コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ゲド戦記

2006-07-26 01:35:57 | ノンジャンル
どうせなら、吉田司の「下下戦記」をアニメ化してみろやい。
俺は「火垂るの墓」より「はだしのゲン」を支持する。
「課長 島耕作」ではなく「なにわ金融道」を支持したように。

ところで、中島みゆきのトリビュート・アルバム『元気ですか』中の福山雅治「ファイト!」がすばらしい! カバーというよりほとんどオリジナル。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリアナ

2006-07-22 23:27:17 | レンタルDVD映画
ハリウッドをなめちゃいけない。元CIAが書いたノンフィクションを原作に、謀略渦巻く中東の石油利権をめぐる敵味方不明のグチャグチャ。アメリカの「麻薬戦争」を重層的に描いた「トラフィック」と連作ともいえる「石油戦争」映画だ。主演のジョージ・クルーニーにとっては、イラク派遣の米兵が宝探しをする「スリー・キングス」の続編になる。いずれの作品もハリウッドを牙城とする民主党リベラル派が、中東についてどのような認識を共有しているかがわかって興味深い。


「スリー・キングス」は半端な「キャッチ22」のような駄作だったが、イラク兵に捕まった米将校クルーニーが拷問として石油を呑まされそうになるシビアな場面があった。「お前らアメリカ人はこれが欲しいんだろ」と。「シリアナ」でもベテランCIAのクルーニーは、アラブ人から爪を剥がされる拷問を受ける。「これは戦争だ!お前は捕虜だ」と。つまり、世界に平和と民主をもたらすというアメリカのグローバリズムへの批評を込めたシーンである。批判や告発ではなく。したがって、いまレバノンでイスラエルが実行し、アメリカがそれを支援しているような、アラブの人たちを殺し傷つける場面は決して描かれない。誰が誰への批評か。民主党リベラル派から共和党ブッシュ政権への、批評だ。

冒頭に敵味方不明といい、戦争映画だとしたが、実はそうではない。いまや地上最強最大の帝国であるアメリカに正面敵はいない。アメリカの敵は必ずアメリカ自身なのである。「トラフィック」でも、この「シリアナ」でも、ぬけぬけとそう描いている。「ドキュメンタリータッチ」を駆使して、きわめてリアルな描写を重ねながら、結局は帝国の宮廷内の権力闘争を観せられているに過ぎない。観客は観終わった後、アメリカ帝国をあるがままの事実と受け入れ、その強大さを強く印象づけられる。そうした重大な虚偽とプロパガンダに奉仕する映画だ。この映画に本当のリアリティがあるとすれば、アメリカ帝国の自壊への恐怖だけである。自爆テロに赴くワシームも、改革派のナシール王子の暗殺も、周縁の些末なエピソードに過ぎない。やはり、いい気なハリウッド映画なのだ。そのように眉をひそめて観なくてはいけない。そんな映画なら観たくない、というなら、あなたは私の友だちである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忌野清志郎が喉頭がんで入院

2006-07-20 11:44:40 | ノンジャンル
たしか、深夜枠のバラエティ番組「11PM」だった。「最近の若者の言葉の乱れを憂う」という趣旨で、当時少し売れ出していたバンドを集めて、その歌詞をあげつらうという企画だった。忌野清志郎は「雨上がりの夜空に」、桑田佳祐は「勝手にシンドバッド」を歌い、軽く扱われ、実際に軽いにいちゃんだった。テレサ・テンも来日したばかりの頃は、出稼ぎに来た台湾クラブのねえちゃん扱いされていた。歌番組の司会者は尻を触らんばかりだった。


