読了。小説を読む楽しさを満喫させてくれました。感謝。
この本を10冊ほど買い込んで、友人知人にプレゼントしたい気になっています。口添えはしない。「いいから、読んでみて」と差し出すだけ。この本を読んでおもしろくなければ、その人は小説という読書ジャンルと相性がよくないと考えるしかない。それほどの作品だと思う。『カラマーゾフの兄弟』新訳で話題の亀山郁夫などは、もっと舞い上がっていて、某雑誌のアンケートに答えて、『オリガ・モリソヴナの反語法』を2002年のベスト1小説に数え上げ、「女ドストエフスキーの誕生」とまで書いたそうです。
巻末の注や参考文献、池澤夏樹と米原万里の対談、亀山郁夫の解説まで読んでみて、これまでの感想を大きく訂正する必要はないと思いました。ただ、担当編集者にかなり抑えつけられたのでは、という想像はただの邪推だったようです。編集者とのやりとりが明らかにされているわけではなく、連載がすんなり単行本にまとめられたという経緯が対談で語られているだけですが、これほどの原稿を毎回渡されて喜ばない編集者いないはず。きっと最終回を読んだときは欣喜雀躍しただろうと思った次第です。
私も亀山郁夫の解説とほぼ同じ感想です。もちろん、不案内な私には、「女ドストエフスキーの誕生」や「最初で最後のラーゲリ小説」という指摘の当否については何も言えません。ただ、この小説を読めば誰もが感じるだろうミステリー小説としてのスケールの大きさ(国家的な陰謀が絡んでいたとかではなく、なぜその人はそうなのかという深度のことですが)。または、謎解きに増すメロドラマとしてのカタルシスについて。私も強く同意同感したわけです。とくに私もエレオノーラとボリス・ミハイロフスキー大佐の間の真実が明かされたときは、目眩がしました。
私なりにいえば、亀山郁夫がいうようにロシア語に翻訳して、「最初で最後のラーゲリ小説」としてロシアの読者に読ませたいという願いより、まず「ベルサイユのバラ」を成功させた宝塚で舞台化してほしいと思いました。誰よりも、日本の婦女子の紅涙を絞ってほしい。実現すれば、数十年に渡るロングランになるはずです。クラッシックバレエや民族ダンスなどの舞踊、プラハ・ソビエト学校の国際色豊かな子どもたちの歌々、とびっきりの美少女に「どハンサム」を鍛えるオリガ・モリソヴナの機知に富む叱声。実に宝塚向きではありませんか。
米原万里は、当初、この題材をノンフィクションとして構想したそうです。舞踊教師オリガ・モリソヴナもその反語法も実在しました。ソ連崩壊後に公開された史料の渉猟から、オリガの反語法の謎が浮かび上がってくる小説の筋立ては、そのまま米原の取材活動をなぞっています。自伝的小説であり、ベリアは実名で登場してその犯罪を暴かれるし、引用されたラーゲリの体験手記の筆者にインタビューもし、スターリニズム下で流転する登場人物の多くに実在のモデルがいるようです。
亀山がいうように、もしこの題材をノンフィクションにしたなら、スターリニズム圧制下に過酷な運命を強いられても、なお人間は人間であるという「反語法」を描くことはできなかったでしょう。「反語法(二枚舌@亀山郁夫)」とは逆説(パラドクス)のような純論理ではなく、何より発語であり行為だからです。人間は人間であるという順接を繋ぐ「反語法」の全体性の記述は、小説でしか成し得ない。亀山の解説をそう読みました。
したがって、日本には日本の「反語法」があるはずです。その担い手は、米原万里のように女性の中から出てくるのではないかと考え、唐突ですが、「宝塚過激に」といったのです。「オリガ・モリソヴナの反語法」とはたんなる言葉遊びなどではありません。ポジをネガに、ネガをポジに、現実を反転させて見せる先鋭的な表現であり、自らと周囲を変えていく力を持ちます。国家や権力を所与のものとは考えない女性こそ、「反語法」の遣い手にふさわしいと思えるのです。
オリガ・モリソヴナはすでにいっています。
「僕の考えではだって? 七面鳥だって考えるけれど、結局はスープの出汁になってしまうんだよ」
米原万里は何冊もエッセイ集を出していますが、小説はこの一冊しか書かなかったようです。しかし、この作品だけで後世までその名を記憶されるでしょう。私も、『オリガ・モリソヴナの反語法 』を読んだ幸福をけっして忘れないと思います。
