コタツ評論

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清原バッシング

2005-08-31 12:28:00 | ノンジャンル
正味は妬心だ。下品な筋肉バカを体現しているのはいまや清原くらいだから。かつては、「がんばりまっす!」くらいが相場だったのに、イチローはまるでエンジニアみたいに話すし、松井も大手企業の営業課長のように落ち着いている。中田はイタリア語だけでなく英語でもインタビューを受けている。運動会でべそをかいていたような新聞記者には嘲笑うことができず困ってしまう。プロにまでなるような選ばれた人間がどのような意味でもバカだとは考えにくいのに、それを認めたくない。自らと比べて、不当な栄光と高収入だと。

小泉はやるねえ。無党派市民層のとりこみに的を絞った。なるほど、自民党を解体する道だ。政党政治の終焉だ。いっつも、日本では権力側に先手をとられる。岡田の政権選択や新党の政策論争は、戦略的にすでに敗北したと予見しておく。反撃のカードがあるとすれば、ナショナリズムだろうが、怖くて切れまい。サッカーのワールドカップと衆議院選挙は誰でもにわか評論家になっていいと、セルジオ越後もいっているんだ。


高校野球とオリンピック

2005-08-28 12:27:15 | ノンジャンル
悪しき商業主義という批判はわかるが、非商業主義はあり得ないことは自明。かつてのソ連や東独のような超国家主義以外に、まったくの非商業主義があったか。あった。もともとオリンピックは貴族のスポーツの祭典。車夫馬丁の参加はなかった。参加したとしても、エンゲルスがルポしたように身長160cmそこそこの炭坑夫が、日常的にスポーツを楽しんでいる180cmを越える貴族たちに勝てるわけがない。学生時代、土方のバイトをしていたのに、医者に行ったら「運動不足」と診断されたことがある。農耕馬とサラブレットみたいなもの。階級とはそれほど激しい差を生むようだ。第二次大戦後、独立を果たしたアジア・アフリカといった欧米からみれば、「車夫馬丁」国家が参加して、そのナショナリズムの上にオリンピックは世界性を獲得した。貴族主義-国家主義-商業主義は不可逆。制御できないほど商業主義が拡大したというより、民族国家の背骨を失いつつあるオリンピックは商業主義によってかろうじて延命しているという方が事実なのでは。

学校体育からはじまる高校野球も国家主義と無縁ではなかったが、かつて小中学校の秋の運動会が村や町のお祭りであったように、実は甲子園より地方予選の方が盛り上がるのが高校野球だ。地方紙の協賛広告が増え、会場近くの旅館が潤い、スポーツ用品店が忙しくなり、アイスが売れ、飲み屋が賑わう。目くじら立てるほどの商業主義の行き過ぎはないのでは。有名野球校のプロ野球並みのナイター施設や入学金や授業料免除した「外人部隊」の獲得といった金の問題も、企業努力の範囲だろう。それをいうなら、国立大付属や有名進学私立校の越境入学や施設、授業料、少人数授業、教員の質も同様に問わなければ。くわえて、後者には地域に対するこれといった経済波及効果は乏しいのだ。東京などの首都圏に進学し、最近の予備校は米有名大学への留学まで勧めている。地域から金や若者は流出するばかり。

