コタツ評論

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小沢に逆転無罪判決

2012-04-26 10:40:00 | ノンジャンル
正直、有罪判決が出ると思っていた。

NHKの解説では、以下の3点を無罪判決の背景として挙げていた。

①共謀の証拠がない
②4億円を隠す動機はない
③検察の違法取調べ


①は、記載に関して小沢に報告されていたかどうかなら、誰しも報告されていたはずと考えるのが自然だろう。
②ただの期ズレに動機を問われても困惑するばかりというのが、少しでも経費や売上げ計上、税務処理などの事務経験がある人間なら抱く思いだろう。
③は、発端となり、その決めてとなったのは、元秘書である石川被告が検察官の取調べを録音したICレコーダーの記録だろう。

現在、10時40分、判決内容のすべてはまだ明らかになっていないが、私たちに直接関係があるのは、③だろうと思う。「取調べの可視化」はやはり必要ではないか。<③検察の違法な取調べ>を裁判所が認定しなければ、①②では、「国民感情」を背景に、「推定有罪」になる可能性は少なくなかったのだから。

(敬称略)

山科系ソニー新社長

2012-04-24 23:14:00 | ノンジャンル


過去最大の5200億円の赤字に沈没したソニーに、51歳社長が誕生したそうだ。例によって、ソニーについて、な~んにも知らないのだが、TVで平井一夫新社長を観た感想。TVでこれだけハンサムに映るなら、実物はより以上、すれ違った人がたいてい振り返るほどかっこうよいはず。米倉弘昌経団連会長と並んだら、同じ人類とは思えないくらいだろう。

でも、平井新社長、笑うとよくない。ハンサム顔が幼児的に崩れるだけ。喋り方も軽薄で、知的な印象が薄い。プレゼンの上手な外資の日本人副社長みたいな感じ。商品やサービスのプレゼンではなく、副社長に応募した際の自分のプレゼンがもっとも巧いタイプ。もういちど念のためにいっておくと、ソニーや平井新社長についてな~んにも知らないのですが、ソニーは大丈夫かね、と思った。こんなできそこないのアメリカ人みたいなので、と。

山科系なのはしかたないにしても、薄っぺらいよなあ。チノパンに素足のスリッポン、ボタンダウンのピンクのシャツに薄手のブルーのスェーターを肩にはおって、代官山蔦屋書店で「カーグラフィック」でも立ち読みしている感じ(半疑問形?)。インチキ化粧品会社の社長が似合いそうな。ようするに、見かけが問題だと言いたいわけ。社長が務まりそうなのは何人もいるはずなのに、何もこんなに見かけのよくないのを社長にしなくても、とね。

下のアーサー・ビナードは、高校時代、日本の家電品の取説(マニュアルですな)の英文があまりに珍文なので、よく学校の掲示板に張り出してみなで笑っていたそうだ。そんな最低最悪の英語力だったのに、やがてアメリカ市場をメイドインジャパンは席巻したわけだ。英語ができれば、グローバル市場で勝ち残れるという考え方には、どこか本末転倒している気がする。偽アメリカ人がアメリカ人に、どう勝とうというのか。ま、5200億円赤字の責任がある元社長会長の出井伸之の路線なんだろうが、やっぱり人を見る目がないよな。

ソニー新社長兼CEO平井氏の素顔
http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/9278/

(敬称略)

今宵はベイシー伯爵をお招き

2012-04-23 00:21:00 | 音楽
ベイシー楽団の楽しさは受け継いでいてわるくない。

Count Basie Orchestra with Butch Miles, Doug Lawrence, etc.


けれども、昔オリジナルのベイシー楽団と比べてみると。

Count Basie Orchestra - CornerPocket (1962)


Count Basie Orchestra featuring Thad Jones,Frank Wess & Billy Mitchell 1960.


COUNT BASIE Concert 1965 1 6


どちらが50年前のバンドか、どちらの音が新らしいのか、古いのか。

Lester Young, Count Basie - INDIANA


そんなことはどうでもよくて、これだけ楽しけりゃ。

Count Basie Easin' it


ラカンを読むジジェクを読むスギちゃんだぜぇ~

2012-04-22 01:49:00 | ジョーク
スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek,1949年3月21日~)

怖い顔だなあ

次にご紹介するのはスラヴォイ・ジジェクが教えてくれた東欧のジョークです。 スラヴォイ・ジジェクとかユルゲン・ハーバーマスとか、かっこうのよい名前ですね。あくまで日本人の私からみてなので、同国人にとってもそうなのかわかりません。でも、吉本隆明だって、よしもとりゅうめいだかららしいので、よしもとたかあきなら平凡で、ありがたみが薄い気がしませんか。

きんたまジョーク①

バーに客が一人座っていてウィスキーを飲んでいる。猿が一匹、カウンターの上を踊りながらやってきて、客のグラスのところで止まると、睾丸をそれで洗い、また踊りながら行ってしまう。ひどく驚いた客はウィスキーを取り替えるよう命じる。猿はまた戻ってきて同じことをする。客は怒り狂ってバーテンに聞く。「あの猿がなんで俺のウィスキーできんたまを洗うのか、おまえ知ってるか」。バーテンは答える。「さあ、わかりませんね。あちらのジプシーに聞いてくださいよ。あいつなら何でも知っていますよ」。客がそのジプシーの方を向いた。ジプシーはバーの中を歩き回り、バイオリンと歌で客をもてなしていた。「なんであの猿が、俺のウィスキーできんたまを洗うのか、おまえ知ってるか」。ジプシーは落ち着き払って答えた。「ええ、知っています」。そしてジプシーは暗い悲しい歌を歌いはじめる。「なんであの猿が俺のウィスキーできんたまを洗うのか、ああなんで・・・」。

きんたまジョーク②

タタール人に占領された中世のロシアでの話である。あるタタール人の騎兵がひとけのない田舎道で若い妻を伴った農夫と行き会った。タタール人戦士はその妻とセックスしたいというだけでなく、暴行に侮蔑を加え、農夫をさらに辱めてやろうと、農夫に自分(タタール人)の睾丸を捧げ持ち、泥だらけの道で妻と交わっている間、睾丸が汚れないようにしろと命じる。タタール人がことを終えて馬に乗って行ってしまうと、農夫はくすくすと笑いはじめる。妻は、私があなたの目の前で犯されたというのに何がそんなにおかしいのかと尋ねると、夫は答える。「わからないのかい。あいつをだましたんだよ。あいつのきんたまなんか持っていなかったんだ。泥だらけになっているよ」

ウィスキーできんたまを洗う猿は、ビートたけしの「コマネチ」のようなかっこうをするのでしょうか。交わっている最中の揺れるきんたまを捧げ持つとは、伏射するような姿勢なのでしょうか。ジジェクによると、この2つのジョークはほとんど同型だそうです。ラカンが「精神分析の倫理」というセミナーで、現代知識人の二つのタイプ、愚者(フール)と無頼(ネイブ)の違いについて指摘したことを、「余すところなく」活写したジョークだといいます。さて、ラカンはこういっています。

「愚者」は無垢で、単純だが、この「愚者」がときに道化の刻印をまとっているという事実のおかげで、その口から発せられる真理は容認されるだけでなく、用いられもする。私の見るところでは、左翼知識人の重みを証明するのは、同様の幸福な影、同様の根本的な「愚かな言動」である。(中略)
無頼はその姿勢に含意される一種のヒロイズムのある皮肉屋ではない。正確にいうと、スタンダールが「純然たる悪党」と呼んだものである。つまり、おなじみの凡人に他ならず、ただ個性が少々強くなった凡人である。
誰もが知っているように、無頼の自分の見せ方は右翼知識人のイデオロギーの一部をなしていて、それはまさに私は「無頼」ですよという役を演じるというものである。言い換えれば、彼はリアリズムと呼ばれるものの帰結から退却せず、必要なら自分を悪党だと認めるということである。(中略はコタツの仕業)


ジャック=マリー=エミール・ラカン
(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901年4月13日~1981年9月9日)

難解で有名ですが温顔ですね

ジジェクによるラカンの解説はこうです。

ようするに、右翼知識人は無頼であり、所与の秩序の根拠として、ただそれがそこに存在するということだけを言う体制派、左翼の「ユートピア的」計画を必ず破滅するとバカにする。対して左翼知識人は愚者であり、現在の秩序にある嘘を公然と見せる道化である。その見せ方がその言葉のパフォーマンスとに実効性をなくするようなものである。現在、無頼は新保守主義的に自由市場を唱導し、あらゆる形の社会的連帯は生産性に反する感傷だと言って冷酷に否定する人々のことであり、愚者は脱構築派の社会批評家で、彼らは既存の秩序を「ひっくりかえす」べき滑稽な手順によって、実は既存の秩序の補助をしているのである。

胸のすくジジェクの切れ味。「あらゆる形の社会的連帯は生産性に反する感傷だと冷酷に否定する人々」こそ、東北大震災復興のきわめて感傷的なスローガンになった「絆」の唱導者であること。その一方で、脱原発派が、「既存の秩序を<ひっくりかえすべき>滑稽な手順によって、実は既存の秩序の補助をしている」こと。つまり、原発再稼働に際し、100%の安全性を担保する完璧な手続きを、福島原発事故の責任者たちに求めていることなど、すぐに日本の状況に適用できます。

では、ジョーク①②の中で、愚者と無頼は誰でしょう。誰でも、猿とタタール人をまず除外するでしょう。客と農夫が残ります。どちらが愚者でどちらが無頼でしょうか。猿に怒る客が愚者、タタール人にしてやったり顔の農夫が無頼、前者が左翼知識人、後者が右翼知識人と当てはめるのが妥当でしょう。ただのジョークならここまで、ふふふと笑っておしまいです。

もちろん、これで終わりではありません。客と農夫、愚者と無頼、左翼知識人と右翼知識人、そうした対比は入口に過ぎないというのです。混浴のように、入口は男女別々だが、風呂場の中ではいっしょ。ジジェクは、「愚者=無頼の悪循環を断つためには、精神分析が役立つ」といいます。「愚者=無頼」という二つの立場は、ともにリピドー」にとっての利益である「享楽」(ジュイサンス=jouissance:仏、enjoyment:英)によって支えられている。その「享楽」をあからさまにするのが、精神分析の役割だそうです。

そういうわけで、保守派の痴者も、具体的な不満(「どうして我々にとってひどい状況なのか・・・/ゲイ、黒人、女性」)に答えるときには、やはり永遠の運命についての悲しい歌を歌う(どうして我々人民にとって、こんなにひどいことになっているのか、ああ、どうして・・・)このジプシーと似ていなくはない-つまり、彼は疑問の調子を、具体的な不満から<宿命>の謎という抽象的な受け入れに変えているのである。進歩的な愚者、「社会批評家」の満足は、ロシアの農民の満足と同様である。<主人>(マスター)から「享楽」(jouissance)のかけらを奪い取るという典型的にヒステリー的な満足である。第一のジョークの客が愚者であれば、猿にもう一度ウィスキーできんたまを洗わせるが、今度は泥やねばねばしたものをグラスに入れておくだろう。そして猿が行ってしまってから、勝ち誇って言うのだ。「ざまあみろ、あいつのきんたまは、前より汚くなったぞ」。

愚者と無頼の見分けがつきません。どちらも角度を変えて見たひとつの顔のようです。それでも愚者に比べると無頼はかっこうよい感じがします。それでか、ジジェクは、ここからいきなり「無頼」を「保守の痴者」と言い換えます。なるほど、愚者と痴者だと、言葉上では、ほとんど見分けがつきません。しかし、愚者と痴者が得る「享楽」は、やはり違います。「享楽」の表れ方が違うということのようです。

二つの立場、つまり愚者と痴者の立場は、それぞれ独自の「享楽」(ジュイサンス)を維持している。主人がこちらから盗んでいったジュイサンスの一部を奪い返す享楽(愚者の場合)と、主体の苦痛と直結する享楽(無頼の場合)である。イデオロギー批判に役立つために、精神分析にできることは、まさにこの、搾取される側、奴隷が、主人に仕えることに対して受け取る報酬としてのジュイサンスの地位を明瞭にすることにある。この「享楽」はもちろん、つねに、ある幻想の内部に生じる。だから隷従の鎖が切れるかどうかを左右する前提条件は、我々が主人に縛りつけられるように-我々に支配という社会内部の枠組みを受け入れさせるように-我々のジュイサンスを構造化している「幻想を横断する」ことである。

主人や隷従という言葉から、日本では容易にアメリカの属国という状況が浮かび上がってきます。日米機軸を言うのは、はたして愚者か痴者か。日本の自立を言うのは、愚者か痴者か。それ以前に、日本はアメリカの属国である、というときに私たちが得ている「享楽」とは何で、どのようなものか。さらにその前に、私たちの「猿」や「タタール人」とは何で、どのようなものか。そんな堂々巡りをしていると、スギちゃん」の「ワイルドだろぉ~」という自虐的な属国スタイルが脳裏に浮かんで消えなくなった。「スギちゃん」が受けるというのも、ひとつの「享楽」(ジュイサンス)なのだろうか。いや、誰でもすぐに真似できるからだな。

『幻想の感染』(スラヴォイ・ジジェク 松浦俊輔訳 青土社, 1999年)より、「2.汝の隣人を愛せ 大きなお世話だ」(74頁~)から。

(敬称略)

スギちゃん

おまけだぜぇ~
Count Basie & His Orchestra - (The) Fool on the hill
http://www.youtube.com/watch?v=18fgLKM0I7g&feature=player_embedded


者たちへ

2012-04-19 23:24:00 | 3・11大震災
BBCに限らず、世界各国のTVメディアが3・11大震災と福島第一原発事故の特別番組を放送したはず。日本でもゴールデンタイムに放送してもらいたいものだ。

「再稼働しなければ日本は・・・」と民主党はいうが、問題は再稼働が是か非かではなく、それを言う者への不信なのだ。「きちんと」「しっかり」した検証もせずに、したがって、重大な過ちを認めず、形ばかり謝ったふりをして、国民に「ご理解」と「ご協力」を求める者たちへ、信頼を置けないといっているに過ぎない。

「きちんと」「しっかり」した検証は、日本では今後も望めそうにないのは、先の北朝鮮ミサイル44分の確認遅れについて、わけのわからない答弁したのでも明らか。3・11以後も、以前とたいして変わっていないことを露呈してしまった。政治家や役人はもちろん、専門家も信頼できないなら、その信頼できない自分を信じていくしかない。

「メルトダウンの内側」日本語字幕付き/BBC This World 2012 Inside the Meltdown