(敬称略)
この本を10冊ほど買い込んで、友人知人にプレゼントしたい気になっています。口添えはしない。「いいから、読んでみて」と差し出すだけ。この本を読んでおもしろくなければ、その人は小説という読書ジャンルと相性がよくないと考えるしかない。それほどの作品だと思う。『カラマーゾフの兄弟』新訳で話題の亀山郁夫などは、もっと舞い上がっていて、某雑誌のアンケートに答えて、『オリガ・モリソヴナの反語法』を2002年のベスト1小説に数え上げ、「女ドストエフスキーの誕生」とまで書いたそうです。
巻末の注や参考文献、池澤夏樹と米原万里の対談、亀山郁夫の解説まで読んでみて、これまでの感想を大きく訂正する必要はないと思いました。ただ、担当編集者にかなり抑えつけられたのでは、という想像はただの邪推だったようです。編集者とのやりとりが明らかにされているわけではなく、連載がすんなり単行本にまとめられたという経緯が対談で語られているだけですが、これほどの原稿を毎回渡されて喜ばない編集者いないはず。きっと最終回を読んだときは欣喜雀躍しただろうと思った次第です。
私も亀山郁夫の解説とほぼ同じ感想です。もちろん、不案内な私には、「女ドストエフスキーの誕生」や「最初で最後のラーゲリ小説」という指摘の当否については何も言えません。ただ、この小説を読めば誰もが感じるだろうミステリー小説としてのスケールの大きさ(国家的な陰謀が絡んでいたとかではなく、なぜその人はそうなのかという深度のことですが)。または、謎解きに増すメロドラマとしてのカタルシスについて。私も強く同意同感したわけです。とくに私もエレオノーラとボリス・ミハイロフスキー大佐の間の真実が明かされたときは、目眩がしました。
私なりにいえば、亀山郁夫がいうようにロシア語に翻訳して、「最初で最後のラーゲリ小説」としてロシアの読者に読ませたいという願いより、まず「ベルサイユのバラ」を成功させた宝塚で舞台化してほしいと思いました。誰よりも、日本の婦女子の紅涙を絞ってほしい。実現すれば、数十年に渡るロングランになるはずです。クラッシックバレエや民族ダンスなどの舞踊、プラハ・ソビエト学校の国際色豊かな子どもたちの歌々、とびっきりの美少女に「どハンサム」を鍛えるオリガ・モリソヴナの機知に富む叱声。実に宝塚向きではありませんか。
米原万里は、当初、この題材をノンフィクションとして構想したそうです。舞踊教師オリガ・モリソヴナもその反語法も実在しました。ソ連崩壊後に公開された史料の渉猟から、オリガの反語法の謎が浮かび上がってくる小説の筋立ては、そのまま米原の取材活動をなぞっています。自伝的小説であり、ベリアは実名で登場してその犯罪を暴かれるし、引用されたラーゲリの体験手記の筆者にインタビューもし、スターリニズム下で流転する登場人物の多くに実在のモデルがいるようです。
亀山がいうように、もしこの題材をノンフィクションにしたなら、スターリニズム圧制下に過酷な運命を強いられても、なお人間は人間であるという「反語法」を描くことはできなかったでしょう。「反語法(二枚舌@亀山郁夫)」とは逆説(パラドクス)のような純論理ではなく、何より発語であり行為だからです。人間は人間であるという順接を繋ぐ「反語法」の全体性の記述は、小説でしか成し得ない。亀山の解説をそう読みました。
したがって、日本には日本の「反語法」があるはずです。その担い手は、米原万里のように女性の中から出てくるのではないかと考え、唐突ですが、「宝塚過激に」といったのです。「オリガ・モリソヴナの反語法」とはたんなる言葉遊びなどではありません。ポジをネガに、ネガをポジに、現実を反転させて見せる先鋭的な表現であり、自らと周囲を変えていく力を持ちます。国家や権力を所与のものとは考えない女性こそ、「反語法」の遣い手にふさわしいと思えるのです。
オリガ・モリソヴナはすでにいっています。
「僕の考えではだって? 七面鳥だって考えるけれど、結局はスープの出汁になってしまうんだよ」
米原万里は何冊もエッセイ集を出していますが、小説はこの一冊しか書かなかったようです。しかし、この作品だけで後世までその名を記憶されるでしょう。私も、『オリガ・モリソヴナの反語法 』を読んだ幸福をけっして忘れないと思います。
(敬称略)