コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

手紙

2007-11-21 00:21:53 | レンタルDVD映画
http://www.tegami-movie.jp/

DVDレンタルではなく、CATVで。

思わぬ拾いものだった。
兄・剛志(玉山鉄二)が刑務所の慰問に来た弟・直貴(山田孝之)の舞台姿を拝むクライマックスシーンで、不覚にも泣かされました。

舞台の上で久しぶりの漫才をするという以上に、兄が服役している刑務所に来て動揺している直貴は、兄・剛志をそれと認めることはない。私たち観客も、坊主頭ばかりの服役者たちの中で見分けがつかず、必ずいるはずの剛志をなかなか見つけられない。ただ、遠目にでも弟と会えた感謝の祈りを捧げる剛志の合掌の姿が映される。

ここで、カメラは剛志に寄らない。その頬を濡らしている涙で剛志の視界が曇っているのと同様に、剛志の表情の輪郭はぼやけている。服役者中の一人という構図より近くには剛志に近づかない。よく考え抜かれた再会シーンだと思う。

凡庸な演出なら、舞台の上と下から兄弟は互いを認め、涙顔のクローズアップとなるか、もっと凡庸な演出なら、さらに舞台の後に刑務所の計らいで二人が対面するという愁嘆場をつくるところだが、そうはしなかった。

それまで送られた「手紙」のように、兄は遠くから弟だけを思い、弟は兄の犯した罪によって世間に苦しめられながらも、なんとか世間に居場所を見つけようとしている、そんな二人の立場と視野を象徴する場面とした。

原作は読んでいないが、「犯罪者の家族は差別されて当然だ」という科白にみられるように、あるいは、被害者の息子である緒方(吹越満名演!)が「もう終わりにしよう」というところなど、犯罪の加害者と被害者の責任と心の均衡をよく測った脚本は、原作に拠るものらしい。

坊主頭で合掌する玉山鉄二の姿が、どこか南方で戦死したまま骨を晒している兵隊さんの幽霊を思わせて、哀切だった。ただ、まるで死者のように、剛志に人間臭さがないのは原作の造型だろうか。「手紙」の中でほんの数行、あるいはわずかな刑務所のシーンでも、更正一途だけではない剛志の日々の喜怒哀楽を見せてほしかった。

しかし、それでも吉岡秀隆の演技の影響から脱せない山田孝之より、玉山鉄二に印象が深かった。「日本の役者は、兵隊とヤクザを演らせると上手い」といった監督がいたが、なるほど坊主頭がよく似合っていた。

昔なら、吉永小百合が演ずる役どころが沢尻エリカ。若いが完成された女優だと思った。一人の職業人に対して、やり遂げた映画の上映に先立つ舞台挨拶の場で、「スタッフの皆さんにお手製のクッキーを差し入れたそうですが」などと仕事とは無関係な質問をされて、年若いとはいえそのキャリアを否定するような少女扱いに、ムッとしたのは当然と思える、立派な演技だった。

まだ、涙が多すぎたと思う。が、これも佳作だろう。

しゃべれども しゃべれども

2007-11-19 21:23:44 | レンタルDVD映画
『ダイハード4』とどちらを観ようかと迷った。この映画を観て、日本映画は案外おもしろい位置にいるのではないかと思った。

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD10582/index.html

美人だが、つっけんどんな話し方しかできず、男に振られた女。大阪弁のしゃべりのせいで、クラスに溶けこめない転校小学生。あまりの口下手で野球解説をクビになった元プロ野球選手。ふとした縁でまだ二つ目の今昔亭三つ葉の話し方教室に通うことになり、「まんじゅう怖い」を習いはじめるが、という話。

衝撃的な事件は起こらず、思い巡らすような謎は示されず、火花散るような激情もない。ローカルな日本の東京ローカルの下町で、コミニュケーション下手な男女が、落語というこれまたローカルな話芸を入り口にして、戸惑いつつ心を開き互いを受け入れていく、そんな物語だ。

淡々とした日常に起きる小さな出来事やちょっとした会話に、気持ちが揺れ心が動き、次の小さな出来事やちょっとした会話に繋がっていく。こんな風に、こじんまりと日常を描いて心地よい映画は、もしかすると、日本でしか作れないのかもしれないと、ふと思った。

アメリカ映画のように世界マーケットを背負わず、ヨーロッパ映画のようにアメリカ映画に拮抗しようと肩肘張らず、韓国や中国映画ほどソフトパワーの輸出という国策を担ってもいない。もちろん、インドや東南アジア諸国のような娯楽の王様の地位はとっくに失い、かといって何か啓蒙や芸術を目指すというわけでもない。

