モスクワの少年
いぜんシベリアを旅した話をしたね
ハバロフスクから終点のモスクワまで
モスクワには一週間ほど滞在してから
国際列車でクリスマスのパリに抜けたんだ
モスクワはさすがに見るところは多かった
ばかでかいレーニン像ばかりそれまで見てきたから
メトロポールホテルは芸術だと感激した
プーシキン美術館で印象派も見た
赤の広場は悪趣味だと思った
でもいちばん感心したのはメトロだった
ちょうどマクドナルドのモスクワ出店が騒がれた頃で
メトロのMはマクドナルドのロゴマークにそっくり
エスカレーターで深い地下鉄駅に降りていく
核戦争が起きたときはシェルターになるといわれるだけに
天井もはるかに高くて構内は広いんだ
贅沢にところどころ大理石も使っている
壁面や天井には彫刻が彫られていて
俗悪なポスターなんて一枚も貼っていない
まるで美術館の回廊を歩いているみたいだった
後でモスクワの建築物はパリの模倣ばかりと知ったけれど
地下鉄はパリのほうがずっと見劣りがした
東京や大阪とは比べものにならないね
べつに鉄道ファンではなかったけれど
当時発売されたばかりの液晶画面がついたビデオカメラで
地下鉄の駅ばかりを撮影して歩いた
モスクワを起点にすべての路線に乗った
ちょっとした仕事がらみでもあったから
ちゃんと三脚かついでバッテリーをたくさん持って
ビデオカメラは行き先々で大いに役立った
民警(ミリツァ)の警察官や地下鉄の職員に
不審がられたときでも
いま撮影した映像をすぐに再現してみせれば
驚いて喜んで感心してお咎めもなし
人だかりができても自信たっぷりに操作してみせれば
力関係は一人でも大勢を圧倒できるんだ
ただしひったくられたり壊される恐れがあるから
けっして機材を触らせたり持たせたりはしない
地上駅は貧しい人たちの寝ぐらになっていて
待合室は暖房で温められた小便と汗の臭いがこもっている
アメリカでは家を追い出されてホームレスになる人が多いけれど
モスクワのホームレスは故郷の家を捨ててきた人たちだそうだ
ホームレスといっても一人というのは少なくてほとんどが家族
幼児から夫婦その両親まで一家そろって駅で暮らしている
だからちょっとビデオ撮影はしにくいんだ
どこにレンズを向けても彼らの暮らしぶりを盗み撮りすることになるし
ビデオカメラは目立つから盗み撮りもできない
それに比べて地下鉄ではホームレスは閉め出されていて
目的地に向かって移動する乗降客ばかり
ずっと清潔で整然としている
撮影していても比較的に無関心な人が多い
それでもちょっと困ったことはあった
日本でいえば小学校5、6年生くらいの少年が後をついてくるんだ
地下鉄のモスクワ駅を撮影しているときに
近くで見ていたのは知っていた
たいてい一駅ごとに降り
ホームを端から端まで歩いて
アングルを決めるから
尾いてくる人間はすぐに見分けがつく
トウモロコシの毛のような黄色い髪で
ほっぺたが赤く痩せっぽちで
薄っぺらなジャンパーのポケットに
いつも両手を突っ込んでいて
つかず離れずの距離でついてくる
最初はかっぱらいかなと緊張したけれど
眼が合うとはにかむようにしているし
暖房がある駅や電車で遊ぶ子どもは多いから
暇を持て余した家出少年かもしれないと放っておいた
でもやっぱり気になるんだ
少し撮影に飽きていたのかもしれない
見物するのはおもしろいけれど
撮影手順は決まってきて単調になるからね
そこで手招きして少年を呼んでみた
ロシア語はまるっきりわからないから
ジェスチャーでファインダーを覗いてみろ
と躊躇している身体を押してやった
少年がいま見たばかりの
入線してくる電車と乗降客の様子を再生してみせたら
青い眼をほんとに丸くして驚いていた
やっぱりビデオカメラに興味があったようで
けっこう嬉しそうだった
お前を撮ってやるとカメラを向けたらあわてて逃げ回るんだ
ロシア人というのは田舎者が多いけど
あんまり真剣に逃げるんでちょっと驚いた
僕をTV局の人間で
自分がTVに映ると勘違いしたのかもしれない
これで気がすんだろう厄介払いできると思っていたら
その後も少年は相変わらずついてくる
手を振って追い払う真似をしてみせても
ちょっと立ち止まるくらいで
いつのまにか犬みたいに後ろを歩いている
貧乏たらしい子どもを連れていると
くみやすいと思うのか寄ってくる人がいてそれも面倒くさい
その人たちが少年に何かを尋ねたりして
顔を赤くした少年がモゴモゴしていると
関係ないのに何かこちらもみっともない気分になる
しかたなくまた呼び寄せて
重い方の三脚をかつがせてみた
助手代わりにしたら喜ぶかと思ったんだ
また青い眼を見開いたけど
あれは癖なのかもしれない
ちゃんとかついでついてきた
ひ弱そうだから持ち逃げしても
すぐに捕まえられると踏んでいた
本当にこき使ったわけじゃない
たいていは僕が持った
どこで降りていつ乗るか僕の気ままだからね
ようやく撮影を終えてモスクワに戻ったら
まだ5時前なのに地上はまっ暗だった
エスカレーターを上がったところで
少年に別れを告げた
振り向きはしなかったけれど
僕を見送っているようだった
車に向かって歩いていると
後ろからペタペタと駆けてくる足音がする
外国で駆け足を聴いたら気をつけなければいけないが
体重の軽い足音だから彼だなとすぐに気づいて
そのまま歩いていた
しまったと心で舌打ちした
撮影を手伝わして三脚を持たせたのだから
少し金をやるべきだったとね
振り返るとやっぱりあの少年で
走ってきたのと僕に何か云おうとして息が白かった
両手をポケットから出していたせいか
ちょっと怒っているようにも見えた
こいつ手袋もないのかと呆れた
金をくれというのだとは思ったけれど
あいにくルーブルは少ししか持ち合わせない
子どもにやるにしても少なすぎる
かといってドルや円では多すぎる
けれどみんなルーブルには顔を顰めドルや円を拝む国だから
きっと少年もドル札を要求するのではないか
そんなことを考えながら金を入れたウエストポーチをまさぐっていた
人通りのなかカメラや荷物を足元に置いて金を数えるのは
ちょっと危ない振る舞いだ
正直だんだん彼が疎ましくなっていた
掌のルーブルを取ってくれないかと差し出した
彼はいらだたしそうに何事か早口で繰り返し
万国共通の首を横に振る拒絶のジェスチャーをすると
逆に僕の掌に何か柔らかいものを握らせ
きびすを返して駅の方角に駆けていった
少年の後ろ姿は急いでいるようで
帰る家はあるようだと少し安心した
彼は一度もこちらを振り返らなかった
手を開いてみるとそれはキーホルダーだった
小さな熊のぬいぐるみの人形が付いていた
西側がボイコットしたモスクワオリンピックの
キャラクターになった何とかというクマだ
さすがにホテルに帰ったら疲れを覚えたけれど
日本語のわかる人をつかまえて
少年が別れ際に繰り返した言葉を想い出し
何度か発音してみせてようやくその意味を知った
どうも「礼」とか「償い」いう意味らしかった
ビデオカメラのファインダーを覗かせてくれた
そのお返しにキーホルダーを上げます
そういうことのようだった
お湯の出の悪いシャワーを浴び
夜は埃っぽいディスコになるダイニングルームで
夕食を摂る間マンガチックな小さい熊を眺めながら
少年の行動を考え直してみた
ビデオカメラを見せてやったお返しだとすると
このキーホルダーを僕に渡したくて
その後もついてきたと思えた
そうではなくて何か礼をしたいと思ったけれど
なかなか思いつかずにいたのかもしれない
それとも一目で安物とわかる上に
擦りきれたようなクマ人形だけれど
愛着があって手放すには
けっこう決心がいったのかもしれない
僕の手にこれを握らせたとき
ちょっと得意げな顔をしていたようにも思える
それが僕には何か見下されたような感じを受けたので
数えもせずにルーブル札を差し出したのかもしれない
ようするに少年は好意には礼をもって報いるという
男の子らしい矜持を僕に示したということらしい
もちろん少年がくれたキーホルダーは
どこかで失くしてしまった
僕はまだ旅の途中で
次に訪れるはじめてのパリに胸を高まらせていた
少年の顔はもう忘れてしまった
ただモスクワの地下鉄が立派だったことは
いまでも覚えている
(9/17/2001)
いぜんシベリアを旅した話をしたね
ハバロフスクから終点のモスクワまで
モスクワには一週間ほど滞在してから
国際列車でクリスマスのパリに抜けたんだ
モスクワはさすがに見るところは多かった
ばかでかいレーニン像ばかりそれまで見てきたから
メトロポールホテルは芸術だと感激した
プーシキン美術館で印象派も見た
赤の広場は悪趣味だと思った
でもいちばん感心したのはメトロだった
ちょうどマクドナルドのモスクワ出店が騒がれた頃で
メトロのMはマクドナルドのロゴマークにそっくり
エスカレーターで深い地下鉄駅に降りていく
核戦争が起きたときはシェルターになるといわれるだけに
天井もはるかに高くて構内は広いんだ
贅沢にところどころ大理石も使っている
壁面や天井には彫刻が彫られていて
俗悪なポスターなんて一枚も貼っていない
まるで美術館の回廊を歩いているみたいだった
後でモスクワの建築物はパリの模倣ばかりと知ったけれど
地下鉄はパリのほうがずっと見劣りがした
東京や大阪とは比べものにならないね
べつに鉄道ファンではなかったけれど
当時発売されたばかりの液晶画面がついたビデオカメラで
地下鉄の駅ばかりを撮影して歩いた
モスクワを起点にすべての路線に乗った
ちょっとした仕事がらみでもあったから
ちゃんと三脚かついでバッテリーをたくさん持って
ビデオカメラは行き先々で大いに役立った
民警(ミリツァ)の警察官や地下鉄の職員に
不審がられたときでも
いま撮影した映像をすぐに再現してみせれば
驚いて喜んで感心してお咎めもなし
人だかりができても自信たっぷりに操作してみせれば
力関係は一人でも大勢を圧倒できるんだ
ただしひったくられたり壊される恐れがあるから
けっして機材を触らせたり持たせたりはしない
地上駅は貧しい人たちの寝ぐらになっていて
待合室は暖房で温められた小便と汗の臭いがこもっている
アメリカでは家を追い出されてホームレスになる人が多いけれど
モスクワのホームレスは故郷の家を捨ててきた人たちだそうだ
ホームレスといっても一人というのは少なくてほとんどが家族
幼児から夫婦その両親まで一家そろって駅で暮らしている
だからちょっとビデオ撮影はしにくいんだ
どこにレンズを向けても彼らの暮らしぶりを盗み撮りすることになるし
ビデオカメラは目立つから盗み撮りもできない
それに比べて地下鉄ではホームレスは閉め出されていて
目的地に向かって移動する乗降客ばかり
ずっと清潔で整然としている
撮影していても比較的に無関心な人が多い
それでもちょっと困ったことはあった
日本でいえば小学校5、6年生くらいの少年が後をついてくるんだ
地下鉄のモスクワ駅を撮影しているときに
近くで見ていたのは知っていた
たいてい一駅ごとに降り
ホームを端から端まで歩いて
アングルを決めるから
尾いてくる人間はすぐに見分けがつく
トウモロコシの毛のような黄色い髪で
ほっぺたが赤く痩せっぽちで
薄っぺらなジャンパーのポケットに
いつも両手を突っ込んでいて
つかず離れずの距離でついてくる
最初はかっぱらいかなと緊張したけれど
眼が合うとはにかむようにしているし
暖房がある駅や電車で遊ぶ子どもは多いから
暇を持て余した家出少年かもしれないと放っておいた
でもやっぱり気になるんだ
少し撮影に飽きていたのかもしれない
見物するのはおもしろいけれど
撮影手順は決まってきて単調になるからね
そこで手招きして少年を呼んでみた
ロシア語はまるっきりわからないから
ジェスチャーでファインダーを覗いてみろ
と躊躇している身体を押してやった
少年がいま見たばかりの
入線してくる電車と乗降客の様子を再生してみせたら
青い眼をほんとに丸くして驚いていた
やっぱりビデオカメラに興味があったようで
けっこう嬉しそうだった
お前を撮ってやるとカメラを向けたらあわてて逃げ回るんだ
ロシア人というのは田舎者が多いけど
あんまり真剣に逃げるんでちょっと驚いた
僕をTV局の人間で
自分がTVに映ると勘違いしたのかもしれない
これで気がすんだろう厄介払いできると思っていたら
その後も少年は相変わらずついてくる
手を振って追い払う真似をしてみせても
ちょっと立ち止まるくらいで
いつのまにか犬みたいに後ろを歩いている
貧乏たらしい子どもを連れていると
くみやすいと思うのか寄ってくる人がいてそれも面倒くさい
その人たちが少年に何かを尋ねたりして
顔を赤くした少年がモゴモゴしていると
関係ないのに何かこちらもみっともない気分になる
しかたなくまた呼び寄せて
重い方の三脚をかつがせてみた
助手代わりにしたら喜ぶかと思ったんだ
また青い眼を見開いたけど
あれは癖なのかもしれない
ちゃんとかついでついてきた
ひ弱そうだから持ち逃げしても
すぐに捕まえられると踏んでいた
本当にこき使ったわけじゃない
たいていは僕が持った
どこで降りていつ乗るか僕の気ままだからね
ようやく撮影を終えてモスクワに戻ったら
まだ5時前なのに地上はまっ暗だった
エスカレーターを上がったところで
少年に別れを告げた
振り向きはしなかったけれど
僕を見送っているようだった
車に向かって歩いていると
後ろからペタペタと駆けてくる足音がする
外国で駆け足を聴いたら気をつけなければいけないが
体重の軽い足音だから彼だなとすぐに気づいて
そのまま歩いていた
しまったと心で舌打ちした
撮影を手伝わして三脚を持たせたのだから
少し金をやるべきだったとね
振り返るとやっぱりあの少年で
走ってきたのと僕に何か云おうとして息が白かった
両手をポケットから出していたせいか
ちょっと怒っているようにも見えた
こいつ手袋もないのかと呆れた
金をくれというのだとは思ったけれど
あいにくルーブルは少ししか持ち合わせない
子どもにやるにしても少なすぎる
かといってドルや円では多すぎる
けれどみんなルーブルには顔を顰めドルや円を拝む国だから
きっと少年もドル札を要求するのではないか
そんなことを考えながら金を入れたウエストポーチをまさぐっていた
人通りのなかカメラや荷物を足元に置いて金を数えるのは
ちょっと危ない振る舞いだ
正直だんだん彼が疎ましくなっていた
掌のルーブルを取ってくれないかと差し出した
彼はいらだたしそうに何事か早口で繰り返し
万国共通の首を横に振る拒絶のジェスチャーをすると
逆に僕の掌に何か柔らかいものを握らせ
きびすを返して駅の方角に駆けていった
少年の後ろ姿は急いでいるようで
帰る家はあるようだと少し安心した
彼は一度もこちらを振り返らなかった
手を開いてみるとそれはキーホルダーだった
小さな熊のぬいぐるみの人形が付いていた
西側がボイコットしたモスクワオリンピックの
キャラクターになった何とかというクマだ
さすがにホテルに帰ったら疲れを覚えたけれど
日本語のわかる人をつかまえて
少年が別れ際に繰り返した言葉を想い出し
何度か発音してみせてようやくその意味を知った
どうも「礼」とか「償い」いう意味らしかった
ビデオカメラのファインダーを覗かせてくれた
そのお返しにキーホルダーを上げます
そういうことのようだった
お湯の出の悪いシャワーを浴び
夜は埃っぽいディスコになるダイニングルームで
夕食を摂る間マンガチックな小さい熊を眺めながら
少年の行動を考え直してみた
ビデオカメラを見せてやったお返しだとすると
このキーホルダーを僕に渡したくて
その後もついてきたと思えた
そうではなくて何か礼をしたいと思ったけれど
なかなか思いつかずにいたのかもしれない
それとも一目で安物とわかる上に
擦りきれたようなクマ人形だけれど
愛着があって手放すには
けっこう決心がいったのかもしれない
僕の手にこれを握らせたとき
ちょっと得意げな顔をしていたようにも思える
それが僕には何か見下されたような感じを受けたので
数えもせずにルーブル札を差し出したのかもしれない
ようするに少年は好意には礼をもって報いるという
男の子らしい矜持を僕に示したということらしい
もちろん少年がくれたキーホルダーは
どこかで失くしてしまった
僕はまだ旅の途中で
次に訪れるはじめてのパリに胸を高まらせていた
少年の顔はもう忘れてしまった
ただモスクワの地下鉄が立派だったことは
いまでも覚えている
(9/17/2001)