で、当時キャスターをつとめていた藤本義一は、「勝手にシンドバッド」を「歌詞が聞き取りにくい、わからない」といい、「雨上がりの夜空に」を「稚拙」と評した。俺はもちろんどちらもいいと思っていたが、当時、藤本義一を「人肉サラダ」というべらぼうに面白い小説を書く人だと尊敬していたので、自分の感想と違って少しがっかりした。言葉をリズムに乗せるために工夫を凝らした「勝手にシンドバッド」は「人肉サラダ」の大阪弁の小気味よさにも通じるし、「雨上がりの夜空に」は、まず走り屋のにいちゃんの歌であり、学園経験に偏った詞を書いていた「フォークシンガー」だった清志郎がその持ち味である叙情性を、ロックに乗せてみせた挑戦をわかっちゃいないな、でもはるかにオヤジで上方落語好きの藤本義一なら仕方ないなとも思った。検索してみたら、傑作「人肉サラダ」は廃刊になっていて、古本でしか買えなくなっていた。

いま読んでみると、「雨上がりの夜空に」はたしかに清志郎らしくない稚拙な歌詞だと思う。しかし、清志郎が追悼されるとすれば、この歌を代表曲としてメディアは流すのだろうな。ただ、「雨上がりの夜空に」は、車とドライブに擬して、女とセックスを歌ったとも思える。「11PM」は新人扱いしていたが、当時、「知る人ぞ知る」忌野清志郎は桑田佳祐よりはるかに年長、大人だったのだから、ロックで売れ線を狙った「雨上がりの夜空に」にそのくらいの企みがあってもおかしくない。「こんな夜に発射できないなんて~」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラッシュ

2006-07-19 23:56:14 | レンタルDVD映画
アカデミー作品賞受賞映画。さすが、脚本・演出とも文句のつけようがない。ポリティカル・コレクトネス(PC:政治的な公正)に十全に配慮した見本。アメリカじゃ、まだこういう映画が、「良心的な作品」として、「静かな感動」を呼ぶのか。白人以外も同じ人間じゃないかというレベルなのか。差別者の差別は苦しみの表現であり、被差別者は差別者に許しや癒しを与える添え物なのか。映画としては人間の紐帯という希望に縋ろうとしているが、つまりは諸々の社会改革は破綻したというわけで、その意味では絶望的な映画といえる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノドンの下で

2006-07-19 13:44:00 | ノンジャンル
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(日本国憲法前文・後段)


だから、日本人は、W杯など「世界」と冠したものに弱いのだな。憲法の理念が国民間にそれなりに定着しているわけだ。日本人は、「平和を愛する諸国民」が「自国のことのみに専念して他国を無視することのない国家」を築き、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」を構成していると思っている。少なくとも思おうとしている。また、そう思っても、あながち咎めたてられない戦後史を歩んできたといえる。

周知のように、日本国憲法は占領国だったアメリカから下げ渡されたものだ。したがって、アメリカもまた、「平和を愛する諸国民」が「自国のことのみに専念して他国を無視することのない国家」を築き、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」を戦後つくろうとしてきたことはいうまでもない。ただ、アメリカ人がそう思うことについては、激しく異議申し立てをする「諸国民」や「国家」や国連などの「国際社会」は枚挙にいとまがないだろう。アメリカのベースボールの頂点をワールドシリーズというように、アメリカこそが「世界」であって、「諸国民」や「他国」や「国際社会」にアメリカ人は興味がないようだ。

サンクトペテルブルグのサミットの席上において、ブッシュ大統領は食物を咀嚼しながら、ウェイターのようにブレア首相を呼びとめ、「あのクソヒズボラをなんとかするように、アナンは電話してほしいものだ」といったのを、うかつにも切り忘れたマイクが拾ってしまった。同じ理念から出発しながら、60年後、夜郎自大を極める彼とアメリカ。サッカーW杯に、平和を愛する「世界」を夢想する我々。60年前、憲法前文を日本人はどのように読んだのだろうか。たぶん敗戦の虚脱感と厳しい生活のなかで無垢な気持ちが大半を占めたのではないか。その無垢において、現在の我々とさほど変わりないように思う。たとえその無垢が、自宅に放火して母と妹を殺して逃げた少年が、他家の居間に忍び込んだわけを、「ワールドカップを観たかった」と供述するような稚拙な夢から発していたとしても、それを現実からの逃避と誰がいえようか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする