コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

宮城さん呆れる

2012-10-31 01:14:00 | 政治
Wikipediaの「普天間飛行場」をのぞいたけど、酷いデマが書かれている。
http://twitter.com/nagonagu/status/263156845533876224
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慎太郎80歳!

2012-10-26 02:59:00 | 政治


以前の写真は、髪が真っ白だったのに、最近は黒髪と半々くらいになっている。上手い床屋に通っているなあ。スーツもよい仕立てだ。西洋式にバーバーとテーラーと呼ぶのがふさわしい。紹介してほしいくらいだ。

都知事辞任して新党結成するんだとTVは大騒ぎ。明日には新聞も大報道。「後継知事は?」と記者会見で問われて、「猪瀬副知事でじゅうぶん!」といったので、おお、伸晃を後継にするつもりじゃないのかと一安心。橋下援護のために、このタイミングの辞任と新党発表なら、なかなかいいとこあるな、ジイさんと。

尖閣問題の紛糾にからめて、日本企業に巨額の損害を与えた張本人という批判が、左翼系やリベラル派の論客たちから出ている。すると、中国人民の格安の労働力で儲け続けたいという悪しきグローバリズムを是認することになるが、それでいいのか。ふだん云っていることの整合がとれるのか? 

企業の懐を心配したことなど、つまり国民経済のことなどこれまで眼中になかったはず。少なくともおのれにその責任が生じることなど、想像的にさえ一瞬たりとも考えたこともなく、想像上の一般市民の立場から安全そうな異議申し立てを選んできただけなのに、いまさら日本企業が受けた損害を憂慮するインサイダーみたいな口振りには、まったく呆れるね。

それに、直接的に日本企業へ被害を与えた中国を言上げせず、そもそもの原因は石原慎太郎にあるというのでは、中国の主張をオウム返しにしているに過ぎない。実際の一般市民の多くは、中国の暴挙に怒ってるよ。

もちろん、俺は石原慎太郎の言動のほとんどについて賛成しかねるのだが、必ずボロボロになるのが目に見えているのに、齢八十にして、「政界再編」に棹さそうとする、この「愚挙」にはいささか心動かされた。橋下は石原の下にはつかないだろうから、「政界再編」以前に、「新党」さえ必敗は必至なのだが、「必死だな、慎太郎」と嘲笑う気にはなれない。

(敬称略)

今週の誤変換 気にはなれない → 気に離れない
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司法文学に花束を

2012-10-24 00:05:00 | ノンジャンル
被害者のパソコンを不正操作した真犯人誤認逮捕した上「自白」させた警察警察発表そのままを垂れ流したマスコミ、という順で罪科の軽重を問われるべきだが、警察とマスコミを告発糾弾すべき市民代表でありながら何もしない国会議員、と連鎖は続くので、一過性の騒ぎとしてすぐに収まるでしょう。

以下は、>>言葉の綾掲示板 http://9101.teacup.com/chijin/bbs に、秩父市の文学愛好サークル「武甲文学」主宰のF氏から寄せられた投稿です。掲示板に掲載するにはかなり長文のため、ご本人の承諾を得てこちらへ転載しました。やや難解なところも見受けられますが、洞察に満ちた論考と判断しました。

  

ポエトリーカフェ武甲書店 埼玉県秩父市東町21-1 
西武秩父線 西武秩父駅下車徒歩5分 秩父鉄道 御花畑駅下車徒歩1分


(転載はじまり)

霞ヶ関文学の高峰のひとつに数えられる司法文学(裁判所・検察・警察)に、またまた秀作が登場したことを寿ぎたい。陸山会事件の石川知裕供述をめぐる捜査報告書>に続く、今年度の刮目すべき収穫といえる。今回の創作ジャンルは上申書である。

左翼・右翼の政治犯や職業的犯罪者が自ら書く場合を除き、たいていは練達の司法文学者の熱心な指導によって、ようやく上申書が書き上げられる事例が多い。およそ世に出る文芸作品の多くは、執筆者と編集者の二人三脚の産物といわれるが、司法文学者が編集者として携わる場合、執筆者への叱咤激励はいささか度を越しているといえるほどのものらしい。

主人公の行動や心象のみならず、その内面の葛藤にまで遠慮会釈なく立ち入り、行為行動の論理的な意味づけから倫理的な着地まで、執筆者の考想を吟味するだけでなく、先取りして示唆することもあり、著者をして「自分が書いたとはとても思えない」と驚嘆させることも珍しくないといわれる。私も多少の経験を有するが、創作指導の困難と醍醐味をよく示す逸話といえる。

官許といえども、霞ヶ関文学、司法文学も大衆文芸の一派に変わりはない。記述に説得力をもたせる具体的な事実の開示とさりげない伏線の暗示、切迫した心理と葛藤の描写、読者の心をえぐる真実の発見と魂の叫び。そうしたドストエフスキー的に重厚な結構という司法文学の伝統を押さえつつ、けっして高踏高尚に構えず、現代の息吹を感じさせる通俗性が求められる。

司法文学の練達した書き手であり、長年の読者でもある判事は、あらかじめ決まっている「回心と贖罪」というテーマよりも、伝統を再起再生するトリビアルな事実が帯びる現代性こそ注視している。テーマと構成が決まっているために、モチーフにしか興味関心の対象が残されていないという側面もあるが、モチーフ(動機)が「告白」に強く結びつくと信じられている。

いうまでもなく、司法文学は告白文学の面貌を持つものだが、告白に至るまで主人公に起きるさまざまな事象が告白と行為の連関を跡づけ、物語の信憑性を裏づけるものと司法文学界においては広く認められている。また、この現代性に通じるさまざまな事象の理解と把持において、判事における読み手の特権性が付与される、という一般的な期待が込められている。

換言すれば、モチーフと告白の間、そこに散見するさまざまな事象における、関係と無関係の間、すなわち意味と無意味の間、それらが行為行動をして決定せしめる。いわばカミュ的な不条理を認めていることになろう。「今日、ママンが死んだ」ことを、これら相関の間において、どこにどのように回収するかは、ただただ判事の判断に委ねられる。しかし、それは恣意を意味しない。

ドストエフスキー的に信仰的な結構と、カミュ的に不条理な心象が混淆されたものが司法文学の構造とされるが、その躯体となるのは、水戸黄門の印籠的な権威性や大岡越前守のお白州的な権力性に他ならない。結構は司法に、行為と心理は主人公に、権威と権力性は判事に担保される。つまり、判事こそもっとも世俗的であり、通俗性を一身に担うといって過言ではない。

したがって、司法文学の使命は、読者である判事の権威権力性を承認しつつ、そのアイデンティティである通俗性を揺るがす挑戦であるという矛盾したものになる。この矛盾をすり抜ける狭隘な道筋を示すのが、警察の取調べ担当や検察の検事、あるいは弁護士といった司法文学者たちなのである。それはマンネリズムとは真逆の、きわめて困難な試みであり、真に創造的な営為といえよう。

文学はおろか、手紙さえ満足に書いたことがない「ド素人」が、司法文学がもたらす伝統的な物語カタルシスに奉仕しつつ、現代性を鮮やかに解体する作品を書き上げる。いかに監禁状態とはいえ、最長わずか2か月間の拘留期間という締め切りの内に、これを成し遂げる。その驚倒すべき創造性の秘密は、執筆者以上に主人公の固有性を確信する、彼ら司法文学者たちの努力と精進にある。

以下は、読売新聞に掲載された作品「上申書」の一部抜粋である。

「鬼殺銃蔵おにごろしじゅうぞう」という名前について、「鬼殺は日本酒の商品名。13が不吉な数字だからジュウゾウと読ませようとした」との説明や、「楽しそうな小学生を見て自分にない生き生きとしたものを感じ、困らせたかった」との動機が書かれている。また、襲撃予告先の小学校を選んだ理由について、インターネットで二つのキーワードで検索した結果、「一番上に出てきた」としている

19歳の少年が日本酒名を熟知している意外性、池田小事件を踏まえた不条理だが痛切な動機性、検索結果の最上位を尊重する無垢性など、瞠目すべき多様な表現を駆使して、高い透明度を獲得していると記者も絶賛している。

編集の可視化という司法文学にとって致命的な危機がとりざたされるなか、それに抵抗するが如く、近年の司法文学はますます健在ぶりを示している。最後の輝きを発しているのではないかという懸念もあるが、司法映像などあり得ないという思いは、司法文学関係者のみならず、広く文学愛好者に共通することを保証して、拙稿を終わりたい。

F拝

(転載おわり)
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いいじゃないの大泉洋! 

2012-10-21 00:43:00 | レンタルDVD映画
松田龍平が探偵で大泉洋がその運転手かと予想していたら、逆であったという嬉しい展開。

探偵はBERにいる
http://eiga.com/movie/55983/



誰でも思いつくだろうが、大泉洋には実写版の「ルパン3世」とか、映画化された「狼男探偵・犬神明」を演らせてみたい。あるいは、日本を舞台に翻案したフィリップ・マーローやルー・アーチャーでもいいのだが。ポール・ニューマンのように、腕っぷしは弱そうにみえてやっぱり弱い、けっして気弱ではないが心弱い、そんな弱さの可笑しみが大泉にもある。

探偵像としては、映画版「ロング・グッドバイ」のエリオット・グールドに近い。自虐的なコメディ風味と母性をくすぐるキュートな加減、これにペーソスの塩梅がくわわれば、セクシー ONE NIGHT STAND というわけで言うことなしだが、まだ大泉は若い。これから年齢を重ねれば身についてくるだろう。人生を捨てた苦味や生き抜こうとする凄みとともに。

ハードボイルド探偵映画の見所のひとつは、ハードボイルド探偵小説を読むのと同様に、一人称の探求と情動の世界に浸ることだ。そこでは台詞(セリフ)はなく、独白(モノローグ)する壁打ちと会話(ダイアローグ)のラリーが息づいているものだ。原作のものなのか、シナリオで加えられたのか不明だが、笑ってしまったいくつか。

これから雪中に生き埋めにされようかという探偵(大泉洋)。猿轡をかまされてモゴモゴ云っている。サディストのヤクザ(高島政伸!)が配下の一人に命じる。
「はずしてやれ」
猿轡をはずされるや否や叫ぶ探偵。
「誰かー、助けてえー!」

別口から拉致されて椅子に縛りつけられている探偵。手ひどく殴られ蹴られたあげく、「殺すぞ」と脅される。
「いまやっていることから、手を引けと云ってるんだ!」
「いまやっていること?」
「そうだ、いまお前がやっていることだ」
「はて、北方領土返還運動のことか?」

こんな減らず口が、大泉洋によく似合う。だから、いたじゃないの「寅さん」の後継がさ。寅さんもああ見えて、家庭の安寧秩序に背を向けるハードボイルドの人。減らず口で世間をしくじりながら、減らず口叩くのを止められない。それは含羞を覆い隠す殻だからだ。この映画、シリーズにすれば化けるかも。

「アマルフィ 女神の報酬」とか「アンダルシア 女神の報復」なんてつまらん映画で商売するより、ずっとヒットやロングセラーを狙える素材じゃないか。日本映画界に払底しているのは、監督でもなけりゃ俳優でもなく、そういう狙って当てる「商売気」を持て余しているプロデューサーなんだよな。街の匂いがするような、札幌ロケが効いている。

(敬称略)
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今夜は清志郎

2012-10-20 02:07:00 | 音楽
先人の歌をcoverするとき、歌手の実力がよくわかることがある。プレスリーの「LOVE ME TENDER」はcoverするにはやっかいな歌だろう。歌詞もメロディも単調で、プレスリーの甘い声だけでもっているような曲だからだ。

忌野清志郎 LOVE ME TENDER 【放射能はいらねぇ!】


この人がRCサクセションでデビューしたとき、こちらが学生だったせいもあるが、学園祭バンドに毛が生えたくらいの印象だった。いまはなき、「11PM(イレブン ピーエム)」という深夜枠のお色気番組に、サザンオールスターズと一緒にRCサクセションが出演したときを覚えている。

桑田佳祐は「勝手にシンドバット」を、忌野清志郎は「雨上がりの夜空に」を歌った。桑田はくにゃくにゃ腰を振り、清志郎はゆらゆら身体を揺らしていた。演奏が終わると、今日でいう「オヤジ」を代表して、司会の藤本義一とゲストが、「君たちがこれから売り出すためには」と審査員めいた一言を述べるという企画コーナーだった。

藤本義一は小説家らしく、歌については触れず、歌詞についてのみ、二人に苦言を呈した。「勝手にシンドバット」には、「何を云っているのかよくわからない」。「雨上がりの夜空に」には、「言葉の使い方がいまいち」と。なんたる不明と思うかもしれないが、TVタレントとしての藤本義一が発するコメントは、たいてい陳腐であるか、ズレていることが多かった。だが、美女のビキニ姿を目当てに「11PM」を観ていた、桑田や清志郎とほぼ同世代で学生だった俺も、ほぼ藤本義一に同意していた。

藤本義一の寸評を聴く桑田佳祐と忌野清志郎の態度はいずれもふまじめに見えたが、対照的なものだった。桑田は腹をのけぞらして笑い、腕をぶんぶん振り回すギャグマンガ的な身振りで笑いを取ろうとした。清志郎は歌い終わっても身体を左右に揺らしながら、うつむいてあのニヤニヤ照れ笑いしていた。たぶん、藤本義一は「雨上がりの夜空に」の歌詞について、叙情的な気分は出ているが、「まだ稚拙だ」といいたかったのだろう。藤本は『人肉サラダ』という名作をものした優れた小説家である。

この清志郎の「放射能はいらねぇ!」の歌詞を知ったとしたら、やはり藤本義一は同じことを云うだろうし、俺もやはり藤本に同意する。ただし、デビューから40年を経てなお稚拙だとすれば、それは巧拙を越えて選びとった言葉のスタイルともいえる。桑田佳祐も忌野清志郎もデビュー時から、すでに完成形だったのかもしれない。清志郎のLOVE ME TENDERを聴いていると、そうした言葉のスタイルとは別に、この人がとても優れた一人の歌い手だったことをあらためて知る。「反原発の歌」として記憶されていくには惜しい、清志郎のLOVE ME TENDER COVER である。

(敬称略)
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