わなかった。憲法改定や安保法制などに反対する、政治家や学者・知識人・ジャーナリスト・専門職業人たちが、政府批判にからめて安倍首相をバカだアホだと公言しているのだ。


いうまでもなく、世間には大学に進学しなかった人は数多くいるし、成蹊大学を仰ぎ見るほどの下流大学もたくさんある。安倍首相へバカアホ呼ばわりは、そんな大多数の国民の反発を招き、かえって安倍支持を固めることにしか貢献しない。

また、自由と民主主義、護憲と平和など、きれいごとを並べて、そのじつ階層下位を蔑み、恵まれた立場を守りたくて改革を怖れる既得権益者に過ぎないのではないか。そんな疑念を呼び起こして、自らの影響力を低下させかねない。いったい、○○○○はどっちだろう?

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/fb/d8a7d88a15fa68e79281a4373ec0d4cb.jpg" border="0">

いや、バカをバカといって何が悪い、とまだおっしゃる? 少なくとも安倍首相は努力しています。前回よりはるかに首相としてましです。主義主張は別にして、そこは認めざるを得ません。それにひきかえ、この人は! 

日本のMITといわれる東工大に入学し、学生運動のリーダーから、市民運動の若きホープ、その後、リベラル派の若手政治家として政府自民党へ烈しく論戦を挑み、政権交代してからは首相にまで登りつめました。弁も立てば筆も立つ人だったはずです。

「イラ菅」と渾名されるほど、愚劣な返答や質問にはかんしゃくを破裂させたことを裏返せば、それだけ物事の理解が早く、頭の回転が速かったといえるでしょう。『大臣』(岩波新書)など何冊も著作をものしたそんな人が、いまや下掲のような文章を書いています。

たしかに、人には生まれながらとしか思えないほど優劣の差があることがあり、それ以上に努力が大きく人生を開くことがあります。しかし、必ずしも人は、成長や努力ばかりするとは、できるとは限りません。そんな当たり前のことをいまさらのように納得しました。

だから、焦らなくてはならないのは、ほかでもなく、あなたです、といいたくなります。(公式ブログですから、リンク先を示せば済むのですが、あえて全文を掲載しました。重大な誤字を保存するためです。このテーマで名前を間違えたら、迂闊ではすまず、ひどい弛緩としか思えません)

安倍総理の焦り
2015-06-21NEW
http://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-12041413260.html
!
 国会の会期延長が当面の焦点になっている。安倍総理は日本の国会に安保法制を提出する前に、アメリカの議会で「夏までに安保法制を成立させる」と約束。そのことが安倍総理の焦りを生んでいる。

 9月末までの会期延長という案も検討されているようだ。8月には終戦の行事やお盆もあり、国会も夏休みをとるのが普通だ。9月には自民党総裁選も控えている。

 安倍総理としてはアメリカに約束した夏までに何が何でも成立させる為には大幅延長が必要と考えているようだ。しかし、国会の議論を聞いていると安倍総理の答弁を聞けば聞くほど矛盾が深まるというのが多くの国民の感想だ。

 安倍総理の考え方が多くの国民にも次第に分かってきた。つまり、安倍総理にとって国民や日本の将来の事よりも、おじいちゃんである岸伸介元総理が実現できなかった憲法改正を実現することが「天命」と考えている政治家。その最初の一段階として集団的自衛権を閣議で合憲とし、それに基ずく安保法制を強引に成立させようとしている。

 おじいちゃんへの思いを大切にするのは一般の人なら褒められるかもしれないが、総理の立場で国民の意思を無視しておじいちゃんへの思いを重視するのは間違いだ。

蛇足ですが、「安倍首相はバカアホ」というのは、じつは「安全」な政府批判なのです。内閣、政府、つまり官公庁、そして、与党である自民党、公明党には、彼らと同じく東大をはじめとする高学校歴者や弁護士、医師などが数多くいます。

さらに、実際の政策立案者や唱道者、遂行者やキーマンは、アメリカや財界などにいたりします。安倍首相はその代表であるだけで、安倍首相によって、すべてが決定されているわけではなく、影響されているのでもありません。むしろ、彼らの「御輿」が安倍首相であると考える方が妥当です。

「御輿」ではなく、腕力も走力もある担ぎ手を批判して、その運行を止めようとした場合、向かってくる怖れがじゅうぶんにありますが、「御輿」に遠くから悪口雑言を浴びせてもせいぜい不興を買うくらいでしょう。バカにしながら、支配されるという一線を越えないかぎり、「彼ら」は安全なのです。

(敬称略)

半分しか正しくない

2015-06-15 00:50:00 | 政治
日本国憲法が民主的な手続きを踏んで発布されたという解説は、半分しか正しくない。

訂正のツッコミをいれた画像もどうぞ
https://twitter.com/konamih/status/609906878827466752/photo/1

もう半分は、戦前の、というか、直前の、というか、前身というか、手続きとして大日本帝国憲法を改訂したものであること。松圭さんの本にもそう書いてある。

ゲートの向こう側のアメリカ視線(映像)は、半分の半分しか正しくない。

沖縄・反基地運動の実態を告発した男 ロバート・D・エルドリッヂ氏 「第2の一色事件」の真相を語る
http://www.sankei.com/column/news/150611/clm1506110010-n1.html

沖縄の米軍基地を望んだのは、はじめは昭和天皇であり、後には政府自民党であること。彼らがゲートの向こう側の半分の半分を分け合っている。アメリカは終始、日本側の強い要請で沖縄に基地を存続させてきた。

ゲートのこちら側半分への批判にツッコミは多いが、「沖縄日本ではない」という視点を導入すれば、かなりクリアになるはず。「沖縄日本ではなかった」ではなく、現在進行形として。


私がはじめてジェームス・ブラウンの歌声を聴いたのは、沖縄の米軍兵慰問にやってきたコンサート会場(たしか、当時のコザ市)からのラジオ中継だった。曲名は、「セックス・マシーン」。


(敬称略)

だとすれば・・・。

2015-06-10 23:24:00 | ノンジャンル
川崎の少年殺しをほぼなぞったような事件がまた起きました。

川で不明の高1男子、遺体で発見 刈谷暴行
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20150610-00000008-nnn-soci

川崎のときと同様に、親は、教師は、周囲の大人たちは、かならず発していたはずの少年の救いを求めるサインにどうして気づいてやらなかったのか、なぜ予防できなかったかと、今回も取りざたされるでしょう。そうした議論を間違いだとは思わないし、注意深く子どもを見つめている大人がきわめて少ないということもよくわかります。その一方で、どこか非現実的な議論と感じ、お定まりの提言に思えるのは私だけでしょうか。

実験用のマウスを飼育した経験のある人なら、騒音や振動などのストレスにさらされると、マウスは共喰いをはじめることがあるのを知っているはずです。子どもたちのイジメ殺人も、子どもという種の共喰いかもしれない。ふとそんなことを考えました。

川崎や愛知の少年殺しには、女子も含めた5人程度が現場に居合わせたことがわかっています。ならば、犯行現場に居合わせなかっただけで、より多くの追随者がいたであろうことは想像に難くありません。暴力的な支配に長けたボスがいて、その命令に従った子分たちが犯行に加わったというより、誰が主導したかわからない集団の犯意(殺意?)の結果とみることもできます。

殺人にまで至ることは稀ですが、イジメの構造と共喰いはよく似ている点があります。あるマウスが興奮して、隣のマウスを威嚇する、いきなり噛みつく、周りのマウスも加わるか容認する、共喰いはそんな風にはじまります。なぜそのマウスが喰われるのかはわかりません。とりたててイジメられる要因が被害者にあるわけではないのです。いずれも、一見しただけでは、喰う者と喰われる者の見分けがつきません。

もちろん、狭いゲージに閉じ込められた過密と外部からのストレスという共通項はあげられるでしょう。ただ、比喩としてはあり得ても、実験用に飼育されているマウスと私たちの子どもの環境を同列に扱うのは、荒唐無稽に過ぎるでしょう。マウスなら、静穏な環境に戻れば、共喰いは止みます。人間の子どもとなると、マウスとは比べようもない、多様で複雑なストレッサー(ストレス要因)のゲージに閉じ込められていそうです。

あるいは、「この川を渡り戻ってきたら許す」などと自己責任による事故死を演出するといった保身にみられる大人顔負けの狡猾さは、彼らの発達した社会性を裏づけるものです。つまり、子どもたちのイジメとは、マウスのような共喰いであり、かつ共喰いではないのかもしれません。たんなる集団と共同体、あるいは社会は歴然と異なるものだからです。

そう留保してもなお、マウスの共喰いと子どもたちのイジメを同列視する言葉には気づかざるを得ません。なぜ予防できなかったか、サインに気づけなかったのか、注意深く観察していなかったのか、などは、マウスの「観察者」の「視線」と選ぶところがありません。共喰いをイジメを未然に防ぐ、期待される「視線」は驚くほど似かよっています。

だとすれば、こうとも考えられます。マウスの「観察者」の「視線」は少なくともマウスに向けられているが、私たち大人の視線は、灰色に鈍く光るゲージに向けられている。もっと率直にいえば、私たちの視線そのものが、子どもたちにとってというだけでなく、自身にとっても、すでにゲージになっていないと言い切れるのか。

子どもという現実を見失っているのではなく、ゲージという異なる現実に眼を奪われているのでもなく、ゲージそのものとして、「観察者」を探し求めてその不在を嘆いている。ゲージは、マウスからの凝視と「観察者」のまなざしと合わさって、はじめてゲージ足り得るからです。私たち自身がゲージ、だとすればという超現実。そこで、話しは振り出しに戻るわけです。