日本人観客向けというローカルなマーケットで、興行収入から製作費と宣伝費が回収できて、ビデオDVDとTV放映権料で利益が上がればいい、という程度の商業主義で作られた映画を観ることができるのは、稀な幸運かもしれないと思ったのだ。

多様な嗜好を持つ中間層が、「適正規模」の映画マーケットを形成しているとすれば、それは日本以外にないのではないか。

ただし、市井の日常を淡々と描くといっても、痛切な民族誌的郷愁に裏づけられていた、かつての小津や成瀬作品とは似て非なるものだ。『東京物語』はすでに喪われてしまった東京の物語だった。戦後はもちろん、彼らの戦前に封切られた作品でさえ、先の敗戦の記憶をそこに重ね合わさずにはいられないものだ。

まだ起きていない出来事を感じ取ることを予感というが、ちょうど、漱石の『坊ちゃん』が、痛快無比の青春小説ではまったくなく、「坊ちゃん」や「山嵐」、「うらなり」が時代に負けて四散していく、まるで戦争に突入していく日本の暗い未来を暗示したかのような結末と同様に、小津や成瀬の映画には滅びの色と匂いがある。

この『しゃべれども しゃべれども』は、そうした民族誌的な記憶の束縛からは自由である。もしかしたら、それは何か新しい、少なくともある特異な立ち位置ではないかと思ったのだ。とりたてて語らず、さりげない仕草で、しかし人々のかけがえのない人生が描かれている映画が、日本から次々と生まれてくるなら、それは喜ばしいことだろう。

三つ葉を演ずるTOKIOの国分太一が爽やかな好演。「火焔太鼓」の一席は見事といっていいのではないか。悪評紛々たるジャニーズ事務所だが、若い才能を押し出す力はやはり図抜けている。ヒーローやハンサム、ヤクザやキチガイではなく、平凡な男を好ましく演じられるジェームス・スチュアートや小林桂樹のような俳優は、いつでも貴重だ。

また、伊東四朗扮する師匠・今昔亭小三文の「火焔太鼓」は、さすがにそれ以上。伝法な八千草薫の「まんじゅう怖い」を聴けるのも楽しい。一人芝居として、科白のように落語を語るのは、いかに上手くとも落語ではないという落語ファンの声が聞こえそうだが、なまじの落語家の顔色なからしめる説得力と楽しさがあったのは間違いない。

傑作でも名作でも秀作でもなく、ましてや問題作などではなく、話題作ともいえないが、月見草(@太宰治)のような佳作を日本映画は作り続ければいい。

うん、やはり最後の抱擁シーンは不要だった。手を繋ぐくらいでよかったと思うな。

森本健成問題について

2007-11-13 11:54:24 | ノンジャンル
以前に朝7時から放送されているNHK『おはようニッポン』アナウンサー、首藤奈知子さんのきわめて保守的な服装について疑問を呈した。

http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/archive?b=15

今回は、『ちりとてちん』が終わった8時30分のニュースに登場する森本健成アナウンサーについて指摘しておきたい。

彼の問題は服装ではなく、髪型である。毎朝、変わるのである。ある日は後ろへ撫でつけたかと思えば、右から流したり、左からにしたり、ディップで少し尖らせたり、前髪を櫛の目のように揃えたり、無造作にいくつかの束にしたり、この一か月間だけでもめまぐるしく変わっている。逆にいえば、髪型が決まらないのだ。

NHKは不偏不党の公共放送として、公益性を標榜してきたのは周知の通りである。そのNHKが8時30分のニュースという朝の顔の一人に森本健成アナウンサーを起用したのに、とりたてて不満はない。ただ、森本健成さんが日々、大胆にあるいはわずかに髪型を変えていることの悪しき影響について、NHKは気づいていないのではないか。それとも気づいていて放置しているのか。とすれば、いったいどうしてなのかと困惑している視聴者は俺以外にもけっして少なくないと思われるのだ。

出勤前のあわただしい時間に、昨日から続いている出来事、今朝起きた事件、今日の予定を押さえておきたいという視聴者が朝のニュースを視ている。通勤に利用する電車は滞りなく動いているか、道路は渋滞していないか、雨は降らないか、などである。そんな今日に役立つ生活情報を求めている視聴者に、不要不急な森本健成さんの髪型を気にさせてしまうとすれば、いささかなりとも公益性を損なってやしないかと懸念するのである。私たちは、何かを気にしている人を見ると、その人が気にしていることが同じように気になるものだ。

たとえば、電車の中で、一心に枝毛をつまみ切っている女性を見つければ、どうしてもその女性の多少寄り眼になった顔や枝毛を探す器用な指先から眼を離せず、やがていらいらしてくるという経験は誰しも持っているはずだ。森本さんの髪型が変わるのが気になるのは、この枝毛を気にする女性が気になるのと同じことだという見方もあるだろう。そんな些細なことを気にするほうがおかしい、見なければいいのだと。

