コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ラジオで聴いていたWBC決勝

2006-03-22 14:04:46 | ノンジャンル
「子どものようになって」という選手のコメントが紹介された。キャッチボールからはじまり、三角ベース、草野球から、プロのグランウンドまで踏むようになった彼らが子どものように喜んだようだ。プロの一線級の選手ともなれば、誰しも個人主義で個性が強いもの。個人の成績はもちろん、チームへの貢献もすべて金が絡んでくるビジネスである。そんな日常から、子どもの頃に還った一瞬がゲームのさなかにあったのかもしれない。はじめて新しいグローブの皮の匂いを嗅いだときの晴れがましさ、青空に浮かぶ白球を見る浮き立つような透明感、グラウンドの仲間を見回すときの一体となった安心感、声援を送る観客に同調する逸る気持ち、相手選手たちの真剣な視線に少し怯む心・・・。もしかすると、世俗と金にまみれたプロだからこそ、心の奥底ににスポーツマンシップを温めているのかもしれない。仕事としてグラウンドに立つプロだからこそ、本当の真剣勝負に、チームメイトに餓えていたのかもしれない。「日本」ではなく、「日本の野球」を示せたことを誇りに思い、満足していると異口同音に語っていた選手たち。NYタイムスは、「ベースボールに野球が勝った日」とタイトルをつけたという。日本の、韓国の、キューバの、オーストラリアの、カナダの、南アフリカの球遊びがある。クリオールベースボール誕生の一頁が開いた。イチローよ、アメリカで辛かったんだな。

愛・地球博

2006-03-19 11:48:49 | ノンジャンル
というのだが、名古屋万博は。
愛とか地球という言葉とよくも悪くもいかにもかけ離れた土地柄か、名古屋にしばらく滞在して笑えるほどだった。名古屋に行ったら、「大須のコメ兵」を見物して、「世界の山ちゃん」で手羽先食ってください。

死刑

2006-03-18 13:10:17 | ノンジャンル
死刑には復讐の代行という側面があるのは自明です。

民主主義が排除の論理を持つのは自明であり、それが法治です。
「吊してしまえ!」という「国民感情」の暴走を食い止める手段は法とその手続きにしかないのです。被害者に代わって「復讐」する権利は国家権力にしか許されていません。だからこそ、「推定無罪」が前提となり得るのです。一方、排除の論理を持たないのが全体主義です。国家総動員体制というやつです。この甘美な罠に捕らわれないために、冷徹な法執行が求められているのです。安田好弘弁護士の法廷戦術がその冷徹において遺族の憤激を招こうと、法手続的には間違っていないようです。遺族は遺族に過ぎないのであって、まずその権利を守られるべきはこの場合、被告であることは自明です。いかに鬼畜に等しい所業をなし、改悛とはほど遠い気持ちを持ち続けていようと。そして、そうした一切を認めず、個人的な復讐を晴らす場合、それは法の埒外のことになります。排除の論理を自ら選びとることも、実際にはできます。それでは是非の問題ではなくなります。法治とは是非の判断を国家に委ねることであり、それを斥けるのは一般に反社会的な行為となります。そして、個人的な復讐を果たした個人という問題に留まらないと、排除の論理が発動されます。振り出しに戻ります。

ブロークバックマウンテン

2006-03-17 14:06:22 | ノンジャンル
まだ、観ていないのだが、アカデミ作品賞を逃して、かえって映画紹介業界では前評判が高くなったようだ。「カウボーイの同性愛、あるいはゲイを描いた映画である」が、「普遍的な愛の物語でもある」という紹介例が多いようだ。ま、それはそうなんだろうが、何か慣用に堕落している気がしてならない。「根岸の里の侘び住まい」みたいに、「愛」が安直なアンチョコ化していないか。そんなやたらに「愛」があるのかな。ないからこそ、映画や小説が愛に満ちているのではないか。毛唐は、「愛してる」としょっちゅう言うらしいから、愛についてよくわかっているのだろうが、たぶん一生に一度もいわない人が少なくない日本人の一人としては違和感があるなあ、したがって、愛国心というにも同様だ。だいたい、「国を愛する心」なんて、本当に私たちはわかっているのだろうか。昔の人も、愛国とはいっていたが、その上には忠君がついていたはずだ。忠君することが国を愛することだとこれは具体的な行動指針が付いているからよくわかる。シリアルキラーの映画では、「誰しも無縁とは言い切れない人間性の暗黒面」という、「それにつけても金の欲しさよ」がある。愛国心はそれを裏返して、人が人や家族や故郷を大切に思う心は、人種や宗教や言葉は違えども古今東西変わらないだろう、とよくいわれる。でも、人や家族や故郷まではともかく、国まではなあという疑問がすぐに頭をもたげる。どの言葉も深遠そうにみえて、その実ひどく大ざっぱじゃないか。もっと身近でわからない言葉が、「自分を愛せない人間に人は愛せない」。おいおい、自己愛で、ナルちゃんでいいのか。「自分を大切にしない人間は人を大切にできない」という応用ならわかる。自暴自棄になったら、他人のことなんぞかまっちゃられないからね。ただし、ふつうは親や兄弟、友人などから大切にされた覚えがあるから、身近な人たちを大切にしたいと思うという順序だろう。どうやら、「自分~」という発語と愛が関係するらしい。ならば、「自分を騙せない人間に人は騙せない」という言葉もある。以上、愛について、私が知っちゃいない二三の事柄である。あー、休みも終わりだ。

大学は大人が行くところじゃない

2006-03-08 11:43:19 | ノンジャンル
外国は知らないが、日本の大学院、とりわけ90年代から粗製濫造された大学院は人生の無駄。伝統ある大学院もこれはこれでいまだにスゴイところ。たいていの大学院教授たちのほとんどが欧米に留学しているにもかかわらず、けっして大学や講義を改革しようとはしないところがいちばんスゴイかも。教育力貧困というより、教育者だという自覚に乏しいところが絶望的。医学部にはくわしくないが、教養教育の重視なんて言い出しているところをみると、似たようなものだろう。高等教育の研究者や教育者を育てる教育学部以外の学部と大学院が20年前にほしかった。