苫小牧駒沢高の暴力事件

2005-08-27 12:23:17 | ノンジャンル
にちょっと驚いた。「暴力事件」になったことに。なんだい、いまどきの高校野球部じゃ、体罰やらないのか? 昔から、高校の野球部は腕っぷしに自信のある不良の巣。ほっとけば、酒煙草あったりまえ、ビンタバシバシ、ケツバットガンガンでなければ、治めようがないだろう。疑似兵役みたいなものなんだから、「暴力」も含めた身体の訓練は不可欠。頭だけでなく、身体でも記憶したり考えるし、それができることがわかる。勉強もせずに日に5時間も6時間も猛練習するのと、運動もせずに塾を掛け持ちして寝る間も惜しんで受験勉強するのとは等価。どちらもやるのが理想だが、スポーツ産業と受験産業に奉仕する歪みから、少年たちには等身大以上の負荷がかかる。ただし、高校野球は苫小牧駒沢高のように地域の活性化に寄与する公共財といえるから、選手たちの負荷は地域住民の共感によってカタルシスを迎え、やがて解消できる。つまり、高校野球はいわれるような集団主義だけでなく、日本には珍しく、傑出した能力や強い精神力を褒め称える文化なのだ。受験界もこれに学ぶべきである。思考力の中心である論理的に考えるということの訓練に、チームやグループなどの集団主義の働きは有効だろうし、五感を働かせるという反復運動も必要なはず。くわえて、学習に関して傑出した能力や個性を褒め称える、地域が共感できる仕組みをつくれるかどうか。高校野球の選手に地域住民が共感するのは、球児たちの大多数が向都離郷せずに、そのまま地元で暮らし続けるからだ。だから、高校野球という文化的記憶は再生産される。田舎の秀才や俊才が向都離郷せずに、少なくともUターンして地元で活躍できる場が地域に用意されねば、その知的な能力や精神力は再生産されず、公共財にはなり得ない。これからこうあるべきだという話ではない。かつての日本はかなりそうだったらしい。明治以降、学歴エリートは海外留学してキャリアを積んだ。そのまま欧米に残れば、高い収入と最先端の研究環境を得られたものを、それらをあえて袖にして、「世界の片田舎」である日本に帰国した。また、かつての日本の田舎では、生涯学習的な職業分野だった医師と教員が知的リーダーであり、ときには貧家の秀才のスポンサーともなった。すでに医師と教員に地方インテリの矜持はなく、貧家の秀才の立身出世も死語になったが、やはり人とスポンサードは必要だ。サッカー? Jリーグはたしかにプロ野球モデルを否定して欧州や南米のクラブチームを理想にして誕生したといわれるが、実際は高校野球や社会人野球に近いじゃないか。夏の甲子園を鼻先で嘲笑ってはならない。文化としても、ビジネスモデルとしても。地元といっても少なからぬ甲子園球児が有名野球校に越境入学だ、苫小牧駒沢も中心選手は大阪から入学しているって? いいんだよ、東京以外は均質な田舎なんだから。

NHKの『アウシュビッツ』(BBC)

2005-08-21 12:20:39 | ノンジャンル
歴史修正主義者から、猛烈な非難は起きなかったのだろうか。
アウシュビッツに着いて、そのままガス室に送られたのでは、証言も目撃もありえないな。アウシュビッツから解放された後も、さらに残酷な扱いが続けられたことにやはりショックを受けた。たとえば、捕虜となって収容されていたソ連兵1万人すべてが、スパイ嫌疑でソ連の強制収容所に送られたとか。そして、ナチスにもソ連にも、企画した人間にも手を下した個々にも、相手に憎悪どころか嫌悪の感情さえなかっただろうことにあらためて戦慄する。「絶滅工場」と呼ばれたように「死の生産性」を追及する仕事だったのだから。ルドルフ・ヘスが愛情溢れた家庭人だったことと少しも矛盾しないわけだ。

反米愛国?

2005-08-19 12:21:49 | ノンジャンル
とても愛国者とはいえないな、俺は。だが、愛国者であろうと、非国民だろうと、戦争になったら殺される。生死は選べない。それを国に命を捧げたとするのが、国家のからくり。これは強力ワカモト。
「まったりした日常」などアッという間に席巻される。大正デモクラシーからたった10年で日本は総力戦体制を組んだのだ。良心的兵役拒否や市民的不服従といった抵抗だけを取り出すことはできない。義務を免れるというだけでなく、権利を行使しないという2面があり、アメリカという国家の成立に深く根ざしている。これも強力ワカモト。日本は・・・、拝跪と服従こそ求められている。選挙をみればよくわかる。