しかし、枝毛取りの女性がTV画面に映されることはないが、森本健成さんとその髪型は毎朝TVに登場して、チャンネルを切り換えない限り、否応なく眼に入るのである。電車の中と公共放送番組は同じ公共圏であるが、その影響範囲は比較にならない。また、枝毛をつまみ切るという行為は、そこにいささかなりとも政治性を帯びることはない。私的な身づくろいを電車の中で行っている不快さは、人前で楊枝を使ったり、肩に落ちたふけを払ったりするのと同様に、見場の悪いマナー違反ではあっても、ことさらに咎め立てされるほどのことではないだろう。

しかし、森本健成さんの髪型いじりは、その行為がある種の人々を間違いなく直ちに不快にさせ、不安にさせると容易に推測できるのである。まず、全国数百万人の禿頭の人々、そして全国数千万人の「髪の毛が薄くなったかな」と気にしている人々に、自らの髪と髪型について不必要に気にさせるきっかけを与えていることは間違いない。気にせずにおこうとようやく自らを律している人々に、強制的に禿や薄毛を思い起こさせようとしている、徒に刺激しているといわれても返す言葉はないはずだ。少なくとも、そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない。「ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」に配慮するのが当然の時代にあっては、自明のことだ。

鳥越俊太郎や佐藤浩市のように、初老や中年に至っても黒髪が溢れているような人は、こうした毛髪に不自由な毛髪弱者の人々にとって、もちろん愉快な存在ではない。おもむろに髪をかき上げる仕草に、メルセデスのスポーツタイプやフェラーリをこれ見よがしに乗り回す成金と同様な「持てる者」の傲慢さを感じる場合もあるだろう。しかし、毛髪弱者の人々も、鳥越俊太郎や佐藤浩市が、拝金主義者のように選択や願望の結果そうなったのではないことは知っている。毛髪弱者の人々に若年は少ないから、遺伝や宿命はあるという大人の分別は持っているのである。

しかし、そうした大人の分別をもってしても、森本健成さんの髪型いじりは、彼ら毛髪弱者にとって正視に耐えがたいのではないか。同じ「持たざる者」のあがきを毎朝見せつけられなければならない不条理に困惑してやしないか。もちろん、森本さんに罪はない。石持て打たるるべきは、やはり、首藤奈知子さんの保守に偏った服装について論じたときと同様に、周囲の番組プロデューサーやディレクターの感性に露呈する、NHKの「ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」への配慮の乏しさである。

「森本ちゃん、今朝の髪型決まっているね」「はあ」というあり得る会話に、嘲笑と赤面を想像しないとすれば、その人は他者と自分をも「見えない人間」(L・エリスン)として、規定していることに他ならない。

さらに、森本問題にはもうひとつの重要な背景がある。森本さんが毎日髪型をいじるほど気にせずにいられない毛髪弱者になりかかっているとすれば、スタジオ内の強烈なライトに日々当てられ、乾燥した埃まみれの空気を頭皮に晒されているからにほかならない。艶やかな黒髪に明眸皓歯の新人アナウンサーが数年も経てば、生え際が大幅に後退したり、ごま塩頭や白髪に変貌していく様は、誰しも知るところであり、親近感を抱いた孫ほどのアナウンサーを見ては、「若いのに気の毒な」と心を痛めている老婆もいるという話も聞く。

森本アナウンサー個人に対して、「PC:ポリティカル・コレクトネス=政治的な公平」への配慮が乏しいとか、分別ある大人としては見苦しく潔くないという非難を軽々にすべきではないのは、彼がこうした職業病の被害者であるという側面を看過し得ないからである。

もう一度、「森本ちゃん、今日の髪型決まっているね」「はあ」というあり得る会話を想像してほしい。「~いるね(笑)」としてみたとき、手が震えるほどの怒りを感じないだろうか。頭髪の激減という職業病に悩まされた一人の中堅アナウンサーが、いささか神経症的にその欠損を補おうとあがいている様を、それを毎朝見せられて我が事のようにハラハラしている視聴者を、まとめて嘲笑する(笑)ではないか。

そこに、NHKの盲目的な多数派への信奉、つまりは権力政治への無自覚な指向と、身近な人権侵害を無視できる非知性的な怠惰を伺い知るのは、けっして俺だけではないと信じる。(「盲目的な~信奉」もPC上問題ありだが、PCを教条主義的に利用しているのではないかという誤解を避けるために、あえて使用した)。

誤解なきよう付言すれば、俺は毛髪については「持たざる者」ではない。しかし、「持てる者」でさえ、森本健成さんの毎朝の髪型いじりについては、これくらいは考えるのである。ならば、「持たざる者」の心中いかばかりかを思うのである。

ただし、森本さんに上記のような動機はまったくなく、たんにもう少し格好良く映りたいと自惚れている、というわずかな可能性も排除するわけにはいかない。その場合は、NHKに訂正して陳謝したいし、森本さんには、「朝っぱらから、余計な心配させるな!」という苦言を呈したい。

ちりとてちん

2007-11-11 01:51:05 | ノンジャンル
http://www3.nhk.or.jp/asadora/

ほんの少し前まで、朝のNHK連続ドラマを欠かさず視聴するようになるとは、想像だにしていなかったが、毎朝、『ちりとてちん』を楽しみにしている。脚本・演出・役者と三拍子揃って、すこぶる上出来なのである。小浜の箸屋から上方落語一門・徒然亭に舞台が移ってさらに好調。新橋演舞場に掛けたいほど上質の軽演劇になっている。

第一は、徒然亭一門に草鞋を脱ぐ和田喜代美役の貫地谷しほりがすこぶるチャーミング。福井は小浜の冴えない女子高生が一念発起して大阪に出てきたらしく、ファッションセンスゼロの服装がよく考えられている。実は、ビーコ(喜代美のあだ名)はコンプレックスを抱くエーコより、はるかに美形な顔立ちなので、このくらいデブッと見せるあか抜けない恰好をさせなければ、悩めるパッとしない女の子に見えないし、だからこそ左斜め45度の笑顔が観音菩薩のように美しく映えるのだ。

役者陣はどれも好演しているが、第二は徒然亭草若役の渡瀬恒彦。ちょっと談志風の役作りだが、飄々として男の稚気と色気が藍染めの手拭いのように、鮮やかに染み出て絶品。ひょいと肩を落とした歩き方が落語家らしくて粋だ。復帰して和服姿の師匠になる草若を早く観たい。元芸者の喜代美の祖母役の江波杏子も、ドラマの軽さに重石を加えて円熟。母親役の和久井映見のとんちんかんぶりも、そのとろくてのんびりした小浜弁と相まって可笑しい。

第三は、上方落語一門を舞台にした企画。といっても、コテコテの大阪弁を使わず、落語通には不満だろうが、噺を劇中劇にするなど工夫が楽しい。落語が好きでたまらない人間を品よく描くところに主眼が据えられていて、上方落語に興味のない人でも魅きこまれてしまうはずだ。ほんの触りだけといっても、さすがに役者たち、落語が上手く聞こえるのも驚きである。

「ビーコ」から「喜代美ちゃん」と呼ばれるようになって、やがては草若の弟子入りして落語家になるのだろうが、いまの貫地谷しほりしか様にならない「ゲッ」と目を丸くして驚く少女漫画的演技(可愛い!)をどう落語的演技に昇華させていくのか、とても楽しみである。貫地谷しほり、大女優になる。渡瀬恒彦、役所広司を抜く。

ステッキ

2007-11-09 02:17:16 | ダイアローグ
Oは自らの余命が残り少ないと知っていた
政治家という激務を続けられるのも
せいぜい後数年だろうと思っていた
次の衆院選までが最後のチャンスだ

老人の使いから自宅に電話があった翌日
議員会館の執務室を訪ねてきた
一席設けるからぜひ
とその使いの元首相はいった

話の内容は驚くべきものだった
アメリカ大使の面会さえ断ったOだが
迷った末に断わらなかった
魅力的な提案だったからではない

逃れられない罠を仕掛けられた
と思ったからだ

90歳を越えた老人は
「O君」と垂れ下がった唇を振るわせ
しかし相変わらず生臭い眼を見据えて
国政の責任を説いた

国会議員の誰をも「先生」とは呼んだことがない
この老醜の傍らにはもう一人の
元首相がいた

前の首相をすげ替えて1カ月も経たぬのに
次はOを首相にするという

老人の股間に立てかけられた
ステッキに眼がいった

その握りに両手を合わせ
顎を乗せたまま
「君にとっても最後のチャンスじゃないか」
と老人はOの心臓病を仄めかした

横に侍る元首相も
使いに来た元首相も
引導を渡された前首相も
いまと同じように宣下されただろう現首相も
そして次期首相といわれた自分も

この老人にとっては
あのステッキのようなものかもしれない
老人斑の浮き出た手甲で握られ
涎が垂れた顎を載せられる
棒に過ぎない

弁舌に熱を帯びて
老人は激しく咳き込んだ
Oはこの老人より長生きできるだろうか
と胸に問い
気づかれぬよう嘆息した

長生きしたいと思った